八話

 天幕の前に集まった部下達の顔は、皆一様に晴れやかなものだった。


「やっとこの日になったか」


「半年もいたような気がしないな」


「そうか? 俺は長かったなあ」


 まとめた荷物を抱え、それぞれが任務期間の半年を振り返っていた。


 空の青が眩しいほど鮮やかになり、夏の気配が色濃くなり始めた中、カインツ一行は聖地警備任務を果たし、これから故郷バロッサの町へ帰るところだった。疲れたと愚痴る者もいれば、いい経験になったと満足そうに言う者もいたが、どちらの感想だとしても、その顔は揃って笑顔を浮かべ、達成感に満ちていた。


「――では、頼んだぞ」


「わかりました。街道の出口でお待ちしています」


 カインツと言葉を交わすと、ヘルベルトは立ち並ぶ同僚達に向き直った。


「それじゃあ皆、行くぞ」


 先頭に立ち、ヘルベルトは片手を振って皆を先導して歩いていく。がやがやと騒がしい部下達が山のふもとを下っていくのを見送り、カインツは神殿へ向けて歩き始めた。


 ここでの任務を終えた騎士は、聖地を離れる前に、神殿にいる修道会総長に挨拶することが慣習になっているのだが、当然、同時期に離れる隊は複数いるわけで、それらの騎士全員が神殿に入ることはできないので、代表者として隊長がおもむくことになっていた。次にやってくる隊との引き継ぎは、それを終えてからになる。その間、部下達はヘルベルトに任せ、すぐに帰れるよう街道の出口で待っていてもらうことにしたのだった。


 聖地には何度も来ているカインツだが、こうして神殿へ向かうのは初めてのことだった。地方の騎士は基本、神殿には用はなく、警備をすることもない。なのでふもとから眺めるくらいしかできない。だが、隊長となれば三年に一度、その神殿内に入ることができる。それが任務を終えた今日というわけだ。隊長として初めて内部を目の当たりにする期待と緊張を秘め、カインツは山の頂上に見える神殿へ一歩ずつ進んでいく。


 土の地面に小石が転がる殺風景な山道を登っていくと、目の前には見上げるほどの立派な神殿がそびえていた。山と同じ名のガーベンミュッツ神殿――白く輝く石で造られた、何とも美しい見た目通り、壁から柱からあらゆる箇所に細かい彫刻が施されている。正面にある長い階段にも、一段ずつに植物を模した模様が彫られ、職人のこだわりや美意識が強く感じられる、まさに芸術品のような建物だった。だがところどころ、その歴史の古さも垣間見える。白い壁には稲妻のようなひびが入り、可憐に開く花弁は先が欠けてしまっている。そんな小さな傷は至るところに見えた。これでも修復しているのだろうが、神殿が過ごしてきた歴史の年月を少しだけ感じられるような景色でもあった。


 階段の先にある大きな入り口に到着すると、そこには訪問者に厳しい目を向ける騎士の姿があった。甲冑に身を包み、片手に紙を持って、やってくる者に声をかけている。


「……そこの、所属を言え」


 威圧的な声に止められたカインツは、その騎士に向いて名乗った。


「私は、マイツェルト騎士団バロッサ南西地区隊長ユリウス・ディエトリック・カインツと申します」


「バロッサ……地区隊長……」


 騎士は手元の紙をしばらく見つめると、おもむろに視線を上げた。


「……よし。行っていい」


 許可を得て、カインツは軽く会釈をして神殿の中へ向かった。


 そこには、歩くだけでその音が響き渡るほどの、高く、広大な空間が広がっていた。天井を支える太く長い柱が規則正しく並び、それを照らすように天窓からは白く輝いた陽光が差し込んでくる。その優雅で壮大な見晴らしは、見たことのない天国を想像させる。そんな神殿内部に見惚れて歩いているのはカインツだけではなく、同じように半年の任務を終えて、総長に挨拶に来た地方、または地区隊長の姿もある。神殿へは何度も来ているであろう老年の隊長でも、この景色に見慣れることはないのかもしれない。それほど美しく、神殿に見合った神々しさを放っていた。


 鏡のように磨かれた床を、コツコツと音を響かせて歩き進んでいくと、二人の騎士が槍を片手に見張る部屋の入り口が見えてきた。皆そこへ入っていくのを見て、おそらくあの部屋に総長がいるのだろうとカインツも向かった。


 入ると、そこはさらに大きな部屋になっていた。もはや部屋と呼ぶべきかもわからないが、左右に立ち並ぶ柱は奥まで続き、その間には聖地では見られない青々とした植物が置かれている。窓が高い位置にあるおかげで隅々まで明るく照らされ、壁に彫られた精巧な彫刻も、その存在感を輝かせていた。


