九話

 同じ容姿の男は、カインツを見つめながらゆっくりと椅子から立ち上がった。その背格好に、黒い髪や群青色の瞳、任務でくたびれた服装まで、あらゆるものがカインツそのものだった。同じ顔同士の男二人は、驚きもあらわにお互いを凝視するが、次の瞬間、カインツの表情は変わった。


「……偽者め!」


 嫌悪に顔を歪め、机の向こうに立つ偽者につかみかかった。


「やっ、やめて……」


 カタリナの困惑した声が止めるが、カインツは聞かずに偽者の胸ぐらをつかんだ。


「どっちが偽者だ!」


 つかまれた偽者はカインツの腕を振りほどこうと抵抗しながら言った。


「わかりきったことだ。大人しく捕まれ!」


「偽者が騎士気取りか。冗談でも笑えない真似だな」


「お前こそ、私を真似たところで冗談では済まないぞ! 今すぐここで――」


「ユリウス、やめて! お願いだからこの手を離して!」


 横からカタリナに腕を引かれ、カインツは偽者を睨みつつ渋々胸ぐらから手を離した。後ずさり、距離を取るカインツを見ながら、偽者はふんっと鼻を鳴らし、乱れた服を直す。


「カタリナ、こいつは偽者だ。騙されるな」


 そうカインツが言うと、すかさず偽者も言う。


「そう焦って言うのは、お前が偽者だからだろう。……カタリナ、こいつの言うことは信じるな」


 二人の夫に言われ、カタリナはおろおろと視線をさまよわせる。そんな妻の肩をつかみ、正面から見据えたカインツは聞いた。


「カタリナならわかるだろう? 私が本物の夫だと。そうだと言ってくれ」


 必死に詰め寄るが、カタリナの表情から困惑は消えない。


「そんな……わからないわ。私には、どちらが本物かなんて……わからない」


「その手を離せ」


 近付いてきた偽者は、カタリナに触れるカインツの手をパシリと払い落とす。


「汚い悪魔の手で触れるな。……カタリナ、こっちへ来るんだ」


 呼ばれるが、カタリナは二人の間で迷い、決断できないでいる。


「見分けがつかないの……私には、二人ともユリウスにしか見えないわ……」


 容姿、思考、趣味から癖まで、すべて当人と同じなのが偽者という存在だ。家族さえ見分けがつかないのは当然で、カタリナが迷うのも無理はないことだった。だがカインツは自分こそが本物だとこの場で証明するために、再びカタリナに詰め寄った。


「私は聖地から帰ったばかりだが、この偽者は、いつここに現れたんだ?」


 視線を宙にさまよわせながらカタリナは答える。


「少し、前よ」


「少しって、どのくらい?」


「ユリウスが帰ってくる、五分か……十分くらい前……」


「こいつはカタリナの前に、どうやって現れたんだ?」


「その……私、出迎えに行くつもりで、いつもより早い時間に買い物に出かけて……でも、今日はどの店も混んでいて……夕食の材料も一緒に買いたかったから、買い物が長引いてしまって……家に帰ってすぐ出迎えに行こうとしたら、ユリウスが目の前にいて……」


「それは家の中か?」


「ええ、玄関の前に……」


 カインツは本物の証明を得るため必死に考える。偽者が現れたのが五分から十分ほど前のこと。その時、自分はどこにいただろうか……。


「偽者は偽者でしかない。いさぎよく諦めろ」


 睨む目の偽者が苛立った声で言ってきたが、カインツは構わず考え続けた。町に到着してからこの家に戻るまでは、三十分以上の道のりがある。それを踏まえて、頭の中で十分だけ道を後戻りさせた時、カインツはふと思い出した。そう言えば、途中で知り合いの老人と会わなかったか? お帰りなさいと声をかけられ、自分は会釈をした。あれは家からほど近いところだった。十分、いや、五分も経たない場所だったかもしれない。偽者が五分前に現れたというなら、その出来事を知らないはずだった。それこそが本物である証明になるかもしれない――カインツは力を込めた視線を向け、偽者と対峙した。


