三話
「……あ、おそらくあの男です」
ヘルベルトが指差した先――町の通りの角に、細身の若い男が落ち付きのない様子で立っていた。だがカインツ達に気付くと、はっとした表情になって駆け寄ってきた。
「騎士様! こっちです――」
若い男は一人で慌てるようにどこかへ行こうと先走る。
「待て。落ち着くんだ。まずは歩きながら状況を聞きたい」
引き止めたカインツの声に、若い男は少し冷静になったのか、引き返してカインツの隣に並んで歩く。
「す、すみません。何だか怖くて、驚いていて……」
「それは理解する。で、君はニーマイヤーの元にいる使用人でいいのか?」
「はい。二年前に雇われて、雑用なんかをやっています」
昼の午後を回った、人通りの多い道をカインツ達は早足で突き進んでいく。
「今、ニーマイヤーはどうしている」
「家にいるはずです」
「君はどう言って出てきたんだ」
「先日、先生に買い物を頼まれていたので、それを理由に……」
「では、怪しまれてはいないな」
「多分……」
不安げな表情を見せる使用人と共に、カインツは道を右折する。
「偽者を見つけた時の状況は」
「その、見つけたというか、気付いたのは今日の朝で……その前から先生の行動に不自然なものは感じていたんです。書斎にずっといたはずなのに、外から帰ってきたりとか……。気のせいだと思って過ごしていたんですけど、今日、先生が先生と話している姿を見てしまって……そこでやっと気付いたんです。偽者がいるってことを」
使用人は怯えた表情でカインツを見た。
「気付かなかったとはいえ、もしかしたら僕は偽者と話してしまったかもしれません。だ、大丈夫なんでしょうか。何か、悪魔の力で操られたりとか、悪い影響を受けたりなんか……」
「そういった事例はこれまでに一切ない。知らずに偽者と話しても、特に悪い影響はないはずだ。だが、その話に深く耳を傾けるべきではないだろうな。いつ悪魔の本性を見せるかわからない」
「そうですか……ちょっと、安心しました」
使用人は胸を撫で下ろすと、表情を緩めた。
「偽者に気付いてから、君はニーマイヤーと話したか?」
「も、もちろん、話さないと意思の疎通はできませんから」
「偽者については?」
これに使用人は、ぎょっとした目でカインツを見やる。
「話せるわけありません! 目の前の先生が本物かどうかも自信がないのに」
「本人から偽者について話したことは?」
「ただの使用人の僕には、そういう話はしないんです。するとしたら、学者仲間とだけですよ」
「自分の偽者が現れたことは、君にも話していないんだな」
「はい。先生はなぜか、騎士様にも知らせず、偽者のことを隠したがっているようで……僕は怖くてそんなことできませんけど」
歩き進みながら、カインツは人がまばらになってきた道の先を睨んで考えた。エルンスト・ニーマイヤー――彼はバロッサの町ではそこそこ名の知れた宗教学者である。そんな彼が神と対する悪魔、つまり偽者の存在を隠そうとする意図がわからなかった。神の教義を誰よりも知っているはずで、偽者を見つければ真っ先に知らせに来てもおかしくはないはずなのだ。それなのに、彼はなぜか真逆の行動をしている。一体どういう了見なのか――カインツは首をかしげるばかりだった。
民家に囲まれた細い路地に入ると、その先に小さな鉄の門が見えてくる。ささやかな緑を配した狭い庭を通り抜けた奥に、赤い三角屋根の家があった。そこがニーマイヤーの住居だった。一応名の知れた学者なので、町を巡回するカインツは以前から住まいは把握していた。
「あの、僕はどうすれば……」
使用人は玄関を前にして不安を見せる。
「君は中に入らなくていい。後は我々がやる」
「そ、そうですか……。あ、先生はいつも書斎にいるので、一番奥の部屋を捜してみてください」
「わかった」
小走りに下がっていく使用人を見送って、カインツは背後に並ぶ部下達に目を向けた。
「今回の当人はすでに偽者と接触し、その存在を隠しているという状況だ。つまり、何かしら関係を築いている可能性もある。その場合、我々に気付いた時に逃走を図る恐れも考えられる。それを防ぐため、家の裏と正面を見張る者とに分かれろ。残りは私と中へ行く」
