第34話 幕間 聖女アキ
緑野亜紀は、どこにでもいる普通の大学生だった。
容姿も学力も、運動も普通。自分が人並であることを自覚しながらも、それでも「特別」に憧れていた。
誰かの特別になりたい。
特別なことを成し遂げたい。
けれどそれには能力も努力も足りず、その他大勢の中に埋もれていくだけ。
そんな自分の人生が心底嫌になって、友人の誘いで簡単に道を踏み外した。
夜の町を歩くと、自分が特別になったような気がした。
若いというだけでもてはやされる。
一緒に食事をするだけで大金がもらえて、それを使ってさらに外見を派手にしていくと、今までの友人がひとりもいなくなった。
代わりに同じような恰好をした人たちと行動するようになり、大学では目立つ存在になりつつあった。眉を顰める者もいたが、それすらも自分が特別になったようで楽しかった。
そんな日常の中。
この日も真夜中まで町に出ていた亜紀は、ふと誰かに呼び止められたような気がして、足を止めた。
振り返ると、一瞬で全身が光に包まれた。
あまりにも強い光に固く目を閉じる。
(嫌だ、怖い……)
ふと空気が変わったような気がしてそっと目を開けると、信じられないような光景が広がっていた。
ヨーロッパの城のように、美しく豪奢な場所。
足元には、魔方陣のようなもの。
そして目の前には、たくさんの人たちがいて、亜紀に向かって頭を下げていた。
「え、なに?」
思わずそう問いかけると、ゲームの魔導師のような恰好をした男が、恭しく言った。
「召喚は成功しました。このお方が、聖女様です」
「せ、聖女? それって……」
見れば目の前にいる人たちは、すべて日本人ではなさそうだ。
「聖女様。お名前をお聞かせいただけませんか?」
「えっと、亜紀だけど」
「聖女アキ様。どうか、この世界をお救いください」
話を聞くと、どうやら亜紀は聖女として召喚されていたらしい。
その手の小説があることは知っていたが、まさか自分の身に起きるとは思わなかった。
けれど戸惑いよりも、やはり自分は「特別な存在」だったのだという、喜びの方が勝った。
大聖堂という教会のような場所に連れて行かれ、そこで色々と試してみたが、あっさりと聖女の力を使うことができた。神官の中には、亜紀の姿を見ただけで感動し、涙ぐむ者までいる。
元の世界ではテレビの中でしか見たことがないような、整った顔立ちの青年とも対面した。
金の髪をしているのが、この国の王太子であるクラレンス。銀髪をしているのが、その従弟で、公爵令息のノア。
どちらも、ずっと見ていたいほどの美形だ。
聖女ならやはり、王太子と結ばれるべきだろうか。でも、公爵も捨てがたい。どちらでも、聖女である自分が望めば喜ぶだろう。
魔王討伐の話が出たときも、怖くはなかった。
むしろ聖女召喚のテンプレだと喜んだくらいだ。亜紀にとっては、魔王さえも自分がもっと特別になるための手段でしかなかった。
けれど勇者アレクと引き合わせられたとき、亜紀は自分が主人公ではないと知ってしまう。
彼こそが、まさに「特別」な存在だった。
光り輝く豪奢な金色の髪に、澄んだ青空のような瞳。付き添ってくれていたシスターに声を掛けられるまで、亜紀は彼に見惚れていた。
屈強な冒険者が数人でも倒せないような魔物を、一撃で倒す力。それはまさしく勇者の力だ。
けれど彼はそんな力に溺れることなく、ひとりでも多くの人を救うために戦っている。
誰もが見惚れるほどの容貌。
圧倒的な力。
そして、高潔な心。
彼こそが唯一無二の、特別な存在だ。
勇者の存在を知ってからは、聖女の相手は勇者しかいないと思っていた。
けれど実際に会ってみて、彼だけはあり得ないとわかった。
一緒にいると、自分が紛い物のように感じて苦しい。
どうしようもないほど惹かれるのに、その青い瞳で見つめられると、自分が小さくつまらない者に思えていたたまれなくなる。
この世界では、勇者が誕生しても聖女が見つからなかった場合のみ、異世界召喚で呼び出して聖女とするらしい。
