閉じた宇宙を開くとき②
時は夕刻。辺りは濃紺に染まりつつある。
ルイテンは、ファミラナと共に屋敷へやって来た。低木の茂みに身を隠し、玄関の扉をじっと見つめる。
住宅地の外れにある一軒の屋敷。『喜びの教え』のクラウディオス支部。これから屋敷の中に忍び込むのだと考えると、ルイテンは緊張のために体を強ばらせた。
忍び込むこと自体は難しいことではない。ルイテンには、存在を消す歌がある。屋敷の扉が開けられると同時に、歌いながら忍びこめばいい。
問題は、歓楽の魔女・ヴィオレの存在だ。彼女には、ルイテンの歌が一切効かない。それどころか、ほぼ全ての
ヴィオレに鉢合わせしてしまえば、計画は崩れてしまう。だが、こればかりは運に任せるしかなかった。
『歓楽の魔女に会ったら、一旦逃げる。いいね?』
隣にいるファミラナの声が、ルイテンの頭に直接響く。テレパシーだ。ルイテンはファミラナの顔を横目で見て、小さく頷いた。
『誰か出てきた』
ファミラナが言う。
その言葉通り、屋敷の扉が開かれた。出てきたのは、子供を連れた中年女性。猫耳をピンと立たせ、子供達へ視線を向けている。
「気を付けて。転んじゃうわよ」
母子のじゃれ合いは微笑ましい。何も知らなければ、ごく普通の家族に見えたのだろう。しかし、彼らはカルト教団に属している。
ルイテンは顔を顰めて、母子から目を逸らした。
ファミラナがルイテンに視線を向ける。
ルイテンは高らかに歌い始めた。
「あかいめだまのさそり
ひろげた鷲のつばさ」
ルイテンに光の粒子がまとわりつく。ルイテンは早足で屋敷の玄関へと向かう。
母子が立ち去った後、ルイテンは閉まりつつある扉の隙間に滑り込んだ。
そこには、一人の男性がいた。
スコーピウス・アンタレス。前回忍び込んだ際、ルイテンを教壇の部屋に押し込んだ男。前法王と言われた男。
彼は猫獣人の母子を見送り、小さく片手を振っていた。
ルイテンは少しばかり怯んだが、歌を止めることは無い。歌を止めなければ、彼に見つかることもないのだ。
ルイテンは、スコーピウスの脇を通り抜ける。肩と肩が触れ合ったが、スコーピウスは気付くことさえなかった。
屋敷の中を進んでいく。
気持ちは逸るが、足は早めない。息が上がって歌が途切れてしまってはいけない。
一歩一歩、着実に進む。
『私は屋敷の裏手で待機してる。クロエちゃんが見つかったら、すぐに来て』
ファミラナの声が頭に響く。次の瞬間。
『っ――――!』
ファミラナが声を詰まらせ、続いてノイズ。やがて、唐突にテレパシーは途切れた。
何かあったのだ。ルイテンは慌てて窓の外を見る。だが、ルイテンの位置からは、ファミラナの姿は確認できない。
不安が募る。一旦戻るか、それとも進むか。
迷いに迷って、ルイテンは進むことを選んだ。
ファミラナは、護身においてはルイテンよりも実力がある。何かあったとしても、切り抜けるだけの実力を持っているはずだ。
何より、ルイテン自身が教団員に見つかることを恐れた。撤退によりクロエの救出が遠のくよりは、このまま内部を探ってしまおうと、そう考えた。
ルイテンは、教壇と呼ばれる真っ暗な部屋にやってきた。そこは、ルイテンと歓楽の魔女が遭遇した場所。日が入らない、闇に包まれた部屋。
ルイテンは、緊張のために息が上がっていた。歌声は震え、今にも途切れそうであった。
部屋の中へ、足を踏み入れる。目を凝らしてみる。そこにヒトの気配はなかった。
両手を前方に伸ばし、壁伝いに歩く。部屋はさほど広くない。そして、誰もいない。
ルイテンは歌を止めた。身にまとっていた光は、ひらりひらりと落ちていく。部屋の隅に腰を下ろし、壁にもたれかかる。
あまりの緊張感に、心臓は爆発寸前だった。痛いくらいに鼓動するそれを押さえつけるべく、ルイテンは片手を心臓の上に乗せる。
息を整えるために、ルイテンは深呼吸した。そして、再び歌い出そうとしたその瞬間。
教壇の扉が開かれた。