「一つ質問する。お前はこの家に帰る前、誰に声をかけられた」


「……声を?」


 首をかしげる偽者にカインツは強く迫る。


「言ってみろ。それとも、記憶にないか。ないのなら――」


「ああ、そう言えば……」


 はっと思い出した表情で偽者は言った。


「近所に住む老人とすれ違い、声をかけられた。カタリナのことを考えていて、あまり意識はしなかったが」


 カインツは愕然とした。唯一の証明になる出来事は、偽者の記憶にもしっかりと刻まれていた。しかも、カタリナのことを考えていたことまで同じだった。それを知っているということは、老人と会った以前の、カインツのすべての記憶を偽者は持っているということ――そうなると、この場での証明はもう不可能だった。


「……顔色が悪いぞ。自分が何者か、気付いたか?」


 動揺するカインツとは逆に、偽者は余裕とも思える落ち付きを見せている。その対照的な二人の夫を見て、カタリナはどうすることもできずにうろたえていた。本物はどちらなのか、それはカインツが誰よりもわかっている事実だ。だが偽者は、その事実を含んだ記憶さえ自分のものとしているため、まさか己が偽者とは夢にも思わない。そこが、偽者という存在の厄介なところで、恐ろしいところでもあった。当人になり切っていることに気付かず、当人そのものとして振る舞い続けるのだから、その態度にも気持ちにも偽りはない。ただ、その存在だけが偽りなのだ。


 目の前に立つ偽者のように、カインツも落ち付くべきだった。しかし、心はどうしようもなく乱れていた。自分が偽者にされるかもしれない焦りに、もうあるはずのない証拠を必死に探していた。偽者の威圧するような眼差しを避けてうつむいた下には、拳を握る自分の手があった。そこには、銀色に光る指輪が見える。


「……私は、私はカタリナと結婚している。見ろ。この指輪こそが何よりの――」


 薬指にはまる指輪を見せ付けるカインツだったが、偽者も黙ったまま左手を見せた。


「何を言っている。結婚指輪など、こちらも当然ある」


 同じように薬指にはまった銀色の指輪を見て、カインツは思わず手を伸ばした。


「違う。それは偽物だ! 本物なら内側に文字が……」


「なっ、やめろ! 触れるな!」


 偽者から強引に奪い取った指輪を窓からの光にかざし、カインツは目を凝らして確認した。するとそこには、カタリナとユリウスという文字がはっきりと、小さく刻まれていた。それを見てカインツは呆然とするしかなかった。


「まさか……」


「返せ! 私の指輪だ」


 偽者はカインツから指輪を分捕り、元の薬指にはめる。知識として、偽者は当人の身に付けたものまで真似ることは当然知っていたカインツだが、二人の名が刻まれたこの世に一つしかあるはずのない指輪まで存在していることに、大きな衝撃を受けずにはいられなかった。


「どうして……二つもあるわけが……」


「お前はやはり、偽者だ」


 カインツが振り向くと、相手は鋭く睨み据えて言った。


「偽者は当人の完全なる複製と言っていい。それは持っているもの、身に付けているものにまで及ぶ。私がこうして指輪を持っているのだから、お前も同じものを持っているのは当然のことだ。そんなことも知らず驚くなど、やはりお前は〝私〟ではない。騎士でもなければ人でもないのだろうな」


