1-4

「私を、殺してくれませんか?」

「……は?」


 堕天使の少女の嘆願たんがんに、エルディは困惑を覚えた。

 意味がわからない。

 殺される覚えはあれど、殺してくれと願われる覚えはなかった。


「私が許されるにはもう、それしかないんです……お願いします。こんな醜い翼でなんて、私は……ッ」


 少女は自らの黒い翼を見てから、両手で顔を覆って涙した。

 頬に涙の跡が残っていたところを見ると、ずっと泣いていたのかもしれない。

 それにしても、どういうことなのだろうか。

 さっぱり事態がわからなかった。

 堕天使は悪しき存在、地上に災厄を振り撒くものと聞いていたのに、目の前にいる堕天使からはそういった気配が全く感じられない。


「わざわざ人の手を借りなくても、死にたきゃ勝手に自分で死ねばいいだろ」


 エルディは真っ当な返事をしたつもりだった。

 だが、彼女は「できないんです」と首を横に振る。


「できない? どうして?」

「私たち天使は神により生み出された身ですから……当然、自害は許されていません」

「教義には逆らえないってことか」


 エルディの言葉に、堕天使の少女はこくりと頷く。

 教会の教典では、自害が固く禁じられている。自害した者は一生地獄で苦しむと言われており、信者にとって自害とは犯罪と同じくらい罪深い行為だそうだ。

 そういえば、〝マッドレンダース〟の治癒師・フラウも自殺者を見て嘆いていた。

 神の使いの天使ともなれば、尚のこと赦されないだろう。


「あんた、堕天使なんだろ? じゃあ、神の教えになんて従う必要ないじゃないか」

「そういう話ではありません。私たちには、その行為そのものができないんです」


 信者は自らの信念や意思で自害を行わない。

 だが、神から生み出されたとされる天使は、その行為そのものが先天的に封じられているのだという。


「なるほどな。それで、殺してくれ、と」

「はい。私には、もう……生きている価値などありませんから」


 堕天使の少女は項垂うなだれ、涙を地面に落とした。

 心から背信しているわけではないが、何らかの教えに背いてしまった結果、堕天使にされてしまった、と。おそらく流れから汲み取る限りは、こういった感じだろうか。


「なあ、あんた。ひとつ質問していいか?」

「はい、何でしょう?」

「堕天使ってのは、地上を荒らし回る存在なんじゃないのか?」


 エルディは抱いていた疑問を素直に訊いた。

 出会ってからこれまでの間、この堕天使の少女から伝承のような悪しき気配を一切感じていない。

 それが不思議でならなかった。

 彼女はただ自らの行いを悔いて、死にたがっているだけだ。地上を荒らして回ったり、街や国を滅ぼしたりする気概がこの少女にあるとは到底思えない。


「……どうして、堕天使がそんなことをするのでしょうか?」


 エルディの問いに、少女は顔を上げて不思議そうに首を傾げた。

 その目尻には、先程までの涙を残したままだ。

 無邪気な仕草と涙のギャップに、なんとも言えない微笑ましさを感じてしまった。


「いや、知らないけど。そんな伝承が残っているんだ。だから、あんたが現れた時はびっくりした」

「そんなッ。堕天使はあくまでも天界を追放された天使を指す呼称です。物質界に迷惑を掛けるなど」


 有り得ません、と堕天使の少女は小さな声で付け足した。

 堕天使が国を滅ぼした云々の伝承はかなり眉唾物まゆつばもの、ということなのだろうか。

 まだ彼女の言葉を信用したわけではないが、この少女にはエルディを騙す必要がない。それに、嘘を吐いているようにも思えなかった。


「天界を追放、ね……」


 先程ヨハンから言われた言葉が脳裏を過よぎる。

 何かしらのおきてを破ったから追放されてしまったのだろうが、それだけで本当に彼女が悪いのかは判断できない。というか、少し話してみた限り、この少女が悪人とも思えなかった。