ルイテンは身を固くした。歌うことを忘れ、部屋の隅に縮こまって息を潜める。
部屋に入ってきたのは、ドラスであった。
身を屈めて部屋に入り、ぐるりと部屋中を見回す。真っ暗な部屋の中だ。ヒトの気配に気付いても、それがルイテンだとはわからない。
「誰かいるんすか?」
ルイテンは口をきゅっと結んだまま、何も応えない。
ドラスは再び問いかける。
「屋敷のすぐ外で、烏の賢者を見かけたって報告が入ってるんすよ。もしかしたら、屋敷の中にも誰かいるかもしれねぇっす。
あんたは誰なんすか? うちのモンっすか?」
ルイテンは再び歌い始める。
自分の存在を消してしまえば、やり過ごせるはず。気配を消してしまえば、ドラスが立ち去るのと同時に部屋を出ることができるはず。
あったはずの気配が突如消える。ドラスはそれを、気のせいだとは思わなかった。
「ルイか?」
ルイテンは肩を跳ねさせた。正体を言い当てられたことに驚いたのだ。
ドラスは出口を塞ぐようにして立つ。そうされてしまっては、細身のルイテンであっても部屋を抜け出すことはできない。
ドラスは、ヒトの気配がない部屋に向けて語る。
「あるはずの気配がいきなり消えるなんか有り得ねぇ。不可視の
全てお見通しということだ。
ルイテンは歌を止めた。瞬間、ドラスの視線がルイテンに向かう。
姿なんて見えないだろうに、ドラスの視線はルイテンにしっかりと向けられていた。
「クロエを連れ帰りに来たんすか」
ドラスの問に、ルイテンは頷く。頷くだけでは伝わらないだろうから、声に出して返答する。
「そうだよ。クロエを迎えに来た」
闇に塗り潰されて、ドラスの顔がよく見えない。ルイテンの言葉に対して、ドラスがどう思っているのか、感情が読めない。
「何でそんなに必死なんすか。この前まで、顔すら知らねぇ他人だったろ」
淡々としたドラスの口調は、徹底して感情を隠しているようだった。ルイテンは頭を振る。
「今は違う。クロエは、
ドラスは黙る。
ルイテンは、ドラスに近寄り問いかけた。
「ドラスこそ、何でクロエを攫ったの。歓楽の乙女様の言いなりなの?」
ドラスの顔を見上げる。
糸のように細い目は僅かに見開かれ、黒茶の瞳がルイテンを見下ろしていた。
ルイテンは困惑する。彼の胸中が読めない。こんなこと、今までなかった。
否、昔から、彼は胸中をさらけ出すことなどしてなかったのかもしれない。
そう、ルイテンは感じ取った。
「俺は、俺の周りが変わらなけりゃそれでいいんすよ」
ルイテンは眉を顰めた。
「そもそも南の魚の一族は、呪われし鯨の観測者であり、
だから、クロエを乙女様に献上して、見返りとしてあんたを守ってもらおうと思った。けど、肝心のあんたが敵に回ったんじゃ、俺の計画はがた崩れじゃねぇっすか」
ドラスは、背中に隠していたそれを握る。
ハルバードだ。
「ミラさんに言われてたんだ。シェダルからあんたを、ルイを守ってくれって」
ゆっくりと振り下ろす。回避が余裕でできてしまうくらいに、緩慢な振り下ろしだ。さほど力を込めていなかったのだろう。刃が床にぶつかるものの、めり込むことはなかった。
「あんたが大人しくしてくれりゃ、ここまで大事になんかならなかったんすよ」
ルイテンはドラスをキッと睨み付けた。
「じゃあ、君達がクロエに付き纏わなければよかったじゃないか」
「それとこれとは話が別っす」
「別じゃない」
ルイテンは言い返す。
ドラスの言い分を理解することができなかった。理解したくなかったのかもしれない。
ドラスの言葉には、裏切りが含まれている。
ルイテンの母は、ドラスに護衛を頼んでいた。
それにも関わらず、裏切れないからとシェダルの配下に回った。
それを隠して友人のフリをしていたなんて。
否、二人は確かに友人であった。友人であったからこそ、隠し事をされたという事実が許せなかった。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます