五話

 空と空気の色が、少しずつ春に染まっていくと共に、聖地にはこれまで以上に巡礼者の姿が目立ち始めていた。暖かい陽気の春は特に旅をしやすい季節ということで、一年の中では一番巡礼者が増える季節だった。聖地から遠い田舎に住む信者には春を狙って巡礼する者も多い。そういう旅慣れない者が一気に増えれば、自然といざこざや犯罪も増えるわけで、春という時期は騎士にとって忙しさの増す季節だった。


「どうよ。ここの肉とスープもうまいだろ?」


「うーん、うまいことはうまいけど……」


「僕は二軒隣の屋台のほうがおいしいと思うけど」


「クルト、お前はどうだ?」


 先輩騎士に聞かれ、クルトは豆の入ったスープをスプーンで飲みながら言った。


「俺は味音痴なので、おいしいのかどうか、よく……」


「ったく、はっきりしろよ。……隊長はどうです?」


 焼いた牛肉を半分ほど食べ終えていたカインツは、それを見下ろしながら言った。


「味付けは私の好みだし、スープもいいとろみで飲みやすい。だが、やっぱり『オットマル』には勝てていないな」


「ああ、あの店もなかなかおいしかったですよね」


「そうか? やっぱり僕は二軒隣の屋台のほうがおいしいと思うけど」


「ヘルベルトはあの屋台の主人から金でも貰ってるのか?」


「何言ってるんだよ。本当においしいぞ、あの揚げパンは」


「ヘルベルトの味覚はお子ちゃまなんだよ。砂糖をあんなにまぶされて喜ぶのは子供だけだぞ」


「わかってないなあ、お前達。あの砂糖の量だからおいしいんじゃないか。あれで半分の量だったら、ただカリッとした油味の食感だけで絶対物足りないよ」


「はいはい。甘党の意見はもういいよ」


「何だよ。じゃあお前、今後あの揚げパン、絶対に食べるなよ」


「言われなくても、あのパンに金出す気にはならないよ」


 その通りだと同僚に笑われ、ヘルベルトは納得がいかない表情で肉にかじり付く。そんな部下達の光景をカインツは微笑ましく眺めていた。


 聖地での任務についてから二ヶ月が経っていた。最初こそ不慣れな土地で、戸惑いを見せていた部下達だったが、二ヶ月も経てば聖地の空気や人にも慣れ始め、今や食事を楽しむ余裕も生まれていた。この聖地警備任務については、修道会から宿泊場所の他に、必要な装備や日用品などが支給されるが、食費は自分持ちなので、あまり贅沢はできない。聖地という土地柄、娯楽は少ないので、カインツの班では限られた給料で料理を食べ比べるということがささやかに楽しまれていた。ちなみに、二十五人の部下は五人ずつの班に分かれ、それぞれ受け持ちの場で警備を行っている。カインツの班だけは六人で、今日は宿場町内の警備を担当していた。現在は少し遅めの昼休憩である。