「悪いけど、特段危害を加える気もない女の子を殺すのは俺の主義に反する。あっちのほうに小さな村があるから、そこを滅ぼしてみたらどうだ? そうすれば俺にもあんたを殺す理由ができるんだけど」


 エルディは少しカマを掛けてみた。

 これにどう答えるかで彼女の本質が見抜けると思ったのだ。

 だが、反応を待つまでもなく、彼女は両手をこちらに突き出して、ぶんぶんと首を横に振った。


「む、無理です! 私にそんなことができるわけないじゃないですか!」

「それだけの魔力を持ってるんだ。村ひとつ吹き飛ばすことくらい簡単だろ?」

「そういう話ではありません! 私がしたくないんですッ」


 堕天使の少女はあたふたとした様子でエルディの提案を拒絶する。

 おそらく、本心なのだろう。

 これもエルディの予想通りの反応だった。やはり、この堕天使の心は善人そのもの。いや、人ではないのだけれど。

 ただ翼が黒いだけで、人々が思い描く天使とそう大差ないように思えた。少し幼い印象があるが、もしかするとそのあたりに追放された原因があるのかもしれない。

 エルディは小さく溜め息を吐くと、剣を収めて彼女の前に片膝を突き、目線を合わせた。


「なあ、堕天使さん。あんた、何で天界を追放されたんだ? 俺にはあんたが悪い天使には思えないんだ。人間相手で何だが、よかったらあんたの事情を聞かせてくれないか?」


 その言葉に堕天使の少女は大きく目を見開いて、その碧眼にエルディを映した。

 信じられない、とでも言いたげな表情だ。


「何を言ってるんですか……? 天界を追放されて、もう存在意義も何もかもを失ってしまって……天使失格なのに」

「だから? それがどうかしたか?」


 エルディの返答を予想していなかったのか、彼女は「えっ?」と顔を上げた。


「天界がどうの存在意義がどうのとかってのはあんたらの常識だろ。そもそも、こっちの連中は天界のことなんてほとんど知らないんだ。あんたがどう天使失格で何が悪いとか、その話だけじゃ何も判断ができない。だから、教えてほしいんだ」


 これまでのやり取りを経て、エルディにはこの少女がそう悪いことをしたとは思えなかった。

 天界の掟や教えに反するということはあったのだろうが、その価値観がこちらにも当てはまるのかは聞いてみないことにはわからない。ならば、話だけでも聞いてみても良いのではないだろうか。

 何せ、エルディ自身も身ぐるみを剥がれて追放されたばかりの身。いわば、似た境遇だ。

 どうにも他人事には思えなかった、というのもあるのかもしれない。


「本当に……私なんかの話を聞いてくださるのですか?」

「ああ。幸か不幸か、あんたのおかげでここら一帯の魔物は逃げちまったしな。堕天使さんとお喋りしながら月見と洒落込むのも悪くない」


 まるまると太った月を親指で差して、口角を上げてみせる。

 堕天使の少女はいまだに信じられないのか、ほうけた様子でエルディを見ていた。


「と、その前に……」


 エルディは一旦言葉を区切って、有翼の少女の前に右手を差し出した。


「軽く自己紹介だけしとこうか。俺は冒険者のエルディ=メイガス。エルディでいいよ。あんたは?」


 おそるおそる、といった様子で彼女はエルディの手を取った。

 どうやら、握手という人間の文化は知っているらしい。

 エルディが彼女に向けて柔らかい笑みを向けてみせると、堕天使の少女も面映おもはゆそうに笑って、首をほんの少し傾けた。

 その笑顔はこの世のものとは思えないほどの美しさだった。


「ティア=ファーレルと申します。少し前まで、天使をやってました」


 月光がふたりを照らす中、ふたりはもう一度笑顔を交わし合う。

 これが、パーティーを追放された者と天界を追放された者の邂逅だった──。

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