 完全な否定に、カインツの中の焦りは苛立ちへと変化していく。


「……それは、こちらのセリフだ。お前こそが偽者だ」


「何を根拠に。傍から見れば、どう見てもお前が偽者としか見えないぞ。焦り、驚いた顔をしているのはお前だけだ。それは偽者と知られたくないからだろう」


「違う。ただ偽者のいる状況に動揺しただけだ」


「偽者を排除する騎士が動揺? 嘘がばれやしないか冷や冷やしているだけだろう」


「そう言うお前はどうなんだ。額と首筋に汗が見えるぞ。冷静を装うのも辛いんじゃないか?」


 これに偽者は、わずかに表情を曇らせた。


「冷静に振る舞ってはいるが、お前も内心動揺しているんだ。同じセリフを返してやる。お前は〝私〟ではない。そう認めろ」


 ぎり、と歯噛みした偽者は、カインツを睨み付ける。


「……悪魔の分際で」


「何?」


「こざかしい悪魔は、私の手で、今すぐ排除してやる……!」


 言った直後、偽者はカインツに飛びかかってきた。


「本性を現したか……!」


 腕をつかみ合いながら、二人は取っ組み合いになって居間を動き回る。椅子を倒し、棚の置物を落としながらお互いの力で押さえ込もうとする。


「やめ……やめて……」


 二人の夫が派手に喧嘩をする様を、カタリナは怯えた声を上げて止めようとするが、その小さな声はどちらの夫にも届いていなかった。


 すると偽者が足下に落ちた置物につまずき、体勢を崩した。カインツはすかさずその体をつかみ、机に押さえ付けた。仰向けに押さえ込まれた偽者は懸命に反撃しようと拳を振ってくるが、カインツはそれを避け、上体でのしかかるように偽者の首を両手でつかんだ。


「うっ……!」


 気道を圧迫され、その群青色の目が見開く。開いた口からはかすれた声が漏れるが、言葉までは聞き取れない。見る見るうちに顔面は赤くなり、偽者は首を絞めるカインツの両手に爪を立てて抵抗するが、それも徐々に鈍くなっていく。もうすぐ、息の根が止まる――そう気付いて、カインツは目の前の光景を見つめた。そこには自分と同じ顔が、苦しみに歪んだ表情で横たわっている。これは、一体何だ? 私は、私を殺そうとしている? いや、こいつは偽者……悪魔だ。私の人生を奪おうとする悪魔。排除しなければ……排除しなければ――そう言い聞かせようとしても、カインツの両手はそれ以上力を込められなかった。自身を殺す奇妙さと言い表せない恐れが、あと一歩を踏みとどまらせる。普段の任務では躊躇することなく偽者を排除してきたのに、それが自分の偽者となると、なぜかためらいが生まれていた。これまで見てきた偽者の当人達は、皆こんな気持ちを感じていたのだろうか――カインツは初めて、騎士とは逆の立場の思いに触れていた。


「お願い! やめて!」


 横からカタリナに押しのけられ、よろけたカインツの両手は偽者の首から離れた。その途端、机でうつ伏せになった偽者はぜえぜえと喉を鳴らしながら空気を勢いよく吸い込んだ。その苦しげな様子を側で見守りながらカタリナは言った。


「ここで殺し合うなんて……やめて……」


 悲痛な眼差しが二人に向けられた。これにカインツは返す。


「だが、こいつは偽者で、排除されなければ――」


「それはわかっているわ……でも、どちらが偽者だろうと、私は目の前でユリウスが死ぬのなんて耐えられない……」


「カタリナ……」


 悲しむ妻の姿に、カインツの苛立った感情は引き、頭は冷静さを取り戻した。偽者も首をさすりながら立ち上がり、カタリナの様子に沈んだ表情を浮かべていた。


「すまなかった、カタリナ。私達が感情的になりすぎた」


 謝る偽者にカタリナは首を横に振る。


「仕方ないわ。自分が現れたんですもの。不安にもなるわ。……お願いだから、二人でもう争わないで」


 カインツと偽者は小さくうなずく。が、お互いの視線が合った目には、不信感が強く宿っていた。本物は自分で偽者は向こう――そう確信する二人が相手を信じることなどできるはずもなかった。しかし、いつまでも睨み合うわけにもいかず、どちらが偽者なのか、早く判断してもらわなければならない。そう思ったカインツだが、それは偽者も同じだったようで、こう言い出した。


「だが、私達のどちらが偽者かわからないとなると、客観的に決めてもらう必要がある。……カタリナ、決めてくれないか。君はどちらが本物だと思う」


 二つの期待の視線に見つめられ、カタリナは困惑の顔で見返す。


「だから、私にはわからないの。二人とも、ユリウスにしか見えないし、思えない……」


 先ほどと同じ答えに、二人は落胆の息を吐く。


「……でも、騎士のお仕事では、こういう場合、司祭様に判断を下していただくんじゃ……」


 この指摘は、騎士なら当然始めから頭に浮かんでいることだったが、ここではカインツはあえて避けていることだった。横目で偽者の表情をうかがえば、向こうも同じ気持ちだということがわかった。やはり偽者は思考や感情まで完璧に重なるようだ。