だから亜紀は本物の聖女ではない。
ただの代理でしかないのだと、「本物」の勇者であるアレクを見るたびに思い知る。
苛立ちを、傍にいるシスターたちに向けることが多くなった。彼女たちは、聖女の機嫌を損ねてしまった自分が悪いと、萎縮して謝罪を繰り返す。
それがますます亜紀を増長させた。
魔王討伐の旅に出てからも、アレクを見る度に、話しかけられる度に、理由のわからない焦燥感と劣等感に苛まれる。
「……私は特別よ。聖女なんだから」
胸の高鳴りとともに呟いていたその言葉が、自分に言い聞かせるためのものになったとき、自分と同じ目で彼を見ている人に気が付いた。
同じパーティメンバーの剣士。
エイダーである。
あれは自分と同じ。
「特別」に憧れ、ようやく手にしたと思ったのに、「本物」を目にしてしまい、諦めと嫉妬に苛まれている瞳だ。
話を聞いてみると、彼は山間にある小さな村の出身らしい。
子どもの頃は同世代の幼馴染に虐められ、いつか必ず復讐してやると誓って、剣を手にしたという。素質はあったらしく、それほど努力しなくとも名声を手にすることができた。
とうとう魔王討伐バーティにまで選ばれて、自分はもう小さな村の住人たちとは違う。特別な人間だと思っていた。
勇者に、アレクに会うまでは。
互いに同じ感情を抱いているのがわかって、エイダーと打ち解けるのに時間は掛らなかった。劣等感に苛まれると、立場の弱い者に当たってストレスを発散するところも似ている。
エイダーと一緒にいると劣等感もなく、とても楽だった。
けれど彼には、村に幼馴染の婚約者がいるらしい。
「あんなに村の人たちが嫌いだと言っていたのに、どうしてその村の人と婚約したの?」
「ラネは村一番の美人で、皆がラネに恋をしていた。だから、先に奪ってやったんだ」
その理由ならば、納得できる。
亜紀もあまり興味がないのに、クラスで騒がれている男子生徒に近付いて恋人になったことがあった。クラスメイトの嘆きと妬みの視線が心地良くてしばらくは付き合っていたが、飽きてきたので別れた。
「だったら、みんなの前でその人を手酷く振ったら、もっとすっきりするわよ」
「え、ラネを?」
未練があるような様子に、初めてエイダーに苛立ちを感じた。
「そうよ。そんな田舎の村の幼馴染なんかと結婚したら、あなたは平凡な男に成り下がってしまうわ。あなたは剣聖の称号を得るのよ? もっと特別な存在を娶るべきよ」
エイダーと自分は似ている。
だから、彼が飛びつく言葉ならよくわかる。
「例えば、世界にひとりしかいない聖女とか」
「アキを……」
エイダーの視線が熱を帯びる。
「だがアキは、アレクシスを……」
勇者アレクは、国王によってアレクシスと名付けられていた。いかにも平民のような短い名は、勇者にふさわしくないと。だが彼自身はその名を嫌っているらしく、亜紀とエイダーはあえてそう呼んでいた。
「アレクシスよりも、あなたがいいわ。私はエイダーを選ぶ」
勇者に劣等感を抱えている彼が、その言葉に飛びつかないはずがない。
こうしてエイダーは亜紀の婚約者となり、幼馴染の婚約者には婚約解消を告げることもせずに、大勢の村人たちの前で結婚を発表した。
聖女と剣聖の権力を恐れた村人たちによって、彼女は村で孤立しているらしい。
「私もその女の絶望した顔が見たいわ。式に呼んでよかったわね」
エイダーの父から話を聞いた亜紀は、上機嫌で笑う。
村人たちも式に招待したのは、昔、自分たちが蔑んでいたエイダーがこれほど出世したのだと、もう自分たちとは違う世界の人間だと見せつけるためだ。
威張っていた村長の息子もすっかり萎縮していたらしく、その姿が滑稽だとふたりで笑い合った。
あとは、婚約者に捨てられた惨めな女の顔を見るだけ。
そう思っていたのに、その女は王城で開催された祝賀会に、よりによってアレクにエスコートされて現れた。
(どうしてあの女が、アレクシスと一緒にいるの?)
