閉じた宇宙を開くとき③

「じゃぁ、弱くねぇって証明したらいいじゃねぇっすか」


 ドラスは再びハルバードを振りかぶる。

 ルイテンは飛びずさって距離を離す。直後、ハルバードが振り下ろされる。

 十分距離は離したつもりであったが、ハルバードの刃はルイテンの前髪をかすめていった。ルイテンは冷や汗をかく。

 ドラスが一歩踏み込む。それだけで距離が詰められる。


 ドラスの手が迫る。

 肩に触れようとしたその手を、ルイテンはかわす。勢い余ってつんのめったドラスの脇腹に、ルイテンは肘を打ち付けた。

 これが決定打になりはしないことを、ルイテンは知っている。


「くっ……」


 ドラスの厚い腹筋に、ルイテンは顔を顰めた。

 攻撃を仕掛けたルイテンの方が負けてしまっている。攻撃が通った実感がまるでない。


「流石にそれはいてぇっすわ」


 ドラスは苦笑し呟いた。

 ルイテンは前転して再び距離を取る。直後、ドラスの腕が空を掴んだ。

 ルイテンは素手、ドラスはハルバード。あまりに分が悪い。ルイテンは武器になりそうなものがないか、部屋を見回す。目が慣れてきたとはいえ、部屋は暗く、よく見渡せない。


「よそ見すんな」


 ドラスが唸った。

 ルイテンはハッとしてドラスを見る。彼はルイテンにハルバードを振り下ろさんとしていた。

 

 一か八か、ルイテンは床を蹴り、ドラスの懐に潜り込む。

 ドラスはハルバードを振り下ろす。その重量が破壊力となり、床に大きな穴を穿つ。

 それ故に、ドラスの体は前屈みとなった。


 ルイテンは、ドラスの膝に足をかけ、拳を突き上げた。

 それがドラスの顎を捉える。その衝撃で、彼の頭が大きく揺れる。

 

 ルイテンは手応えを感じた。

 一瞬、気が緩んだ。

 

 ドラスはそれを見逃さなかった。ルイテンの胸倉を掴み、細い体を床に叩きつけた。


 頭も背中も打ち付けた。痛みが思考を塗りつぶす。チカチカと火花が飛び散る中、ルイテンはドラスの顔を見た。


「やっぱあんたよえぇっすわ」

 

 僅かに見える黒茶の瞳は、くらくらと左右に揺れている。軽い目眩を起こしているのか。切った唇からは血を流し、ルイテンの頬に滴り落ちる。

 それでもドラスは、薄く笑っていた。


「拳も軽い。動きも遅い。まぁ、さっきのは流石に効いてっけど。でも、それで慢心しちゃいけねぇ」


 ルイテンはドラスを睨む。抗おうと拳を振るう。だか、それは簡単に弾かれた。悔しさのために、床に拳を打ち付けた。


「教団に戻れ」


 ドラスが凄む。


 ルイテンは手足をばたつかせた。拳はやはりドラスには届かないし、蹴り付けてみてもびくともしない。圧倒的な力の差に、思わず瞳が潤んだ。


「俺がお守りしきれねぇんすよ。

 シェダルはあんたを殺したがってる。守ってもらうには、歓楽の乙女様に任せるしかねぇっす」


 ルイテンは首を振る。

 訳の分からないまま殺されるだの守られるだの、真っ平だ。

 

此方こなたには、シェダルさんから疎まれる理由がわからないよ。何でそんな話になるの」


 ドラスは目を閉じる。


「あいつは……」


 そこへ、光が差し込んできた。

 暗がりに慣れた二人の目に、刺すような眩しさが襲いかかる。たまらず二人は、目をきつく閉じた。


「ドラス、順調かい?」

 

 何度も耳にした男の声に、ルイテンは薄らと目を開く。仰向けの姿勢から首を反らして、出口の方向を見た。そこにいたのは、シェダル・アルマク。おあつらえ向きな男の登場に、ルイテンは乾いた笑いを浮かべた。


 シェダルの、竜胆色の瞳が恐ろしくて、ルイテンは暫く何も言えなかった。ルイテンを見下ろす瞳は、憎しみを帯びている。


 ……ややあって一言問いかけた。


「クロエは、何処ですか?」


 シェダルはルイテンに近付き、ルイテンの額を踏み付けながら、にやにやと笑った。


「聞いてどうするんだい。今ここで、僕に殺されるかもしれないのに」


 シェダルは言う。実に、嬉しそうに。実に、楽しそうに。

 ルイテンは、へらりと笑った。


「じゃあ、いっそ……死ぬ前に教えてくださいよ」


 ルイテンは小さく呟く。

 

 運が味方するかどうか、わからない。これは賭けだ。そのために、時間を引き伸ばさなくては。


「シェダルさんは、此方こなたと血の繋がりがあるんですか?」


 ルイテンは、シェダルを――シェダル・アルマク――を、見つめた。

 母、ミラ・アルマクと同じ姓を持つ彼は、ルイテンの親族にあたるのだろう。そうルイテンは考えていたが、答え合わせがしたかった。

 果たして、その疑問は肯定される。


「そうだよ。君のお母さん、ミラ・アルマクは、僕の姉だ」


 やはり、と。ルイテンは小さくため息をついた。

 シェダルは一息に捲し立てる。


「呪われし鯨の一族。あの末裔のナレド・オルバース。あいつが姉さんを拐かしたんだ。そして、お前が生まれた」

 