隊長の指示に部下達は静かに動き始める。カインツは皆が持ち場についたのを確認すると、残った二人の部下を連れて玄関の前に立った。
「では、行くぞ」
扉の錆びた取っ手を握り、ゆっくり押し開く。家の中は、しんとした空気で満たされていた。
「……各部屋を捜せ」
指示された部下は陽光の届かない薄暗い廊下を進み、それぞれ左右の部屋へと入っていった。カインツは廊下を直進すると、使用人が言った書斎を目指して進む。
台所や物置部屋に人の気配がないのを確認しつつ、廊下を左に曲がった最奥――その突き当たりには、窓からの日の光に照らされた扉があった。
「ここか……」
カインツは書斎の扉を見据えると、真っすぐに向かう。そして立ち止まることなく、歩く勢いのまま扉を開けた。
突然の物音と現れた人物に、部屋のソファーに座っていた男は弾かれたように顔を振り向けた。
「……誰だ、いきなり」
五十前後の眼鏡をかけた男は、ペンを片手に固まっている。その目の前の机の上には何冊もの本や書類が雑然と置かれている。どうやら何か書いている途中だったらしい。
「エルンスト・ニーマイヤーか」
「そうだが……?」
「ここに偽者がいるとの知らせを受け、やってきた。私は地区隊長のカインツだ」
「偽者? ほお……」
ニーマイヤーは落ち着いた様子でペンを置くと、腕を組んで聞いた。
「知らせというのは、一体誰が?」
「ここの若い使用人だ」
これにニーマイヤーは一瞬目を丸くし、そして笑みを浮かべた。
「そうか。すでに気付かれていたのか……残念だ」
「偽者がいることを認めるのだな」
「ああ……いるよ」
「どこにいる」
「……向こうだ」
ニーマイヤーは自分の背後を顎でしゃくった。そっちには別の部屋の入り口があった。カインツはニーマイヤーの動きに警戒しつつ、その部屋をのぞいてみる。中は四方を本棚で囲まれた、かなり狭い空間だった。その中央に、机に向かって手を動かし続ける男の背中があった。
「立ってこちらを向け」
命令するが、男はまったく聞いていない様子だった。部屋にはペンを動かすカリカリという音が響き続ける。
「……手を止めろ。こちらを向け」
語気を強めて言うが、それでも男は無視する。さすがにカインツも苛立ってくる。
「言うことが聞けないのなら、こちらは実力行使も――」
「ええい、うるさい! 黙れ! 頭の中の言葉が乱れるではないか!」
白髪の混じる茶の髪をかきむしりながら、男はカインツに振り向いた。その声、容姿は、ニーマイヤーと瓜二つだった。偽者がいることを確認したカインツは、その腕をつかみ、強引に部屋から引っ張り出す。
「なっ、何だ、放せ!」
大声で抵抗する新たなニーマイヤーを、カインツはソファーに座らせた。机を挟んで二人のニーマイヤーが向き合う。
「隊長」
騒がしい声に二人の部下がやってきたが、カインツは片手で制する。
「私だけで大丈夫だ。待機していてくれ」
言われ、部下は書斎の外に下がった。
「……お前は、騎士か?」
ようやく気付いたらしい左のソファーに座るニーマイヤーに、カインツはうなずいた。
「どういうことだ。なぜわしらのことが知られている」
「あの小僧だ。知らぬ間に見つかっていたようだ」
「何……? わしらには無関心だと思っていたが……」
「お互いに慣れ過ぎて、少々気を抜いてしまったな。反省せねば」
「そんな反省は必要ない」
カインツの言葉に、二つの同じ顔が同時に振り向く。それを見つめてカインツは聞いた。
「なぜ偽者をかくまった」
「偽者をかくまうことは罪になるのか?」
「それ自体は罪ではない。だが、偽者と知りながらかくまうことは神に背く行為として罪に問われる。学者であるあなたなら、当然知っていただろう。なぜかくまったんだ」
右に座るニーマイヤーは、背もたれに体を預けると、ふうと息を吐いてから口を開いた。
「……研究が、はかどるのだよ」
視線で問うカインツを見て、ニーマイヤーは続ける。
