揺れるクロノメーター⑤
「社長、お疲れ様です」
蜘蛛腕の女性は、ふくよかな男性に向かって頭を下げる。
ルイテンはその言葉で、目の前の男性がジャコビニ出版の社長、ゼノン・ジャコビニであることを知った。彼は、クロエを採用した面接官の一人でもある。
「明日から出社予定のクロエ・ヴィラコスさん、その弟さんとのことです」
女性からそのように紹介され、ルイテンは社長に向かって会釈した。
社長は、ルイテンの顔を見下ろすと眉を寄せる。
「ヴィラコスさんは、確か孤児院出身と……」
ルイテンは頷く。社長の言う通りだ。だが、それを言い当てられたとはいえ、焦る必要はない。
「はい、
社長は眉を動かす。その仕草を見て、ルイテンは手応えを感じた。釣れたに違いない。
「ヴィラコスさんの、えっと、義弟君? ちょっと来てくれるかい?」
「は、はい」
社長は、彼の後ろに控えていた秘書に鞄を預けた。秘書はそれを受け取り、恭しくお辞儀する。
社長はルイテンを誘い、エレベーターへと入る。暫く閉鎖空間に揺られた後、三階にある社長室へと入った。
散らかっている部屋、というのが第一印象であった。ルイテンは、誘われるままに社長室に入ったものの、書類の多さに驚いていた。
扉付きの本棚は開けっ放し、そこに保管されている書類は平積みされている。高級そうな光沢を放つ木材の机は、引き出しが一つ開けっ放しになっていた。
忙しいヒトなのだろう。にも関わらず、ルイテンの話を聞いてくれるのだと言う。ルイテンはそれを申し訳なく思った。
ルイテンは社長に促され、部屋の中央にある二人掛けのソファに座る。然程待たないうちに、秘書が暖かいコーヒーを淹れて、机に並べた。
社長はすぐに秘書を下がらせる。そうして、ルイテンの向かい側に座ると、話を切り出した。
「まずは、すまない。カッシーニまで迎えを行かせればよかった。
君がクロエさんと行動を共にしていたなら、きっと道中襲われただろうね」
社長の言葉に、ルイテンは目を丸めた。
「どうしてそのことを……」
自分達が襲われたことを何故知っているのか。否、教団の者であるなら、知っていて当たり前だろうが、ならばクロエの身を案じる言葉が出てくるなんて、思いもよらなかった。
これは演技なのだろうか。ルイテンが怪しんでいると、ジャコビニ社長は自嘲した。
「いや、なに……話せば長いのだがね……」
社長は語りながら、ルイテンにコーヒーを勧める。
ルイテンはコーヒーに手を伸ばすことができない。緊張して強ばった手を、ぎゅっと握る。
「だが、襲われてもここに辿り着いたということは、君がクロエさんを守ってくれていたのだろう」
ルイテンは、何も言えずに頷く。
想定していたのは、ジャコビニ社長が教団員をけしかけて、クロエを攫おうとしていたという話だ。だが、先程の社長の口振りは、それを否定するようなものではないか。
ルイテンは、自身を叱咤するように膝を叩く。分が悪くなると黙りこくってしまうのは、自分の悪癖だ。昨日それをクロエに指摘されたばかりではないかと。
「あの、社長は、姉さんを追ってた奴らの仲間なんですか?」
思い切ってそう尋ねた。
返ってきた言葉は、以外なものであった。
「『喜びの教え』の教団員ではあるけど、今はクロエさんを守りたいと思っているよ」
ルイテンは驚く。が、その感情を顔に出さないよう努めた。
「あの、『喜びの教え』って……?」
あくまで部外者を装う。クロエと自分は義理の姉弟で、追われている理由など知らない、という芝居を打つことにした。
社長はそれを疑うことなく、ルイテンに語る。
「『喜びの教え』というのは、『ユピテル教』とは違う歴史を教える宗教でね。指導者は『歓楽の乙女様』と呼ばれる少女だ。
膨大な知識を授けてくれる乙女様は、降臨された千年前から決して老いることなく、若い姿を保ったまま」
「せ、千年……?」
思わずルイテンは洩らす。社長は、それに対して不快感を抱く様子は見せず、肩を竦めてみせた。
「そう、伝えられているだけ。
いつまでも若い指導者に魅せられたヒトビトが、数年前から始めた宗教と言われているんだが、真相はどうだろうね?」
社長はコーヒーを一口啜る。
毒らしいものは入ってないらしい。ルイテンはそう判断した。コーヒーカップに手を伸ばし、揺らめく黒い水面を見つめる。
