揺れるクロノメーター⑥

 ルイテンはジャコビニ出版を後にする。

 自分が聞いた話は一体何だったのか理解できないまま。否、理解はできるが、ジャコビニ社長の考えは理解できないでいた。

 恋は盲目とは言うが、社長のそれは、いささか盲目過ぎやしないだろうか。

 ルイテンは頭を振る。収穫はあったが、社長の言葉を飲み下せないままだ。


 街の大通りをトボトボ歩いていると、後ろからリュカが早足で追いかけてきた。さり気なくルイテンの隣に立つと、海色の髪を見下ろした。


「どうだったの?」


 問われるが、ルイテンは答えられない。ただ曖昧な生返事をして、あてどなく歩いて行く。

 リュカは、ルイテンの態度が気に入らない。腕組みしながらルイテンの顔を横から覗き込んだ。棘を含ませ、再度声をかける。


「話しかけられてるんだから返事しなさい。社長とは話せたの?」


「話せた、けど……」


 ルイテンは呟く。

 ジャコビニ社長の考えは、常人にはきっと理解できない、気味の悪いもの。彼の、クロエに対する感情は、崇拝に近い。実在する人物に向けるにはあまりに妄信的な感情で、気持ちが悪い。

 恋慕に疎いルイテンでも、それを感じた。


「ねぇ、朝からバタバタで何も食べてないでしょ」


 リュカはルイテンの手を掴み、乱暴に引っ張る。

 そこにあるのは一軒のパン屋。ぼんやりと物思いに耽っているルイテンを店先に放置して、リュカはパン屋の中へと入る。暫く物色していたが、やがてパン屋から出てくると、小さな紙包みをルイテンに差し出した。

 ルイテンはそれを受け取る。まだ暖かいそれを開けてみると、中に入っていたのはホウレンソウとチーズが入ったパイだった。

 リュカを見れば、彼女も同じ紙包みを持っている。


「カフェオレも買ってるから。公園で食べましょ」


 リュカに誘われるままに、ルイテンは大通りを離れて公園へと向かう。

 

 街中にある公園は小さく、滑り台が一つだけ真ん中に置かれた簡素なものだった。

 ルイテンはリュカと並んでベンチに座る。リュカから紙パックのカフェオレを受け取って、膝の上に置いた。


 パイを齧る。サクッとした生地の中に、野菜の苦味とチーズのコクが凝縮されていた。ありふれたパイだ。

 頭が混乱している今、食べ慣れた味が安心感を与えてくれて、それは非常に有難いものだった。

 二人並んで黙々と食べる。やがてリュカが口を開いた。


「イーズっていう男、いたじゃない」


 ルイテンはパイを飲み込んで首を傾げる。二、三分考えて、ようやく思い出した。昨日遭遇した画家の賢者が、そんな名前であったはずだ。

 リュカは話を続ける。


「あんたらと別れて、そいつに訊いてみたのよ。あんたらは一体何者で、何のために人攫いなんてするのかって」


 ルイテンは頷く。言葉を発することすら億劫で、その程度の返事しかできない。リュカはそれを咎めなかった。


「そしたらさ。指導者である『歓楽の乙女様』っていうの? そいつの命令だとか何とかで」


 それはルイテンも知っていたし、大賢人達とも共有している情報だ。先程もジャコビニ社長からそれを聞いた。リュカも、目新しい情報ではないと知っているはず。

 リュカは言葉を続ける。


「五年前、覚えてる? 『帰還の祈祷』……今の『春待ちの祈祷』の元になったお祭りのこと」


 かつて、冬が存在しなかった五年前。乙女の賢者を祀るために行われていた、『帰還の祈祷』という祭り。乙女の賢者が途絶え、冬が訪れるようになってからは、『春待ちの祈祷』と名前を変え、春の訪れを祈る祭りとなっている。

 五年前、その祭りの最中、事件が起こった。


「一人の賢者が暴れ出して、祭りをぶち壊したあの事件。世間に対しては名前を伏せられていたけど、あの時事件を起こしたのは、彫刻具の賢者であるニコラ・ニコル。

 名前、聞き覚えあるでしょう?」


 ルイテンは目を見開く。

 ニコラ・ニコルという名前は、以前聞いたことがある。銀河鉄道の中で戦った賢者が、そんな名前ではなかったか。


「私達は、五年前から『喜びの教え』を追っているんだけど、もしかしたら、それよりずっと前から、このカルト集団はあったのかもしれない。

 何故今、活発に活動するようになったのかしらね」


 リュカは語る。

 ルイテンはパイを握る手に力を込めた。パラパラとパイ生地が崩れて落ちる。それをじっと見つめていたが、やがてリュカを見上げると、こう言った。


「ジャコビニ社長は……乙女様が千年前に降臨したって言ってました」


 突拍子もない話だ。長命種であるニンフやネーレイスだって、二百歳を超えて生きた者はいない。千年だなんていう時間は、途方もなく長い。歓楽の乙女が何者であろうと、千年生きるだなんて馬鹿げている。

 リュカもそう思ったのだろう。口の端を吊り上げて、苦笑いしていた。


「はは、まさか」


此方こなただって、まさかと思いますけど……」


 ルイテンはパイに齧り付く。残りの一口を全て口の中におさめてしまうと、それをカフェオレで飲み下した。


「一旦宮殿に戻ろうか。ルイテンの話も聞きたいし」


 リュカは両手についたパイ生地の欠片を払い、カフェオレを一気に飲み干す。そうして立ち上がると、ルイテンを見下ろした。

 ルイテンも頷き立ち上がった。

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