「学問というものは、いくら研究しても切りがないものだ。だが人には限られた時間しかない。その中で、どれだけ深く知ることができ、そして見つけることができるのか……。わしは何十年とこの国の宗教について研究しているが、その制限時間は確実に迫ってきている。生活であり、人生でもある宗教学に、わしは何か一つでも成果を残したいと思っていたのだ」
「研究熱心なのはわかったが、それがはかどることと偽者がどう関係するというんだ」
これにニーマイヤーは不思議そうな目を向けた。
「わからないのか? 偽者がいるということは、つまりわしがもう一人いるという状況なのだよ。同じことを目指し、考える分身がもう一人……。違う表現をすれば、わしは脳みそを二つ手に入れたということだ」
うっすら笑みを浮かべながら、ニーマイヤーはやや興奮気味に話す。
「たとえばだ、人は基本一つのことしか考えられないし、できないだろう。何かを複数行おうとすれば、順序立てたり日を改めるしかない。しかし偽者がいればそんな必要はないのだよ。今まで後回しにするしかなかった研究も、偽者が隣で進めてくれるのだ。しかも、わしと同じだけの知識を持つから、一から教える手間もない」
「共同研究者を得たという感覚か」
「そんな程度ではない。偽者は精神思考まで同じで、他人ではないのだ。意見がぶつかることはないし、伝わりにくい考えも瞬時に理解してくれる。それぞれの研究で行き詰まれば、話し合い、自分の思考も整理できる。それを客観的に見つめ直せることは、研究する身としてはかなり役立つのだよ」
「なるほど。これまでの二倍の速さで研究が進むということか」
「そういうことだ。わしは、もう一人のわしを得たのだ。おかげで研究論文も予定より大幅に書き進めている。発表できる日も――」
「神に背いてまで、成果を発表したいというのか」
カインツの鋭い視線に、ニーマイヤーの言葉が止まった。
「悪魔の力を借りて神を知ろうなどと……本末転倒だ」
これに、二人のニーマイヤーは顔を見合わせると、真剣な表情になってカインツを見た。
「本当に、悪魔だと思うのか」
「……何?」
「わしは次に、偽者についても研究しようと考えているのだが……偽者は本当に悪魔なのだろうか」
カインツは呆れた溜息を吐いて言った。
「大昔からそうだとされている。何を今さら……」
「長年続き、考えられてきたことが真に正しいとは限らないぞ」
「長年続いているからこそ正しいのだ。間違いだと言うのなら、先人がとっくに正しているはずだ」
「そう。正せるのが人であるように、偽者が悪魔だと言ったのも人なのだ。すべての認識は人次第……。ならば、その人が間違っていたらどうする? 常に間違いが付きまとうのが人という生き物だ。騎士であるお前は、その間違った情報を伝えられているかもしれないのだぞ」
「修道会の見解だ。間違いなどない」
「その修道会にいるのは神を信仰しているただの人だ。お前から見れば神にもっとも近い存在なのだろうが、神ではないのだよ。間違いを犯す、わしらと同じ人なのだ」
「まさか、宗教学者が修道会を批判するとはな」
カインツに睨まれたニーマイヤーは、わずかに口角を上げて否定した。
「そんなつもりはない。しかしそう聞こえたのなら謝ろう」
「……どうやらあなたは、人は間違う生き物だと主張して、偽者を悪魔にしたくないようだな」
「そうではない。偽者については未だに謎ばかりの状況だ。それなのに悪魔だという一つの見解しか出されていない。それは学者として、あまりに貧しい思考だと思うのだよ」
「修道会の見解を疑う余地はない」
「それだ。その凝り固まった頭が多すぎるのだ」
内心むっとしつつも、カインツは問う。
「ならば、偽者が悪魔でないと考えるあなたの理由は何だ」
