もうひとりの聖女・1
海辺の港町の朝は早い。
港のすぐ傍で開かれる朝市は、新鮮な魚介類を求める人々で賑わっていた。
ラネも、少しでも安い品を求めて奔走する主婦たちと同じように、今日と明日の献立を考えながら買い物をしていた。
それが終わっても、すぐに帰るわけではない。
今度は主婦たちが集まって、食材の交換が始まる。
朝市では、たくさん買った方が安いが、新鮮なうちに食べられる量は限られている。だから、いつも近所の主婦たちと、買ってきたものを半分ずつおすそ分けをするのが定番となっていた。
「ラネちゃん。この魚、半分もらってくれない?」
大きな魚を抱えながらそう提案してくれたのは、向かい側に住んでいるサーラだ。
ラネよりも五歳ほど年上の彼女は、ひとりでふたりの子どもを育てている。夫は漁船で働いていたが、海の事故で亡くなってしまったらしい。
残された子どもたちはまだ七歳と十歳で、どちらも男の子だ。
まだ遊びたい盛りだろうに、ひとりで奮闘している母の手伝いをしようと、健気に頑張っている。
アレクはそんなふたりを見て、自分の子どもの頃を思い出すようだ。
子どもたちを連れて魚釣りに出かけたり、王都に行ったときはお土産を買ってきたりする。
だから子どもたちもすっかり懐いていて、見ていて微笑ましい。
「ありがとう。じゃあ、この貝を半分貰って。スープにするとおいしいの」
レシピを教え合いながら、食材も交換する。
そんなラネに、また別の女性が声をかけてきた。
「ラネさん、この魚も貰って。干物にすると保存できるし、アレクさんにはお世話になっているから」
そう言って、魚を差し出してくれた。雨漏りをして困っていると聞き、アレクが修理をしていたことを思い出す。
それからも次々と、交換ではなくお礼として差し出され、ラネは重い荷物に一苦労しながらも、ようやく家に辿り着いた。
「おかえり」
家に戻っていたらしく、アレクが出迎えてくれる。
両手いっぱいに荷物を抱えたラネを見て、運ぶのを手伝ってくれた。
「随分買ったな」
「違うのよ。みんな、お礼だと言って……」
ラネはひとつずつ、誰から何のお礼だったのかを説明する。
「あと、これはサーラさんから。いつも子どもたちと遊んでもらってありがとうって」
そう言って半分にした魚を差し出す。
「ああ、ノアとシャイドか」
そう言ってアレクは、柔らかく微笑む。
サーラの子どもたちは、十歳の兄がノア。七歳の弟がシャイドという名前だった。
「ノアは冒険者に。シャイドは、父と同じ漁師になりたいらしい」
「そうなのね」
子どもたちの顔を思い浮かべて、ラネも笑みを浮かべた。
アレクは子ども好きで、子どもたちからも懐かれている。サーラに、アレクはきっと良い父親になるよ、と言われたことを思い出して、頬が熱くなった。
夫婦なのだから、いずれそんな未来もあるかもしれない。そう考えると、ラネの胸も幸福感に満ちる。
(もしそうなったら、子育てをするのは、この町がいいわ。みんな親切で優しいし、海も綺麗だし……)
アレクとラネを勇者と聖女ではなく、普通の若夫婦として扱ってくれるのは、この町の人たちだけだ。
海のない山間の村で育ったラネだったが、今ではすっかり海の景色も海鮮料理も気に入っている。
子どももたくさんいるし、ラネと同じ年頃の夫婦も多い。
王都の屋敷は当分ラネの両親に任せて、ここでのんびりと暮らせたらいい。
そう思っていた。
けれど、それから数日後のこと。
アレクの妹で、ラネにとっても義妹になったリィネから手紙が届いた。ひさしぶりに会いたいと書かれていて、それを見てふたりは急遽、王都に帰ることになった。
リィネはアレクやラネと同じく平民だったが、王太子であるクラレンスと結婚し、今は王太子妃となっている。
アレクが魔王を打ち倒した勇者であり、その妻であるラネが聖女でなければあり得なかったことかもしれない。それでもクラレンスとリィネは相思相愛で、仲睦まじい夫婦であった。
けれど、やはり平民出身ということでリィネを軽視する貴族もいるらしく、苦労している部分もあるようだ。
そんな彼女から手紙が来たとあれば、アレクもラネも、王都に向かうことを躊躇わなかった。
それに、来月は建国記念日があり、かなり大規模な式典が開かれる。
もともとアレクもラネも、この国出身の勇者と聖女として参加する予定である。だからふたりで話し合い、少し早めに王都に向かうことにした。
ただでさえ、初めての大きな式典で緊張しているだろうリィネの、傍にいてあげたかった。
王都に到着すると、まず屋敷に戻って両親と会う。
殺風景だった大きな屋敷は、いつの間にか花で溢れ、優しい雰囲気に変わっている。庭には珍しい花もたくさん咲いていた。
もともとこの屋敷は、アレクが妹のリィネのために購入し、名義も彼女のものになっていた。魔王討伐に向かうことになったアレクは、生きて戻れない可能性を考えて、妹のためにそうしたのだ。
けれど、アレクは魔王を倒して凱旋し、リィネもこの屋敷を出て王太子妃となっている。
だからこの屋敷は今、アレクとラネの夫婦のものであり、留守の間はラネの両親にすべてを任せていた。
広い庭に花だけではなく畑まで作ってしまった両親に、ここまで変えてしまって大丈夫なのか少し心配だったが、アレクはむしろ嬉しそうだった。
「ふたりとも、お帰りなさい」
そう言って迎えてくれた母は、当然のようにラネだけではなくアレクも抱きしめた。
早くに両親を亡くし、まだ子どもの頃から妹を守るために戦ってきたアレクは、ラネの両親をとても大切にしてくれている。
両親もまた、そんなアレクを勇者ではなく息子として接していた。
母親が夕食に作ってくれたのは、アレクの好きなミードのスープだったし、父もいそいそと酒を取り出している。アレクと一緒に飲みたいようだ。
そんな父とアレクを残し、ラネは母親と自分の部屋に移動した。
明日は王城に行き、リィネと会う予定である。
王城に行くのだから、ドレス姿で行かなくてはならない。ドレスをいくつか取り出して、確認していた母親は、ラネを見て首を傾げた。
「海辺の町での生活は、楽しかったみたいね。このドレス、まだ着られる?」
「……うぅ」
思わず呻いてしまったのは、自覚があったからだ。
新鮮な海鮮料理はおいしくて、つい食べ過ぎてしまう。
「大丈夫、だと思う。今はまだ」
そう言いながら恐々と試着してみたが、何とか大丈夫のようだ。
たしかに母の言うように、海辺の町での生活はとても楽しくて、式典が終わったらすぐにでも帰りたいと思っていた。
でも、その翌日にリィネと再開して、ラネは考えを変えた。
「兄さま、ラネ。久しぶりね。会えて嬉しいわ。急に呼び出してしまって、ごめんなさいね」
そう言ってにこやかに笑ったリィネは華やかなドレスを身にまとい、その美貌も以前よりも光り輝いている。
でもラネとは正反対に、少し痩せたように見えた。
「リィネ、大丈夫?」
思わずそう尋ねると、リィネはもちろんだと笑って頷く。
「ええ、もちろん。クラレンスはいつも大切にしてくれるし、最近はお友達もできたのよ。ただ、ひさしぶりにラネと兄さまに会いたくなって」
明るいリィネの笑顔に、ラネは深く安堵した。
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