 神殿内部を初めて目の当たりにしたカインツだが、その素晴らしさに圧倒され、言葉もなかった。信じる神のためなら、人はこんなに美しいものを生み出せるのかと、心の中で感嘆するばかりだった。


 大広間を歩き進むと、ようやく奥の壁が見え、その手前では各隊長達が整列して待っていた。カインツもその列に加わり、総長が現れるのを待つ。前方には一段高くなった場所に祭壇があり、その背後には手をつなぎ、遠くを見つめる巨大な双神の石像が置かれていた。筋肉の隆起した体にたなびく衣の裾など、今にも動き出しそうな双神は、彫像だとわかっていても畏敬の念が湧いてくる。


 見事なものだと眺めていると、前列の騎士が右奥へ視線を向けた。つられてカインツも見やると、壁の白と同化した扉が音もなく開き、そこから礼服をまとった三人の男がしずしずと現れた。それを見た騎士達は一斉にひざまずき、頭を垂れる。あれが総長なのかと気付いたカインツも、一拍遅れてひざまずいた。


 祭壇の前に立った三人の内、中央に立つ男は、ずらっと並んだ騎士を見渡す。それを横目で見ながら左側の男が言った。


「楽にせよ」


 その言葉に、騎士達は頭を上げ、立ち上がる。カインツは列の間から前方に立つ総長の姿を眺めた。初めて見る総長の姿は想像通りのものだった。左右に立つ侍者に比べ、年齢はかなり高い。七十近くには見える。腰はやや曲がり、髪もひげも真っ白だ。顔に刻まれたしわはどれも深く、こちらを見つめる眼球はたるんだまぶたで今にも隠されそうだった。よぼよぼの老人とまではいかないが、それに近い姿ではある。


「任務を果たしたそなたらに、ホイベルス様からねぎらいのお言葉をたまわる」


 そう言った侍者が目線で合図を送ると、中央に立つ総長ホイベルスは無表情のまま口を開いた。


「……大変、ご苦労だった……」


 思わず、え? と聞き返したくなるほど、その声は弱く、小さかった。声を張る体力もないのか、それとも普段からこうなのかわからないが、この一言でホイベルスのねぎらいの言葉は終わったようだった。


「帰還後も、各々任務に励め。以上だ」


 侍者はそう締めると、三人で再び右奥の扉へ戻っていく。それを騎士達は敬礼して見えなくなるまで見送った。それを終えると、誰からともなく大広間を後にしていく。カインツはこの初めての体験に、しばらく立ち尽くしていた。直接総長と会えるということで、何かありがたい言葉でも貰えるものと期待していたが、現れてから一分も経たないうちに総長は帰ってしまい、しかも言ったのはご苦労という、ごく短い言葉だけ……。拍子抜けもいいところだと、神殿の入り口に向かいながら感じつつも、やはり総長という立場柄、忙しくて時間が取れないのだろうと、無理に自分を納得させるしかなかった。


 その後、天幕に戻ると、到着した後任の隊と引き継ぎを終え、カインツは部下達と共に帰還の途についた。一週間の帰りの道のりは気分や精神的にも当然楽なわけで、その足取りは皆、行きよりも軽やかだった。五日目辺りを過ぎると、体にも疲労が溜まってくるのだが、それよりももうすぐ家に着く嬉しさのほうが勝り、進む速度は速まっていく。そして、聖地を離れてから一週間後、予定より若干早く、午前中に到着した一行は、バロッサの町に入ると大勢の住人、家族に出迎えられた。


「お帰りなさい!」


「皆、お疲れ様。今日は安くするから食べてって」


「あなた、こっちよ。怪我や病気はなかった?」


 騎士達はそれぞれ家族や見知った人を見つけ、笑顔で抱き合ったり言葉を交わす。疲れていることも忘れて、お互いが無事であることを喜び、笑った。通りの一角はしばしにぎやかな笑顔で満たされていた。そんな光景を、馬を降りて引いていたカインツは、安堵しながら微笑み、眺めていた。聖地で任務を終え、全員を無事に帰らせるという隊長の責任を果たせたことは、これからも隊を率いる自信になる。この笑顔が絶えないようにと、カインツは改めて気を引き締め直した。