「わしは悪魔でないと言い切るつもりはない。あくまで可能性があることを考えるべきだと言っているのだよ。……まず、見ての通りわしらはそっくりだ。いや、体と意識は別でも同一なのだ。内も外もわしそのもの……。偽者の存在は今でこそよく聞くものになっているが、改めて考えてみると、これほど自分と同じ生命体が生まれ、現れるなど、あり得ないことではないか。双生児とはまったく質の違う、精神構造や脳の使い方まで同じなど……これはもう、奇跡と言っていいと思うのだよ。ではこれほどの奇跡、一体誰が起こせると思う?」
「……神、と言いたいのか」
「そうだ! これはもう神の御業に違いないとわしは考えた。そもそも神は自身の姿に似せて人を創り出したとされている。偽者のような誰かの分身を創ることなど、造作もないだろう。神の御業なら、偽者という存在はまったく害がないことになる」
得意げに語るニーマイヤーをカインツは見つめ、反論した。
「では一つ聞くが、神の御業と言うなら、なぜ分身など創り出すのだ。容姿も性格も違う、新たな人ならまだ理解はできるが、あなたの言う同一の人を創り出す理由がわからない」
「それは、わしもまだ考えをまとめ終えていないのでな。何とも言えないところだ」
「悪魔は神のふりをすると言われている。そうしながら人心を引き付け、この世界を支配しようとする……。私は、偽者を創ったのは神のふりをした悪魔の仕業だと思っている。容姿の同じ偽者を創るのは、神を真似る能力しかないからだ。それを神の御業だと信じ込めば悪魔の思う壺だろう。この世界には人の姿をした悪魔が溢れ、やがて人々は堕落していく。私は騎士として、そんな世界になるのを食い止める所存だ」
「その考えが大勢なのはわかっている。しかし、たまには常識を疑ってみることも大事だとわしは思うのだよ。たとえば以前、友人である学者が――」
「論じ合いはもう終わりだ。私はあなたと意見を交わしに来たのではない」
「そうか……なかなか楽しかったのだが……」
二人のニーマイヤーは残念そうに肩を落とした。
「……確認するが、双子ではないな」
二人は同じように首を横に振る。
「偽者はどちらだ」
二人はお互いを見つめ合う。
「……どちらだったかな」
「四六時中一緒にいると、そういう意識がなくなってくるものでね」
「すべてが同じであるわしらは、どちらも偽者である気がするし、本物である気もしている。自分では結論が出せないよ」
のらりくらりと言う二人の態度をカインツは測りかねた。本当にわからないのか、ただ嘘を言って抵抗しているのか。しかしどちらであろうと、偽者と判断できる証人はおらず、よってカインツが取るべき行動に変更はなかった。
「では、当人と偽者を一時拘束する。……やってくれ」
カインツは部屋の外に待機していた二人の部下に、ニーマイヤーを拘束させた。後ろ手にされた腕を、部下は縄できつく縛り上げる。
「いたた……少しきつすぎやしないか?」
「本を一冊持って行ってもいいかな。もうすぐ読み終えるものがあるのだが」
「駄目だ。聖堂内に私物は持ち込めない」
「そうか……残念だ」
このように偽者だと判断できる証人がいない場合、騎士は二人を拘束し、その地域にある聖堂に連れていくことになっている。そこで聖職者がどちらが偽者かを見定め、そして排除するという流れになっている。
部下に押されて、二人のニーマイヤーは部屋を出て廊下をうなだれて歩いていく。と、玄関に近付いた時、カインツの前を歩くニーマイヤーが背中越しに聞いてきた。
「わしらは、殺されるのだな」
「偽者と判断されたほうはな」
「判断か……それを間違えたらどうするのだろうか」
「これまでに間違いなど起きていない」
するとニーマイヤーは足を止め、首をひねってカインツを見た。
「起きていない? お前は、そう言い切るのか」
問い詰める強い視線に、カインツは思わず息を呑んだ。
「ほら、歩いて」
部下に押され、ニーマイヤーは玄関を出ていく。
「……そうか……間違いなどないか……」
同じ二つの背中は、そう呟きながら並んで連れて行かれた。カインツはその光景を黙って見つめる。その胸の中では、なぜだか黒い点のような、わずかな濁りのようなものを感じていた。
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