しかも初めて見るそのラネという女性は、亜紀が一番嫌いな清楚系の美女だった。
アレクは彼女に丁寧に接し、彼がそんな態度をするものだから、周囲の人たちも口々に彼女を称える。しかも、王太子とも既に親しげだ。
「……気に入らない」
嘘を言って貶めてやろうとしたのに、アレクには通用しない。それどころか、聖女と剣聖の結婚式の祝賀会だというのに、その女を連れて退出してしまった。
エイダーが、アキに焚きつけられるまでは、着飾ったその女に見惚れていたことも許せない。
しかもアレクは最後に、恐ろしい言葉を言い残した。
(私はこの世界で唯一の聖女よ。力を失うなんて、そんなことはあり得ないわ)
ペキイタ王国にドラゴンが出没して、アレクがすぐに討伐に向かったときも同行しなかった。
彼が何と言おうと、聖女の力はこの身に宿っている。
さすがにドラゴン相手では勇者でも苦戦するだろうから、危機に陥ってから助けるつもりだった。なぜか彼が同行を拒んだことも、許せない。
(私がいなければ倒せないのに、どうして危険だから来るな、なんて)
あのときのアレクの態度からして、亜紀を案じてくれたとは思えない。
理由がわからないからか、再び夜会に現れたラネに無理やり謝罪させ、もう二度と王城に来ないことを約束させたのに、すっきりしない。
ドラゴンを倒し、アレクに自分の力を認めさせるしかないのだろう。
そう思った亜紀は夫となったエイダーを連れて、ペキイタ王国に向かった。
国王から何度も丁寧な招待を受けていたので、もちろん先に王都に向かい、熱烈な歓迎を受ける。若くて美しい国王に、エイダーが嫉妬しているのも心地良い。
(そうよ。私の力でドラゴンを倒せば、アレクだって認めてくれるはず)
そう思っていた。
ようやく向かったドラゴンとの戦いの場は、想像以上に荒れていて、激戦だったことがわかった。
町だった場所は瓦礫の山となり、負傷して動けない騎士団の逗留所には、疲れ果てた顔のシスターが駆け回っている。
濃い血臭と崩れた瓦礫の埃っぽさに、亜紀は顔を顰めた。
討伐に時間が掛かっているのは、ペキイタ王国の王が自国の騎士団も戦闘に参加させたせいだ。彼らを守り、負傷した騎士を後方に下げたりしている間に、ドラゴンは回復してしまう。
もしアレクと大魔導となったライードとふたりだったら、もう終わっていただろう。
こんな状況でもう何日も戦い続けているアレクは、さすがにいくつか傷を負っていたが、その瞳に宿る光は強く、僅かな陰りもない。
足手まといになっている騎士たちにも苛立つようなこともなく、むしろ気遣う様子さえ見せていた。
「アキ、なぜここに」
アレクは亜紀とエイダーに気が付くと、険しい顔をする。
「危険だと言ったはずだが」
「私がいなければ討伐できないのに、そんなことを言ってもいいの?」
わざと呆れたように言ってみるが、アレクは気にもしていない。
「私は聖女よ。あなたに心配される必要はないわ。エイダーとドラゴンの様子を見てくるから、負傷者の確認をしてきて。あとで治療するわ」
「……わかった」
負傷者の治療をすると言えば、アレクが逆らわないのはわかっていた。
だからあらかじめペキイタ王国の王と相談したようにアレクを現場から離し、何も知らない数名の騎士を連れてドラゴンに近寄る。
(犠牲者を極力出さないようにするから、長引くのよ。最小の犠牲で勝利を勝ち取ったほうがいいに決まっているじゃない)
ペキイタ国王も、長引く戦いに不安を募らせていた。
ある程度の犠牲は仕方がないので、早く終わらせてほしいと願っていた。
そこで、身分の低い騎士を囮にして、ドラゴンが彼らに気を取られているうちに亜紀とエイダーでドラゴンを倒す作戦を提案した。アレクが反対するのはわかっていたので、理由をつけて彼を遠ざけた。
こうすればドラゴンを討伐したのは、尊い犠牲となったペキイタ王国の騎士。そして聖女と剣聖である。
