1-3

 そうして歩くこと数時間。

 人里からだいぶ離れた位置に来たところで、ふと違和感を覚える。


(……あれ? 魔物の気配が、ない?)


 普段なら、これくらい村から離れればそこら中を魔物が闊歩していてもおかしくない。

 いつ襲われても仕方ないと思うほど感覚を研ぎ澄ませているのだが──周囲を見渡しても、魔物どころか動物の気配さえなかった。

 あたりは静まり返っていて、小さな虫の鳴き声が聞こえるだけだ。

 何かが変だ、とエルディは思った。

 ただ魔物がいないだけではない。

 このあたり一帯の空気がおかしいのだ。何故かとても神聖でおごそかな感じがして、教会の大聖堂の中にいるかのような気分になってくる。

 だが、そんな気分を真夜中の草原で味わえるわけがない。


(何だ、この雰囲気は……?)


 異常な空気感にどんどん警戒心が募っていくが、謎の神聖さが不安や懸念を和らげてくるので、エルディとしては自らの精神をどう保てば良いかわからなかった。

 長らく冒険者を務め、〝マッドレンダース〟では数多の強敵と戦ってきた。だが、こんな経験は今までしたことがない。


(一体何が起こる……?)


 警戒心を何とか保ちながら、エルディは剣の柄に手をやり周囲を見渡す。

 次の瞬間──目の前に閃光がほとばしったかのように、光が放たれた。

 咄嗟とっさに宙を見上げると、上空に穴が空いており、光はそこから溢れていた。


「な──ッ!?」


 なんだこれは、と言おうと思ったが声さえも出なかった。

 夜空に空いた穴からは光がとめどなく溢れている。

 溢れ出る光は、神官たちが用いる神聖魔法のものとよく似ていたが、それよりももっと強い。

 その穴からは強力な魔力が周囲に撒き散ちらされていた。

 このあたりに魔物がいないのは、この神聖なる魔力に恐れをなして逃げ去ったからだろう。

 一瞬やんだかと思えば、もう一度強い光が夜空を覆った。

 エルディは眩しさに耐えられず、反射的に片手で目を覆う。

 光が収まったのを確認してから、再び夜空に視線を戻すと──そこには、ひとりの少女の姿があった。銀髪の少女が、白い翼を夜空に広げていた。


「てん、し……?」


 この少女と似た存在を、教会の壁画で見たことがある。

 天使──確か、天界に住んでいて、神の従者だとかそんな扱いだった気がする。ただ、天使は人の世には姿を現さないため、それこそ教会が語り継ぐ神話・伝承に登場する程度の存在だ。

 まさかそんな天使を目の前にするとは思わなかった。

 なんとなくその神々しいものに手を伸ばそうとした時……エルディの手が、ぴたりと止まる。

 美しく綺麗だった白い翼の色が、徐々に変わり始めたのである。

 穢れを知らぬ純白から、邪悪なる漆黒へと。


「堕天使だと……⁉」


 エルディはさやから剣を抜き放って、構えた。

 堕天使──天界から追放された天使で、世界に災いをもたらす存在だ。

 エルディとて細かくは覚えていないが、遥か昔、堕天使によってひとつの大国が滅ぼされたとする伝承が残っている。他にも堕天使がもたらしたと言われる災いはいくつかあるそうだ。

 伝承の真相についてまではわからないが、今エルディは目の前で天使の翼が黒く染まる瞬間を見てしまった。

 彼女がその伝承の堕天使と見て間違いなさそうだ。

 少女はふわりと地面に降り立つと、俯いたまま地面に両膝りょうひざを突いた。


(どうする……戦う、か?)


 エルディは自らの剣を見て、引き攣った笑みを浮かべる。

 万全の状態ならともかく、今手元にある剣は安物のナマクラ。とてもではないが、堕天使と渡り合えるとは思えない。

 それに、彼女は周囲の魔物が残らず逃げ去ってしまうほどの魔力を持っている。仮にエドワードに装備を渡していなくても、まともに戦えるかどうかは怪しいところだった。

 エルディはちらりと背後を見る。

 一直線に行けば、ドンディフの村がある。

 だが、万が一堕天使がエルディを追い掛けて村に辿り着けば、おそらくひとつの村が地図から消え去ることになるだろう。

 村には〝マッドレンダース〟がいるが、他の冒険者パーティーがいる気配はなかった。

〝マッドレンダース〟と共闘したところで、相手が堕天使ではその未来が変えられるとも思えない。

 少なくとも、村に近付けるわけにはいかなかった。

 自分が死んだ後にどうなろうが知ったことではないが、自分のせいで大勢の人間が死ぬのだけは避けたい。


(それに、俺にはアレがある。一太刀ひとたちくらいは浴びせてやるさ)


 どれだけ戦えるかわからないが、やり合うしかない──そう腹を括った時だった。


「あの……すみません」


 俯いたままの堕天使が、エルディに声を掛けた。

 彼女の声はか細く、聞く者の心を和ませる可愛らしさがあった。

 まさか話し掛けられるとは思っておらず、エルディは目をはる。


「あなたは……剣士、なんですよね?」


 伏目でエルディの剣を見て、堕天使の少女が訊いた。


「……? 一応、な。さっき仲間に身ぐるみを剥がれたばかりの、情けない剣士さ」


 エルディは自嘲し、軽口を叩いてみせた。

 もちろん、堕天使の一挙一動には全神経を尖とがらせている。一瞬でも動けば、すぐに攻撃を仕掛けるつもりだった。

 彼女は言った。


「そうですか……それは、災難でしたね」

「ああ、災難だ。ただ、深夜に堕天使と出くわすほどじゃないさ」

「……そうでした。それも、そうかもしれません」


 少女は横目で自らの背を見て、口元に苦い笑みを浮かべた。


「あの、剣士様」

「なんだい?」

「初対面の方に、こんなお願いをするのも心苦しいのですが……」


 そこで、堕天使は顔を上げた。

 目の前にいたのは、教会の壁画から出てきたかのような美しい少女だった。

 月光が照らす柔らかな光の中、彼女の顔は薄蒼色を帯びていた。白銀色の髪が優雅ゆうがに彼女の肩を撫で、煌びやかな飾りが耳元で静かにまたたいている。

 大きな碧眼へきがんは子供の無邪気さと聖母の優しさを映し出し、堕天使であるはずの彼女からは温かさと親しみやすさが溢れていた。

 愛らしさもありつつ、清楚せいそだとか楚々そそだとかといった言葉が似合う顔立ち。

 しかし──その美しい瞳は今、深い悲しみに満ちていて、ほほには涙の跡が残っている。

 少女はその碧眼の瞳で、まっすぐにエルディを見つめていた。

 彼女の浮世離れした美しさに、エルディは思わず固唾を呑む。

 こんなにも美しい少女を前にしたのは、人生で初めてだった。

 堕天使の少女は固まるエルディを気にも留めず、その碧眼からひとしずくの涙を零こぼし、こう懇願こんがんした。

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