「隊長も、あの揚げパンは嫌いですか?」


 ヘルベルトに聞かれ、カインツは一度食べたことのあるパンの味を思い出しながら言った。


「そうだな……あれはどちらかと言うと、女性が好むんじゃないか?」


「そ、そんなことないですよ。男だって好きな味です」


「わかっている。どちらかと言うとだ。あそこまで砂糖はかかっていないが、カタリナも甘い菓子やお茶は好きだからな」


「奥さんを基準にしないでくださいよ。女はこの世にごまんといるんですから」


「隊長にとって女は、奥さんだけなんだよ」


「そうそう。奥さんが甘い物好きなら、この世の女は全員甘い物好きになるんだ。わかったか?」


「そんなめちゃくちゃな理由、わかるわけないだろう。……隊長も、もう少し他の女を知っておくべきでしたね」


「どうしてだ」


「一人の女だけでは、女のすべてを理解することはできないからです。甘い物好きもいれば辛い物好きもいる、話好きもいれば口下手もいるんですよ」


「私はその必要はないと思うがな」


「なぜです?」


「心に決めた女性のことだけを理解すれば、特に問題はないはずだろう。そこに他の女性はこうだからと当てはめるほうがどうかと思うが」


 五人の部下達の視線がカインツを見つめると、おお、と感心する低い声が上がった。


「隊長はやっぱりさすがです」


「遊んでいる同僚に言ってやりたい言葉だ」


「奥さんへの真の愛を感じました」


 口々に褒める部下達を静まらせようとするカインツだったが、それを邪魔するようにヘルベルトが言った。


「隊長、僕の負けです。僕が間違っていました」


「負けって、勝ち負けではないだろう」


「いいえ。僕の持論は、隊長の奥さんへの愛に負けました。やはり、伊達に昨晩も奥さんへお手紙を書いていたわけではないようですね」


 そう言ったヘルベルトの目がわずかに笑ったのを、カインツは見逃さなかった。


「……なぜそれを知っている? まさか――」


「のぞきなんて下品なことはしていませんよ。ただ、班の編制が少し変わったことを報告しようと行った時に、天幕の隙間から隊長が手紙を書いているのが見えたので、邪魔しないように帰っただけです」


「それはのぞきと言わないのか?」


「のぞきは故意にするものです。僕の場合は偶然ですから」


 にこりと笑うヘルベルトに、カインツはやっぱりやられたと呆れた息を吐くしかなかった。


「遠く離れても心を通じ合わせる――クルトも隊長を見習えよ」


「……はい」


 すでに食事を終えているクルトは、先輩達のやり取りにまだ付いて行けないのか、やや引き気味に返事をした。


「それで隊長、奥さんにはどういったことを書いているんですか?」


「お前達には関係のないことだ」


「じゃあ、奥さんのほうは何を――」


「うるさい。もう休憩は終わりだぞ。早く食べ終えろ」


 残ったスープを一気に飲み干すと、カインツはさっさと席を立った。


「もったいぶらなくてもいいじゃ――」


 わずらわしいハエを見るような目で睨むと、部下達は急いで食事の続きを始める。やれやれと思いながら、カインツは支払いをして窓の外を流れる人波を眺めた。


 昼時はすでに過ぎていたが、料理屋が多く集まるこの一画には、絶えず老若男女が行き交っていた。ざわざわと鳴る喧騒の中に、威勢のいい客寄せの声や、子供の笑い声などが混ざって響いてくる。


 そんな決して止まることのない人の流れの中に、土色のローブをまとった人が多く見られた。彼らは皆、聖地への巡礼者だ。巡礼をするのに決まった服装はないが、敬虔な信者は昔ながらの様式にこだわり、ローブを着て訪れる者が多かった。


 任務も二ヶ月が経って、すでに見慣れた人波を何気なく観察していたカインツだが、その群青色の目が、ふとある人物に留まった。揃いのローブをまとった二人組。一人は長い髪を結い上げた女で、もう一人はフードをかぶっているため顔は見えないが、動きや体格からすると、こちらも女のようだった。二人はうつむき加減に人の間を縫いながら歩いていく。一見して彼女達は一通行人にしか見えないが、カインツの目にはその動きがどこかぎこちなく感じられた。具体的にというよりは、ただ何となくという感覚だったが、異変をとらえる力は、バロッサの町で日々巡回することで鍛えられている。カインツは自分の感覚を信じ、店の外へ向かうことにした。


 動く人波の中に似たようなローブが無数に見えるが、カインツは前を行く二人組から目を離さず、少しずつ距離を縮めていく。そして――


「君達、少しいいか?」


 フードの女の肩に手をかけ、呼び止めた。すると二人は足を止め、ゆっくりと振り向く。


「……何で、しょうか?」


 声を出したのは髪を結った女だった。三十代と思われる女は眉間にしわを寄せた表情で、不安そうにカインツを見つめる。


「君達は巡礼者か?」


「そうですけど……何か?」


 そう言いながら女は、フードの女の前まで出てきた。まるで彼女をかばうかのように……。この動きに不審を感じつつ、カインツは質問を続けた。


「私は警備任務を行っている騎士でね。名前を教えてもらえるか」


「……ヒルデ・ツェラー」


「こちらは?」


 ヒルデは自分の後ろの女をいちべつするが、その目はわかりやすく泳ぎ始める。


「こ、こっちは……ルース、ルースです」


 ルースと呼ばれた女はフードの下で、じっとうつむいたままでいる。


「彼女は話せないのか? それとも緊張しているだけか?」


「話せません」


「話せます」


 二人の声が重なって言った。これにはっとしたヒルデはすぐに口を開いた。


「は、話せますが、知らない方だと極度に緊張してしまうので……」


 言い直したヒルデの額にはじんわりと汗が滲んでいた。これにカインツは呼び止めたのは正解だったと確信する。この動揺の仕方、もう一人をかばうような動き、そして重なった二人の声……カインツの耳にはよく似た声のように聞こえていた。つまりはこの二人、おそらく――