一口ふくむ。苦い。
「ある日、乙女様が言ったんだ。虹色の瞳の女性を捕らえろとね。
クロエさんが面接に来たのはただの偶然だったんだが、私は気付いた。彼女こそ、乙女様が探している女性だとね。
最初は私も、クロエさんを乙女様の元へ連れて行くつもりだったんだが、面接をしているうちに、気が変わってしまってね」
ルイテンは首を傾げる。社長の態度に、違和を感じたからだ。
「まるで何か、別の意思が働いているかのように、私の感情は上塗りされてしまってね。クロエさんを乙女様に渡してはいけないと、だから、彼女は庇護してあげなければと、そう思ってしまってね」
社長の言葉は、恋をしているかのようにロマンチックで。目は、この場にいないクロエを想うかのようにうっとりと細められていた。
ルイテンの胸の内がざわめいた。彼は、職権を利用して、クロエを我が物としていないだろうか。
「採用を伝えて一旦帰ってもらったものの、クロエさんはカッシーニに住んでいると言うじゃないか。どうにか護衛をつけてあげればと思ったんだが、教団から隠れて護衛を探すのは難しく、クロエさんのために会社の経費を使うのも、会長にバレたらまずいことになる。
そうこうしているうちに、クロエさんから首都に到着したという連絡を受けて、安堵していたところだったんだ。
だが、昨夜からクロエさんが行方不明となると……」
社長は顎をなでつける。きっと彼は、クロエが教団に攫われた可能性を考えているのだろう。
ルイテンは、自分が次どう発言するべきか考えていた。ここまで話が聞ければ十分であったが、自然に話を切り上げることは難しい。
社長はすっかり、クロエが攫われたと決めつけている。誰が攫ったのだろうか、昨夜クロエは何処に連れて行かれたのかなど、ありもしない不安を口にしている。
「そうだ、クラウディオス支部に連れて行かれたのかも……」
社長は呟く。
ルイテンは肩を震わせた。
「ここにも教団の支部があるんですか?」
ルイテンは思わずそう口にして、すぐに口をきゅっと結んだ。迂闊にも、質問の仕方を間違えてしまった。この言い方では、教団の支部が他にもあることを知っているようではないか。
だが、考え事をしている社長は、その違和感に気づくことはない。あっさりと、ルイテンの言葉にうなずいてみせた。
「あるさ。カッシーニ、ダクティロス、クラウディオス、ミノスの四箇所にね。もしかしたら、他にもあるかもしれないが、私が知っているのは四箇所だけだ。
クロエさんを助けるためなら、私は動こう。義弟君は、クロエさんの社員寮で待っていて欲しい」
「あ、いや、あの……」
ルイテンは両手をわたわたと動かす。それを「遠慮している」と捉えたらしいジャコビニ社長は、ルイテンの手を握るとこう言った。
「大丈夫。お姉さんはきっと連れ戻してあげるよ」
「いや、その……」
ルイテンは、その時ようやくジャコビニ社長の目をじっと見た。
焦点が合わない目は、まるで夢を覗いているかのようだ。酒に酔っているようにも見える。甘い夢に浸った、正に夢心地のような瞳。
操られているように、見えるのだ。
「あ、あの……」
「どうしたんだい?」
ルイテンは唇を舐める。思い切って、こう尋ねる。
「あなたは、クロエのこと、どう思ってるんですか?」
ジャコビニ社長は呟く。
「愛しく思っているよ」
ルイテンは眉を寄せる。
社長は確か……
「社長。ご結婚、されてますよね?」
社長はにっこりと微笑んだ。
「浮気ではないよ。クロエさんと付き合うつもりは全くないんだ。ただ、彼女を愛しているだけだよ」
理解が及ばない感情に、ルイテンはぞっとした。
「あの、それはどういう……」
ルイテンは言いかけて、しかし口を閉ざす。
社長は、クロエと深い関わりを持つつもりは無いのだ。付き合うつもりがないとは、そういうことだ。
だが、彼の言葉も表情も、さながらクロエを盲信しているように見えて、気味が悪かった。
「義弟君、後は任せてくれたまえ」
社長はそう言って話を終わらせる。
ルイテンは、社長が抱く感情を理解できないまま、ただ黙って頷いた。
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