 当人と偽者の判断がつかない時、騎士は二人を聖堂などへ連れて行き、そこの聖職者に見定めてもらうというのが通例だが、カインツは自分がその立場になって、ひどく不安を覚えていることを実感していた。任務の時は、聖堂での判断に間違いなどないと言い切れていた。それは自分が連れて行き、見送る側だったからで、どこか他人事の感覚があったのかもしれない。だが今は違う。聖堂の判断を無条件に信じていた気持ちは、カインツの中でぼろぼろに崩れていた。その奥に見えるのは疑心だ。神に仕える者とは言え、彼らは人だ。果たしてそこに間違いは起きないだろうか。自分を、偽者として排除することもあり得るのではないか。他人を信じて、この命を見定めてもらうなど、あまりに危険すぎるのではないか――カインツが抱く不安は、かつてニーマイヤーが言った言葉そのものだった。月日が経ち、カインツはやっと彼が言っていた言葉を理解した。その時の心に生じた、わずかな黒い濁りは、今や自覚できるほどに膨らんでいる。騎士である者がそんな疑心を持ってはいけないのだろう。しかし自分に降りかかれば、騎士であろうと気持ちは疑う。信じられない、排除されたくない――そんな湧き上がる不安から、二人はカタリナの当たり前の指摘をやんわり避けた。


「今回は、それには当たらない」


「そうだ。カタリナ、君が……証人だから」


「ま、待って。私はどちらが本物かなんて――」


「いや、時間をかければわかるはずだ」


「一番側にいる人間なんだ。君なら些細なことでもわかる」


「そんな……ユリウス、自信がないわ。それに、偽者が現れたことは、すぐに知らせないと罰せられるって……」


「そんなことはない。証人がいれば、すぐに知らせる必要はないんだ」


 嘘をつく自分のずるさに、カインツは何かを失っていくような感覚を覚えた。騎士としてはあるまじき嘘。しかし、一度湧いてしまった疑心によって、もう背に腹はかえられない心境だった。


 カインツは戸惑うカタリナを安心させようと、優しく微笑みかけた。


「時間をかければと言っただろう? 今すぐに判断することはない。カタリナが思うように決めてくれればいい」


「……本当に、それで、いいの?」


「いいんだ。それで」


 見つめるカインツを見るカタリナの表情には、まだ不安が色濃く残っていたが、夫の言うことを信じたのか、ゆっくりとうなずいた。


「わかったわ。何とか、やってみる……」


 これに二人は安堵の笑みを浮かべた。


「ありがとう……それじゃあまずは、散らかったこの部屋を片付けるとするか」


「そうだな。自分達がしたこととは言え、ひどい有様だ」


 取っ組み合いながら動き回った居間は、いろいろなものが散乱し、床を汚していた。転がる燭台やティーカップ、そして、花と割れた花瓶――偽者はその傍らにかがんで言った。


「割れて床が水浸しだ。カタリナ、雑巾はどこだ」


「私が持ってくるわ」


「大丈夫だ。私が持ってくるよ。どこだ」


「地下の物置に……入って右側にあるわ」


「わかった。ついでにほうきも持ってくるか」


 そう言って偽者は階段の裏にある地下室へ向かった。ここは物置として使われており、狭い中には掃除用具や日用品などが詰め込まれている。そんな偽者の後ろ姿をカインツは横目で眺めていた。カタリナの説得はできたが、これだけでカインツは安心などしていなかった。偽者が自分になりすまし、自由に動き回る限り、まだ十分とは言えない。本物は、私なのだから――偽者が地下室の扉を開ける音を聞いて、カインツは片付ける手を止め、すぐさまそちらへ向かった。


 地下への階段の、その横の壁にぶら下がる鍵を取ると、カインツは迷うことなく地下室へ下りる。開いた扉の奥では偽者が雑巾を探している姿があったが、それをいちべつし、カインツは外側から扉を閉めた。