「隊長、どうかされましたか?」


 背後からクルトがやってきて声をかけた。その後ろにはヘルベルト達四人の部下の姿も見えるが、腹を満たしたせいか、かなりゆっくりと歩いていた。


「休憩を終えて今は任務中だ。早く集中しろ」


 軽く叱られ、四人は急いでカインツの元へやってくる。その間にカインツはフードの女に言った。


「緊張させている中、申し訳ないが、そのフードを取ってもらえないか」


 これにヒルデは再び目を泳がせる。


「それは……ご、ご勘弁を願います」


「なぜだ」


「彼女は……彼女は……あの、ですから……」


「何か不都合でも?」


「そんなことは……いえ……」


「では、取ってもらえるか」


 言っても二人は動こうとしない。仕方なくカインツは自分の手をフードの女に伸ばした。


「や、やめてください!」


 ヒルデはカインツの伸ばした手をさえぎるようにつかんだ。この声に周りを歩く人々の視線がカインツ達に集まり始めた。


「何かあったんですか、隊長」


 やってきたヘルベルトが後ろからのぞくように聞いたが、カインツはそれには答えず、ヒルデを見据えた。


「……わけありのようだな」


「ち、違うんです、あの……」


「ならばこの手を放してもらいたい」


 そう言うが、ヒルデは伸ばした手をつかみ続けたまま、焦りの表情を浮かべて止まっている。しばらく待っても、ヒルデは頭が真っ白なのか、手を放す様子を見せない。これにカインツは軽く息を吐くと、強引にやるしかないと、ヒルデの手を振りほどき、そして女のフードに手をかけた。


「あっ……!」


 ヒルデが慌てた声を漏らす。と同時に、女の顔を隠していたフードが外れた。そこに見えたのは、長く伸びた髪に半分隠れた女の顔で、そこからのぞいている片目は怯えた眼差しでカインツを凝視していた。


 ヒルデは顔をそむけ、その表情を歪めてうつむく。それを横目にカインツは怯えた目の女の顎をつかみ、その顔をまじまじと見つめた。手に女のわずかな震えを感じながら、二人の顔を見比べてみる。結った髪とそのままの髪という違いはあっても、顔の作りは明らかに同じだった。思った通り、やはり偽者――答えが出て、カインツは女から手を離した。


「こんなところに、偽者がいるなんて……」


 見守っていたクルトが驚いたように呟いた。周囲を歩く人々も、次第に何が起きているのかを理解し始め、足を止める者が増えていった。


「どうやら偽者が現れたらしいぞ」


「聖地に偽者? 本当なの?」


「怖いわねえ。嫌だわ」


 ざわめきの輪が広がっていく中、カインツは萎縮する二人に聞いた。


「極度の緊張は、これを隠していたかららしいな。それとも、双子の証明書でも出して否定するか?」


 この態度から二人が双子でないことをカインツは確信していた。二人のほうも、もう言い逃れができない窮地だとわかり、押し黙っている。観念する他ない状況だった。


「隊長、よくわかりましたね。こんなに大勢の中から正確に」


 ヘルベルトと他の部下が感心しながら女二人を見る。


「日々の経験だ」


「経験があっても、顔が隠れていたら僕にはわかりそうにありませんよ。さすが隊長です」


「上官をおだてている暇があるなら、早くこの二人を連れて――」


 その時だった。ヒルデ達二人は突然踵を返すと、足を止めて眺めていた野次馬を弾き飛ばし、猛然と走り去っていった。


「逃げた!」


 クルトが目を丸くして叫んだ。カインツは小さく舌打ちする。


「わかっているなら早く追え!」


 カインツは走り出し、部下達もその後を走る。何事かと驚く人ごみをかき分けながら、先を逃げる二人の背中を追った。しかし、通行人が多すぎてなかなか距離を縮められない。


「誰でもいい。その女二人を止めてくれ!」


 追いながらカインツは叫んだ。だが走り抜ける女達を人々は不思議そうに見送るだけだった。このままでは逃がしてしまうと焦りを感じ始めた時だった。


「きゃっ、放して!」


 ヒルデの声が聞こえた。急いで人をかき分け先を見てみれば、そこには二人を捕まえた屈強そうな男数人が立っていた。どうやら咄嗟に捕まえてくれたようだった。だが、よかったと思ったのもつかの間、その中に見覚えのある顔を見つけたカインツは、瞠目して思わず立ち止まった。


