閉じたる事象の地平面⑥
クロエはスピカの手を引いて、街中を駆けていた。
追われているという緊張の中を走り続け、果たしてどの道を進んだのか覚えていない。
入り込んだのはビル街の小道。午後九時ともなると、街は仕事を終えてひっそりと静まり返っていた。
「スピカさん、大丈夫ですか?」
クロエは足を止めることなく、ちらりとスピカを振り返って尋ねた。
スピカの足取りは覚束ず、視界も悪いのか焦点が定まっていない。
「クロエ、私のことは放っておいて、逃げて頂戴」
スピカは言う。
クロエはそれに対して首を振る。
「確かに狙われてるのは私ですけど、あの女の子はスピカさんの名前も呼んでました」
だから、スピカもまた狙われているのではないか。クロエはそう思っていた。
「違うの。彼女が私の名前を呼んだのは……」
スピカはクロエの考えを否定する。
その時、遠くから笛の音が聞こえてきた。
胸の内を、恐怖が駆け巡る。クロエは怯えのために、足を止めてしまった。
笛の音は一瞬で消え去った。ほんの一秒聞こえた笛の音は、恐怖だけを残して消える。
途端にスピカがその場に倒れた。
「スピカさん!」
クロエは驚いてスピカに駆け寄る。
スピカは目眩を感じているらしく、瞳が左右に揺れている。強い嘔吐感のせいで口が半開きになっており、浅い呼吸を繰り返していた。
「大丈夫……慣れてるから……」
スピカは言うが、クロエは言葉通りに受け取ることができず、スピカを心配して背中をさすってやった。
スピカは片手でクロエの手を弾く。クロエの顔を見上げて、首を左右に振ってみせた。
「早く、逃げるの。あなたが捕まったら、きっとあの魔女は……」
スピカの言葉は続かない。口を開いたまま、クロエの顔を見て驚いた。
否、正確には、クロエの髪を見ていた。
クロエも自覚した。午後九時となれば、星が瞬く夜の時間。
すなわち、自身の髪が煌めく時間だ。
「あ、こ、これは……」
クロエは髪を隠そうと、両手で頭を覆う。どう言い訳をしようかと考えたその時。
「げほっ……けほっ……」
スピカが咳き込んだ。同時に、ぱたりと零れる赤い雫。吐血したのだ。
「え?」
クロエは、あまりの出来事に困惑する。スピカもまた困惑し、クロエから目を離せずにいる。
両者見つめ合い、動けない。
先に口を開いたのはスピカの方だった。
「早く、ここから離れて」
「で、でも……」
クロエは渋る。体調を崩したスピカを置いてはいけないと。
だが。
「私は体質上、
スピカの声は強い。
その間にも、スピカの意識は薄れていく。瞼が落ちていき、呼吸が荒くなる。
「私を心配するなら……お願い、捨て置いて……」
「でも……!」
スピカは目を閉じた。ふらりと倒れ、クロエにのしかかる。
クロエはスピカの体を両手で受け止めるが、どうしたらいいものかわからず、おろおろとするばかり。スピカを置いて立ち去ることなど、できなかった。
「お荷物な乙女の大賢人なんて、捨て置けばいいのに」
声が響く。クロエは恐る恐る顔を上げる。
そこに、二人の男が立っていた。クロエはぶるりと身を震わせる。
シェダルがドラスを連れて、クロエの前に現れたのだ。
シェダルは、クロエの目の前に屈みこむ。クロエの煌めく髪に手を伸ばし、もてあそびながら、嘲笑を浮かべた。
「乙女の大賢人はね、
クロエは、言葉の意味が理解できなかった。
この髪は、クロエがそうしようと思って光らせているわけではない。だが、スピカが言うには、
ずっとそういう体質なのだと思っていた。だが、これが
シェダルの言う通りに。
「一緒に来るっすよ」
ドラスがクロエに声をかける。
クロエは嫌々と首を振る。
「仕方ねぇっすね」
ドラスはクロエに近付いた。
「やだ! やめてよ!」
「暴れねぇでください」
クロエの抵抗も虚しく、ドラスの肩に担がれてしまった。あまりに屈辱的な扱われ様に怒りが湧くが、それを表すことができない程に怯えて固まってしまう。
「で、どうするんすか、この人」
ドラスは、足元で倒れているスピカに目を向ける。
ドラスにとっては、スピカなどどうでもいい人物である。シェダルも同意見であった。
「ほっといていいよ。その内、獅子の大賢人様が拾いに来るんじゃない?」
「それもそうっすね」
ドラスはスピカに哀れみの目を向ける。可哀想だとは思ったが、だからといって拾っていくわけにもいかないし、ここに放っておくしかないと判断した。
「待ち、なさい……」
ドラスの足を、スピカが握る。
完全に意識消失しているわけではなかったようだ。朦朧としながらも、ドラスを引き留めようと爪を立てる。
「連れていくなんて、許さないわ……
あなた達、自分が何に手を貸そうとしてるのか……わからないの……」
喘鳴を繰り返しながら、切れ切れに言葉を発するスピカ。
ドラスはその意味を理解できなかったが、シェダルは違った。スピカの足を蹴り飛ばし、せせら笑う。
「シェダルさん……」
ドラスはその行動を諌めるが、シェダルに睨まれ何も言えなくなってしまった。
シェダルはスピカを見下ろす。
「知ってるよ。でも、それで歓楽の乙女様が僕の願いを叶えてくれるなら、別に知ったことじゃない。
一人の他人の魂と、姉さんの魂。天秤にかけるまでもないね」
スピカはそれを全て聞き終わらないうちに意識を手放した。
シェダルは呆れて笑いをこぼす。スピカの肩を爪先で小突き、仰向けに転がした。
「行こうか」
「……はい」
シェダルはドラスとともに街を行く。
クロエは、遠くなっていくスピカの姿を見つめていた。
。.:*・゜
『閉じたる事象の地平面』
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