「さあ、ドラゴンの傍に。大丈夫よ。私の結界が守っているから」
もちろん結界など張っていない。
彼らはそれを信じて、恐る恐るドラゴンに近付いていく。
「急いで。躊躇した人には回復魔法を掛けないわ」
そう脅すと、彼らは勇気を振り絞ってドラゴンに駆け寄った。
「エイダー」
亜紀は夫の名を呼ぶと、ドラゴンが哀れな騎士たちに襲い掛かっている間に、隙をついて倒すつもりだった。
けれど。
「え?」
ドラゴンを拘束して弱らせるはずの魔法が、発動しなかった。
殺気に気が付いたドラゴンが振り返り、その紅い瞳が亜紀とエイダーの姿を捉える。
「アキ、どういうことだ?」
「わ、わかんない。急に魔法が発動しなくて……」
ふと、アレクの言葉が蘇る。
魔王が消滅した今、その力は不変ではない。あまり悪意のある行動ばかりしていると、聖女の力を失うことになる。
(嘘よ。そんなはずはないわ。私は特別な聖女なんだから)
焦りながら何度も試してみるが、魔法はすべて使えなくなっている。
凄まじい悲鳴が聞こえて顔を上げると、エイダーの両手がドラゴンに噛み千切られていた。
「ひぃぃ」
思わず悲鳴を上げながら、必死に逃げようとする。
もう少し逃げれば、アレクがいる。
彼ならきっと助けてくれる。
けれど下半身に鋭い痛みが走って、亜紀は悲鳴を上げた。
必死に逃げようとしているのに、もう歩くことができない。
激痛とともに、意識が途切れていく。
「私は……」
特別な聖女なのに、と言いたかったが、もう声は出なかった。
◆ ◆ ◆
凄まじい悲鳴が聞こえてきて、アレクは足を止めた。
それは、聖女アキに治療してもらいたいペキイタ王国の騎士を、ひとつのテントに集めていたときだった。
女性の悲鳴だと気が付いて、アレクは走り出す。
「おい、アレク。今のは……」
他のテントから、仲間の魔導師ライードが駆け出してきた。
「おそらくアキの声だ。ドラゴンに近付いたのか」
「何か企んでいる気がしたが、まさか……」
聖魔法を使えば、簡単に倒せると思ったのかもしれないが、このドラゴンは自分の傷を簡単に癒してしまう。闇雲に戦って勝てる相手ではない。
しかも、人喰いドラゴンだ。
急いで駆け付けてみると、現場は血の海になっていた。
生き残っているのはエイダーだけ。だが彼も、両手を失って痛みに転げ回っている。
「ライード、エイダーを頼む」
「え? お前は?」
「ここで食い止める」
これ以上被害を出すわけにはいかない。
アレクは他に生存者がいないことを確認すると、ドラゴンに剣を向けた。
堕落して聖属性を失ったアキだったが、魔力だけは残っていたようだ。
豊富な魔力を持つアキを喰らってさらなる力を蓄えたドラゴンは、地鳴りするほどの声で咆哮する。
「早く避難しろ。間に合わない」
「……っ。わかった」
ライードは暴れるエイダーを拘束して、そのまま転移魔法で移動した。
仲間が安全な場所に逃げたことを確認すると、アレクは剣を握り直す。
こうなる予感はあった。
だからアキを近付けないようにしていたのだが、最期まで彼女が改心することはなかったようだ。
まさか、自分がいない間にドラゴンを討伐しようとするとは。
しかも複数の騎士を囮にして。
聖女がそこまで堕落するとは、さすがにアレクも思わなかった。
失われた聖女。
もう剣を持てない剣聖。
そして、さらに狂暴化したドラゴン。
状況は最悪だった。
けれど負けるつもりはない。
大切な妹と、そしてラネが待つあの場所に戻らなくてはならない。
ふと、あのときに受け取り行くはずだった、ふたりのドレスのことを思い出す。
薄紅色のドレスは、ラネにきっとよく似合うだろう。
「見に行かなくてはならないな」
そう呟くと、剣を握り直した。
きっとすぐに終わるだろう。
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