「やっぱり、この光景は何度見ても笑顔になれますね」


 気付くと、カインツの傍らには、少々疲れた表情のヘルベルトが立っていた。


「お前の迎えはいないのか?」


「残念ながら。両親は別の町に住んでいますし、恋人と呼べるような相手もね……」


「作らないのか」


「できれば苦労はないですよ。努力はしているつもりなんですけど」


 ヘルベルトは困り顔で額をかく。


「三年後、今日と同じ寂しさを感じたくないのなら、早く手に入れることだな」


「では、そのコツを教えてください。隊長」


「コツ? 私が知るか」


「優しい奥さんがいるじゃないですか。その時の経験ですよ」


「コツなんか意識したことはない。ただカタリナを笑顔にしたいと行動しただけだ」


「それなんですよ。僕も同じようにしているつもりなんですけど、どうも空回ってしまって……」


「それは相手のことを理解していないからじゃないか? 自分のことばかり押し付けても、相手は息苦しくて離れるだけだ」


「押し付けすぎなんでしょうかね……。まあ、次の相手が見つかったら気を付けてみます。……ところで隊長、僕はともかく、隊長のお迎えはどうしたんですか?」


 喜ぶ部下達とその家族の輪の中に、カインツの求める姿はどこにも見当たらない。


「ああ……私も、さっきから捜してはいるのだが」


「来ていないようですね。今日戻ることは知っているのですか?」


「手紙に書いたから、そのはずだが……」


 最後に出した手紙は半月前。それにカタリナはしっかり返信しているので、届いていないということは考えられなかった。また前回の任務の帰還時は、町に入るなりカタリナは笑顔で出迎えてくれていた。夫が帰る日を忘れているというのも考えづらい。そうなると、カインツの脳裏には嫌な予感が巡り出す。体調を悪くして寝込んでいるのでは――そう思い始めると、部下達を眺めていた微笑みは消え、カインツの表情は暗く、深刻なものに変わっていく。


「きっと急用ですよ。それか、家でごちそうでも作って遅れているのかも……」


 カインツの様子に気を遣ってヘルベルトは明るく言ったが、そのカインツは黙ったままだった。


「と、とにかく、家へ戻ってください。馬は僕が連れていきますから」


「……頼めるか」


「はい。半年ぶりの再会を楽しんできてください」


「すまない……」


 手綱を預けたカインツはヘルベルトに見送られ、一路我が家へと向かった。


 黙々と道を進みながら、頭の中ではカタリナの様子について振り返ってみる。聖地に届いた手紙には、体調を崩したということは一言も書かれておらず、多くは日常の出来事、そして夫の心配、安全を祈る文章で占められていた。そこに異変らしきものは感じられず、出発前と何ら変わらない様子がそこには見えていた。病ではないはずだとカインツは思う一方、今も巡る嫌な予感は悪いことばかりを想像させる。もしも、手紙の内容が嘘だったら……心配させまいと病を隠していたら……。そんな可能性にカインツは表情を険しくする。カタリナが嘘を書くはずはない。これまでも嘘をつかれたことはほとんどなかった。手紙の内容は本当だと思いたい。となると、最後の返信の後に体調を崩したのかもしれない。だとしたら、早く、早く行かなければ……!


「お帰りなさい、カインツさん。お仕事ご苦労様です」


 近所の顔見知りの老人に声をかけられ、カインツはふと冷静に戻った。会釈をしてすれ違うと、嫌な予感を振り払って自分を落ち着かせた。ただ出迎えに来なかっただけのことで、どうしてこんなに不安になるのか。ヘルベルトの言う通り、何かしらの用事で来れなかっただけかもしれないのだ。病だって、手紙の様子からすればかかっていないほうが濃厚だ。カタリナの虚弱体質を心配しすぎて、悪い方向に考えすぎているのだろう。きっと何もない。会えば笑顔を見せてくれるはずだ――変に動揺していた気持ちを静め、カインツは半年ぶりの我が家へと歩いていく。


 初夏の日差しに照らされた久しぶりに見る二階建ての家は、何も変わらずそこに建っていた。窓を見ると、半分ほど開けられていて、風通しをよくしている。どうやらカタリナは家にいるらしい。古い石造りの玄関に立ち、カインツは妻と会える喜びを抑えて扉の取っ手を握り、ゆっくりと押し開いてみる。鍵はかかっていない。やはりカタリナは中にいる――そう確信して、カインツは家の中へ入った。


 一歩踏み込むと、奥の居間からわずかに声が聞こえてきた。誰かと話すカタリナの声だった。やけに楽しそうに話す様子に、カインツは出迎えに来なかった理由を知る。心配するようなことではなかった。ただ客が来ていて、その対応をしていただけだったのだ。この事実に胸を撫で下ろしたカインツは、静かに居間へ向かうと、客に失礼のないよう控え目に声をかけた。


「カタリナ、帰った……」


 椅子に座るカタリナが、え、と驚いた顔で振り向く。だが、そんな妻の表情よりも、カインツは机を挟んだ向かいに座る客に目を奪われ、そして言葉を失った。


「ど、どういうこと……?」


 あまりの動揺に椅子から立ち上がったカタリナは、立ち尽くすカインツと向かいの客とを交互に見比べる。そんな妻の姿も目に入らないほど、カインツは客の男を凝視した。その容姿は、どこからどう見ても、カインツに瓜二つとしか言いようがなかった。

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