「……ん、何だ」


 偽者のわずかな声を聞きながら、カインツは扉の鍵穴に鍵を差し込み、回す。カチッと音が鳴った直後に、偽者は内側から扉を引いた。だが、少々遅かった。


「どうなっている……開かない……?」


 偽者は何度も押し引きするが、鍵のかかった扉が開くはずもない。閉じ込められたと知った偽者はガチャガチャと取っ手を回しながら、同時に扉を強く叩いて声を上げた。


「カタリナ! そこにいるか。扉が開かないんだ!」


 カインツはドンドンと叩かれる扉に背を向ける。そして階段を上がろうと顔を上げた時、ちょうどカタリナが視線の先に現れた。


「この音は……!」


 異変に気付いたカタリナだが、そこに立つカインツと物置の扉が叩かれている状況に、瞬時に表情をこわばらせた。


「どうして、閉じ込めているの? 早く出してあげて」


 階段を足早に下りてきたカタリナだったが、カインツはその肩をつかみ、止める。


「当分はこうしないといけない」


「当分って……一体どうして!」


「私が二人いるところを見られれば、周りがどんな反応をするか、想像できるだろう」


「そうだけど……それなら、そう言うなら、やっぱりすぐに司祭様に判断を――」


「カタリナじゃなきゃ駄目なんだ!」


 急な大声に、カタリナは目をしばたたかせる。


「……すまない。でも、カタリナに判断してもらいたいんだ。そうしてくれれば、すぐに扉の鍵を開ける。それまでの辛抱だ」


「私が、決めるまで閉じ込めておくの……?」


「わかってほしい。これは仕方のないことなんだ。私とカタリナには築いてきた平穏な生活がある。そんなささやかな幸せを、私は失いたくないんだ。そのためには、どちらかを隠すしかない。カタリナが判断を下してくれるまで……」


 カインツが見つめたカタリナの目は、心境を表すように揺れていた。


「何で……どうして、私なの……?」


 訴えるような眼差しに、カインツは肩を抱き寄せて言った。


「愛する人だから……その人が下した言葉なら、私は従うつもりだ」


 夫婦として誓い合い、心を通わせてきたカタリナだけが、今やカインツの信じられる唯一の人になっていた。彼女だけが疑心も不審もない、真っ白な気持ちで向き合える存在であり、心から信用できる相手だった。そんなカタリナが下す判断なら、大人しく従う――そう言ったカインツに嘘はなかった。


「こんなことをして、カタリナが心を痛めることは重々承知している。でも辛抱してほしい。できるだけ負担はかけないようにする。世話はすべて私がやるから」


「……本当に、これでいいのか、私には……」


「いいんだ。このことでカタリナが心配することは何もない。すべきことだけを考えればいい」


 うつむき、しばらく黙っていたカタリナだが、やがて小さく口を開いた。


「私には、どちらが本物かはまだわからないわ……だから、ひどい扱いはしないで」


「約束する。……じゃあ、上へ戻ろう」


 カタリナの背中を押し、階段を上がろうとした時、背後の扉の中から声が呼び止めた。


「偽者め! よくもこんなことを……! ここにいるべきはお前のほうだ!」


 話を聞いていたらしい偽者は大声で叫び、呼び止めようとする。これに足を止めそうになったカタリナを階段へ促すと、カインツは踵を返し、扉に顔を近付けた。


「騙し討ちのようになったことは謝る。だがこの家を歩き回れるのは本物の私だけだ」


「ほざくな。今すぐここから出せ!」


「お前を出せば、お互いが困ることになる。……近所の住人に偽者がいると知られたいのか」


「くっ……」


「そうなれば、私達は聖堂へ連れて行かれる。それはお前も本意ではないだろう」


「本意ではないが、ここにいることも本意ではない。私ではなく、偽者のお前がここにいればいい!」


「偽者がいるべきなら、これで合っているじゃないか。何も問題はない」


「偽者は私じゃない。お前だと言っているんだ!」


 顔は見えないが、言葉の語気と扉を壊さんばかりに叩く様子は怒りに満ちている。


「早く出せ! 今すぐに!」


「……叫び続けるのもいいが、少し考えるべきだ。こんな騒音を立てて、誰かが苦情を言いにやってくるということもな。私はお前の世話をするとカタリナと約束した。ひどい仕打ちはしない。しばらくの間、狭い部屋に引っ越したと思って大人しくしているんだ。……言っておくが、これはお互いのためだということを理解しろ」


 そう言ってカインツは階段を上がっていく。扉は引き止めるように何度も叩かれていたが、それもやがてやみ、地下からは何も音は響いてこなくなった。……大きな隠し事を抱えた生活が、始まろうとしていた。

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