「……エレミアス団長!」


 二人を捕まえた男達の真ん中に、一際体格のいいエレミアスの姿があった。以前会った時のように鎧やマントは身に付けていなかったが、腰にはしっかりと剣が下げられている。見れば他の男達の腰にも剣が見える。おそらくエレミアスの部下なのだろう。


「だ、団長? まさかご本人にお会いできるなんて……」


 カインツの後ろにいる部下達も色めき立つ。そんな様子を見ながらエレミアスはカインツに歩み寄ってきた。


「君は……確か前に会っていたな」


「はっ、バロッサ南西地区隊長ユリウス・ディエトリック・カインツです」


 名乗り、カインツは敬礼した。


「楽にしていい。……思い出した。天幕の側で少し話したな」


「憶えていてくださり、光栄です」


 カインツが口角を上げると、エレミアスも微笑んだ。


「……ところで、この二人を追っていたのは君達か?」


 部下に両腕をつかまれ、身動きできない二人をいちべつしてエレミアスは聞いた。


「はい。先ほど向こうで見つけたのですが、情けないことに逃げられてしまい……」


「そういうことだったか。我らが通りかかってよかったようだな」


「本当に、お礼の言葉もありません。危うく捕り逃がすところでした」


「確認するが、この二人は偽者の疑いということでいいのか?」


「双子ではないので、偽者と断定し、これから連れて行こうと――」


「どうして、どうして偽者は悪だと決め付けるのですか!」


 大声に目を向けると、捕らえられたヒルデが悲痛な表情を浮かべてエレミアスとカインツに訴え始めた。


「私達はただ、純粋に双神を信仰しているだけです。その心は偽者だろうと同じなんです! 聖地を巡礼したいと思う信仰心に、偽りなど一切ありません! 信じて!」


 この声は周囲にいる人々にも響き渡る。だが懸命に訴えるヒルデを見る目は一様に白く、冷たい。


「偽者が何言ってる」


「どうせ嘘なんだから、聞くことないわ」


「それが悪魔の手口なんだろ。油断させて、この聖地を壊すつもりなんだ」


 刺すような視線が捕まった二人に注がれる。そこから徐々に不穏な空気が漂い始めそうな気配を察してエレミアスは口を開いた。


「あまり長く人前にさらすわけにもいかない。この二人は我々が連れていこう」


「いえ、それはこちらで――」


「聖地に現れたこういう場合の偽者は神殿で判断される。君達はまだ任務の途中だろう。我々は昼食を終えてこれから神殿へ戻るところなのだ。ついでというわけだから気にするな」


「ほ、本当によろしいのですか?」


 エレミアスは、にっと笑みを見せた。


「お互い、騎士の務めを果たすだけだ」


 そう言って踵を返したエレミアスは、部下達と捕まえた二人を引き連れて人波の奥へ消えていった。


「ありがとうございます……」


 再び敬礼し、カインツはエレミアスの後ろ姿を見送った。それを見て後ろに立つ部下達も遅れて敬礼する。


「……エレミアス団長は、やっぱり話通りのいいお方なんですね。僕達地方の騎士に威張ることもなく、逆に手伝っていただけるなんて」


 ヘルベルトがしみじみと言った。


「あの方さえいれば、マイツェルト騎士団は安泰だ。お前達も騎士として生きたいのなら、団長を模範にしろ」


「僕達には遠い存在すぎますよ。それよりも、すぐ近くにいる隊長を模範にしたほうが簡単で手っ取り早いと思いますがね」


「別に無理強いするつもりはないが、理想は高く持つべきだと思うぞ」


「隊長は、ご自身の騎士としての格は低いと思っているんですか? もしそうなら、大きな思い違いですよ」


 カインツは、ちらとヘルベルトを見た。その笑顔はじっとカインツを見つめてくる。


「……私を思い上がらせて、隊長から引きずり下ろす気か?」


「心外です。僕は思っていることを言ったまでですよ」


「冗談だ。副官としてヘルベルトのことは信頼している。これからも頼むぞ。……さあ、任務に戻ろう」


 人が流れる喧騒の中、カインツは部下達と共に来た道を戻っていった。

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