離れた分だけ近づいて、すれ違うのは一瞬のことだった

硝水

第1話

「濡れるのって嫌じゃない」

 ほんとうに時々、猫みたいなことをいう人だ。あの素敵な鞄で爪をとぎたいとか。そういう。彼女はシンプルだけどすごく長いスカルプをしていて、器用に暮らしている。結局邪魔ってことだろうか、それ。

「どうして?」

 前世、猫だったんですか、を飲み込んで。前世は猫だったんだろうと思うから。前世があるなら。

「むかしを想い出す」

 この人のいう昔って、どのくらい昔なんだろう。羊水に浸かっていた頃か、前世で黒猫だった時か、海に溶けたアミノ酸だった当時か。

「嫌なことがあったんですね」

「ううん、別に」

「じゃあ思い出してもいいんじゃ」

「よくないよ」

「そうですか」

「よくない」

「ふぅん」

 やめやめ、とでも言いたげに雑に押しつけられる唇からは合成された花の香りがして、天津飯の後味と心底全く合っていなかった。けど、おかわり。大雑把な花の味を全部飲み込んで、べ、とお互いの舌をみせあう。

 彼女の舌を貫くピアスからのびた鎖の、先にさがった錘はいつもぐるぐる回っていた。それがどういう意味なのか僕は知らないし、知らなくていいんだと思う。細くてキラキラした鎖をまるで素麺みたいに啜って収納し直した彼女は、モゴモゴと効果音を発しながら口の前に右手をスタンバっている。結局邪魔ってことだろうか。

「ぼくはね」

「はい」

「くぁ」

 とても重要そうな話を始めようとして自ら欠伸することがあるだろうか。

「猫ちゃんなんですか?」

「ああ、音子ちゃんさ」

 そういえばそういう名前だったなぁ、この人。名は体を表すとはいうが。どちらかというと態のような。

「で、何だったんですか?」

「そう急かしなさんな」

「忘れたんですね」

「そうだよ」

「潔い返答」

 人のヘソをぐりぐりほじくってくる彼女は、もうすぐ八重歯じゃなくなってしまう。僕もはやく過去になって、何度も何度も、それこそ一生ずっと、思い出してもらえるほうが、よっぽどいいような気がしてくる。想い出は綺麗だから。

「僕達、うまく行ってますか?」

「君は自信がなさすぎる」

「そんなこと言われても」

 それも、自信の塊みたいな人に。きゅっと目を細めると余計に猫みたいだった。

「ぼくはね」

「はい」

「くぁ」

「はいはい」

「君とのいまを大事にしたいんだって話をしてたんだけど」

 バックグラウンド・ミュージックがわりのメトロノームは、勝手にヴィヴァーチェになる。でもやっぱり、彼女の持ち物はみなどこかおかしくて狂っていた。

「……いや、全然、してませんでしたよ」

「うそぉ」

 ケラケラ笑うその顔も、徐々に変わっていくんだ、これから。なんにも約束なんかできないけど、大きな振り子時計を買って、そして。

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離れた分だけ近づいて、すれ違うのは一瞬のことだった 硝水 @yata3desu

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