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「うん、しょ!」
気合の声とともに、ティアは掛け毛布を陽当たりのいい場所に掛ける。
セミダブルサイズの掛け毛布なのでサイズが大きく、細身なティアにとっては持ち運びも大変だ。しかも、この家は全体的に陽当たりが良くないので、日差しがあるところまでは少し距離もある。大きな毛布の他、足元をちょろちょろと付いて回るブラウニーを踏まないようにして運ぶのも一苦労だ。
「えっと……ブランケットはここでいいですよね。次は、何をしましょうか?」
ティアは屈かがんでブラウニーの頭を撫でつつ、家主のいなくなった家の中をキョロキョロ見回して小首を傾げた。
家主ことエルディ=メイガスは今日ひとりで街まで行ってしまい、ティアはお留守番である。ゆっくりとしていろと彼からは言われたが、ティアからすればどうゆっくりすればいいのかわからないので、とりあえず家事を始めたのだった。今はちょうど掃除が終わって、掛け毛布を干すところまで終わった段階である。
次は何をしようかと家の中を見回していると、ふと洗濯カゴに入れられた自身とエルディの衣服が視界に入った。
ふたりとも着の身着のままでリントリムを訪れ、そのまま生活していた。それほど服を持っているわけではないが、安宿で生活していくうちに着替えも増えてきて、今では衣服も少しはある。
ティアは毎日同じ服でも気にならなかったのだが、天使のローブは目立つらしく、エルディが何着か女性用の衣服を買ってくれた。一方のエルディも毎日同じ服を着ているのはどうのこうの、とアリアから言われたらしく、服を何着か買ったそうだ。
「あ。そういえば、お洋服のお手入れがまだでした」
普段は夜のうちに綺麗にしてしまっているのだが、昨日は依頼が長引いて家に着いたのも遅かったが故ゆえに、洗濯物を放置したままだった。
洗濯カゴに手を翳かざして、いつものように〈浄化魔法サンクティファイオーラ〉を唱えようとしたが、ティアはそこでぴたりと手を止めた。
「……今日は、普通にお洗濯してみましょうか」
天使が当たり前に使っていた魔法は物質界ではかなり稀有けうらしく、〈浄化魔法〉や〈修繕魔法リペア〉などは人前であまり使わないようにとエルディから言われていたのを思い出したのだ。
ティアは洗濯カゴを持って浴室小屋に向かうと、前の家主が置いたままにしてあった洗濯桶の前にカゴを置いた。洗濯桶は少し傷んでしまっていたが、使えないことはない。それに、もし壊れてしまったら、こっそりと〈修繕魔法〉で直してしまえばいいだけだ。
浴室小屋の沸かし場の取っ手を引くと、水路を伝って水が出てくるので、その下に桶を置いて水を溜める。魔法で水を満たしても良かったのだが、なるべく人間の生活習慣に慣れたほうがいいと思い、所謂いわゆる一般的な洗濯の作法に従った。〈浄化魔法〉や〈修繕魔法〉もそうだが、普段から当たり前に使っていると、ふと人前でも使ってしまいそうになる危険もある。無意識に使ってしまわないように、普段は人間の作法に従うのがいいだろう。
桶に水を満たしてから、薬草洗剤を用いて手洗いをしていく。〈浄化魔法〉に慣れてしまっている身からすればかなり面倒だが、その面倒さも含めて人間の生活。慣れておいて、損はない。手は魔法で保護しているが、そこだけは見逃してほしい。
洗濯を終えると、先程の掛け毛布を干してある場所まで移動し、物干し竿を立てて今度は洗濯物を干していく。といっても、それほど量があるわけではないので、すぐに終わった。
「ふぅ……お洗濯もお掃除も完了です!」
部屋を見回して、ティアは満足げな笑みを浮かべた。
特に変わったことなどしていないが、彼女にとっては初めての家での生活。人間らしい生活を送れていると実感できて、なんだか嬉しかった。
(夕飯の仕度はまだ早い、ですよね……)
再度家の中に戻ってベッドにごろんと横になる。
まだ時刻は昼前。やることがなくなってしまって、一気に暇になってしまった。
(エルディ様、今は何をしているのでしょう? 今頃アリアさんにお仕事を紹介してもらっている頃合いでしょうか)
暇になれば、考えるのはエルディのことばかりである。天界のことだとか他の天使のことを考えないようにすると、自然と頭に浮かぶのは彼のことだった。
それも当然か、と思う。天使でなくなってしまった今のティアにとっては、エルディが全てと言っても過言ではないのだから。
(ご飯、美味しいって言ってくれて嬉しかったです。もっと食べてほしいな)
エルディが使っていた枕に自然と頬ずりをして、ぎゅっと抱き締める。
そこでふっと木々の隙間から見える青空を見やった。青空と木漏れ日でとても綺麗なはずなのに、どうしてか胸の中は満たされず、なんだか退屈で面白くなかった。
「エルディ様、早く帰ってこないかな……」
そう独ひとり言ごちた時だった。
ブラウニーがとことこと寝室まで来て、きゅんきゅんと何かを求めるように鳴いた。
「あ、もしかしてお昼ご飯でしょうか? すぐに用意しますね」
そこではっとして起き上がって、台所に向かい、ブラウニーの昼食を用意する。
犬用のドライフードというものも昨日ベッドと一緒に買ってきてあったので、それをまずはブラウニーのお皿に入れる。その上に溶いて焼いた卵と千切りレタスを載せて、味付けに黒すり胡麻をまぶした。
「どうぞ、食べてください」
床に置いてそう言ったものの、ブラウニーは物欲しそうにそれを見ているだけで、ちょこんと座ったままだった。
「あ、そういえば合図をしないと食べないんでしたね。〝よし!〟です」
ティアの言葉に反応して、茶色の胴長短足犬はすぐにがつがつと食べ始めた。前の主人からよく教育されていたようで、〝よし〟と言わないと食べ物を口にしないのだ。
昨夜も干し肉を与えたが、犬はそれを口にしようとはしなかった。どうしたものかと悩んでいたところ、エルディが何かを思い出したように「お手」やら「おかわり」やらと言ってみると、ブラウニーは短い前脚をぴょこんと差し出した。そこで、「もしかして」とエルディが「よし」と言ってみたところ、ばくばくと食べ始めたのだ。どうやら、この言葉を食べて良しとする合図にしていたようだ。
「ふふっ、美味しいですか? 良かったです」
尻尾をぶんぶん振りながらご飯を食べるブラウニーを見ていると、思わず笑みが漏れる。
そこで、ふとエルディにお弁当を持たせていないことを思い出した。
(あれ……? そういえばエルディ様、お昼はどうするのでしょう?)
今日彼は夕方くらいまで帰ってこないと言っていたので、昼ご飯のためにわざわざ一度帰宅などしないだろう。そこまで考えると、空腹で野垂のたれ死にそうになっているエルディの姿を頭の中で思い描くまで、そう時間は掛からなかった。
「エルディ様……大変です!」
顔を青くしたティアは、すっと立ち上がってすぐさま台所で調理を始めたのだった。
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