 シェダルは大きく息を吸い込む。そして、言葉を吐いた。溜め込んでいた泥を吐き出すかのように。

 

「忌々しい鯨が死んで、愛しい姉さんがお前を連れてアルマク家に戻ってきた時、僕は女の子ならば可愛がってやろうと思ったんだ。幸いにも声は姉さん譲りだし、初めての姪っ子はそれなりに可愛かった。可愛いと思えた。

 けど、どうだ。実際は、女でも男でもない紛い物。気持ち悪い化け物じゃないか。こんなのを姉さんは孕まされていたなんて、反吐が出た。だから処分してやろうと思ったのに。

 姉さんは、突然僕の前からいなくなった」


 シェダルはずいとルイテンに顔を近付ける。


「姉さんが亡くなったと知った時は、気が狂いそうだった。

 だから、原因である化け物のお前が、僕は大嫌いなんだよ」


 ルイテンは、暫く理解ができなかった。

 やがて顔を赤くして、唇をわなわなと震わせた。

 紛い物だと、化け物だと、自分の存在を気持ち悪いと、そう言われたのだ。怒りと悲しみが綯い交ぜになる。


「うぁあああ!」


 言葉にならない声を上げながら、ルイテンは拳を滅茶苦茶に振った。シェダルを殴りつけるつもりのそれは、ドラスに阻まれてシェダルに全く届かない。まるで子供の癇癪だ。

 シェダルは、汚物を見るかのような冷めた目で、ルイテンの癇癪を見下ろしていた。見下していた。


「ドラス・ラカーユ。南の魚だろう。

 忘我の賢者が命ずる。そいつの手足を折れ。逃げないように」


 ドラスはルイテンを見下ろす。

 

 ルイテンは泣き叫んでいた。存在が否定され、踏みにじられたことによる怒りから、止めどなく涙が溢れてこぼれた。

 男になれだの、女に見えるだの、そんな言葉ならまだ耐えられた。だが、化け物呼ばわりされるいわれなんて、どこにもない。自分が一体何をしたというのか。


 ドラスの両手が、ルイテンの腕に伸びる。ルイテンは途端に体を強ばらせた。

 ドラスの力なら、ルイテンの細い腕など一瞬で折ってしまえる。

 だが……親友を手にかけるのは憚られた。

 

「シェダルさん、すんません。俺にはやっばり……」


 ドラスがそう言いかけた時。


「あー! いけないんだー!」


 そこに呑気な少女の声が割り込んできた。シェダルは振り返る。


「私の指示なしに勝手なことしちゃだめだよー?」


 歓楽の魔女・ヴィオレ。彼女はシェダルを押し退けて、片手を振ってドラスを追い払う。二人はヴィオレに逆らうことができず、大人しく身を引いた。


 果たして、ルイテンは賭けに勝ち命を拾ったのだが、それを喜べる状況ではなかった。

 涙でくしゃくしゃになった顔を両手で覆い隠し、しゃくり上げる。


「好きでこんな体になったんじゃない……」


 両性の体なんて、欲しかったわけではない。むしろ疎ましくて仕方なかったのに。

 ヴィオレはそれを笑った。無邪気に、声を上げて。


「あはははっ。そんなの当たり前だよー。化け物が、好きで化け物やってるわけないじゃーん」


 ルイテンはヴィオレの顔を見る。

 ヴィオレは、実に楽しそうに、目を輝かせていた。


「間抜けで、滑稽で、ほんと笑っちゃう」


 ルイテンは勢いよく起き上がり、ヴィオレに手を伸ばす。彼女の黒い髪を鷲掴みにした。


「きゃ!」


「もう一度言ってみろ!」


 ヴィオレの、林檎のような丸い頬を殴りつけたい衝動に駆られた。それをしてしまわないように、歯を食いしばって、拳を握りしめて……


「もー。おしおきだよ」


 ルイテンの目の前で光が爆ぜた。


「っ!」


 ルイテンは叫ぶ間もなく吹き飛ばされる。

 頬が熱い。甘ったるい匂いが鼻を通り抜ける。

 ほんの一欠片の星屑が、目の前で爆発したのだ。


「あーあ、その顔じゃほんとに化け物みたいだねぇ?」


 再び仰向けに倒れたルイテンを、ヴィオレは見下ろした。くすくすと、嘲るように笑うヴィオレを、ルイテンはただ見上げることしかできない。

 焼け爛れた顔は熱く、酷く痛む。煙が喉に貼り付いて、激しく咳き込んだ。


「シェダル、勝手しちゃダメだからね?」


 ヴィオレは幼子に言い聞かせるように、シェダルに人差し指を突き付けて言った。

 シェダルはへらりと笑うと、「ごめんなさい」と幼子のように謝罪する。だが、シェダルの目は常にルイテンへと向けられていた。憎しみと怒りを湛えて。


「ルイ、大丈夫か?」


 ドラスは心配してくれるけれども、先の喧嘩を思い出すと、それを素直に受け取ることはできなかった。

 ルイテンは、掠れた声で「うるさい」と呟いた。

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