クルスカル図を描いて⑨
辺りには古びた機械が捨て置かれている。ここは廃工場なのだろうと、クロエは冷静に考える。
頭上には、トタンが剝がれきった骨組みだけの屋根。何かを混ぜるために使われたのだと思しき樽状の機械が、辺りに並んでいる。
街からは外れているに違いない。街中で聞いたような雑踏も活気も、ここにはない。微かな風の音が聞こえるが、それ以上の音はなかった。
クロエは体を縮こませて、目の前の男らを見上げていた。
片方は、ルイテンの友人らしい大男。もう片方は、クロエとルイテンを引き離した細身の男。おそらく、細身の男が自分を攫ったのだろうと判断した。
「いやいや、何言ってんすか、イーズ。こいつはクラウディオスの支部に連れてくって話だったじゃないっすか」
大男が呆れ顔で言う。彼は確か、ドラスという名前だったかと、クロエは考えた。
クロエは、後ろ手に組まされた両腕に力を込める。縄でがっちりと縛られた腕は少しも動かない。もがけば縄がより食い込んで、肌が痛むだけだ。
「いや、さ。独り占めしたくなっちゃってさ」
「はぁ……?」
細身の男、イーズが口にした言葉に、ドラスは間の抜けた声を洩らす。
クロエは察した。
攫われる際、クロエは薬か何かで眠らされてしまった。ならば、押さえ込んでいたはずのあれが、イーズに対して放たれてしまったのだろうと。
イーズがクロエを見る。その目は気味が悪いくらいに甘い感情を抱いており、クロエは苦笑した。
自分の体質のせいとはいえ、他人からそんな目で見られるのは苦手だ。
「いや、あなたとは初対面だし、印象最悪なんですけど」
そう、冷たく突き放してみるが、効果がないことなどわかりきっている。
イーズの手が、クロエの頬に触れる。ぞわりと鳥肌が立った。
「やめて、触らないで」
クロエは身じろぎする。だがイーズは引かない。その目はクロエの瞳に釘付け。まるで囚われているかのように。
「乙女様が求めたって、俺は嫌だね。君のこと、誰にも渡したくない」
などと、甘い言葉を囁いている。
クロエは不快感を隠すことなく、イーズを睨めつける。いくら自分に興味があろうと、自分に心囚われていようと、拘束を解かない限りは信用などできるはずもないのだ。
イーズの手がクロエの肩を撫で、鎖骨を滑る。豊かな膨らみに、彼の目が吸い寄せられる。
そろそろ限界だ。イーズの腹を蹴りつけてやろうと、クロエは片方の膝を曲げる。
「それは、裏切ったってことでいいんすか」
ドラスがぽつりと尋ねた。イーズはドラスを振り返る。
ドラスは無表情であった。
「あぁ、そうだね。裏切ってしまうんだろうね」
どこか他人事で呟くイーズ。彼はドラスを振り返る。
ドラスは、何の躊躇いもなく、イーズの顔を殴りつけた。真正面からドラスの拳を受けたイーズは地面に倒れ込む。
「ひっ」
クロエは、突然仲互いした二人を目の前にして、小さく悲鳴を洩らした。
ドラスはクロエを見下ろす。イーズの体を押しのけてクロエの正面に屈みこむ。
「おい、何してくれるんだ」
イーズは、真っ赤に腫れた鼻を片手で押さえて、ドラスに向かって怒鳴る。しかしドラスはそれを無視してクロエに尋ねた。
「あんた、こいつに何かしたんすか?」
「何か……って……」
したとも言えるし、していないとも言える。クロエはどう返事をするか迷ってしまう。
「あんたをここに連れてきてから、こいつの様子が変なんすよ。敬虔な信者だったはずなのに、ほんの一瞬ですっかりおかしくなっちまった。
何したんすか?」
「私、は……」
クロエは口ごもる。
言いたくない。これは、自分にとって切り札だ。他人に開けっ広げに話すようなこと、したくない。
クロエは、はたと思いつく。
「私を解放してくれたら教えてあげる」
クロエはドラスの目を見つめる。黒茶色の瞳を、虹色の目で。虹色が鮮やかに煌めいた。
クロエの微笑みを見て、ドラスは目を見張る。
「私に魅了されて。お願い」
クロエは微笑みを浮かべながらも、内心は罪悪感が溢れていた。
十中八九、ドラスは魅了される。イーズと同じように、自分に夢中になって、何でも言うことを聞いてくれるようになる。
そのはずだ。
「あぁ、あんた……『歓楽の乙女様』と同じ力を持ってんすね」
ドラスは頭を振って、そう言った。一瞬、その目に甘い感情を浮かべたが、それは瞬時に消えてなくなる。まるで、自分の意志で振り払ったかのように。
クロエの顔から微笑みが消える。代わりに浮かんだのは、驚愕と焦り。クロエの思惑通りには事が運ばない。クロエは、無意識のうちに疑問を表情に出していた。
それに答えるかのように、ドラスは言う。
「『歓楽の乙女様』も、その魅惑の術を持ってるんすよ。
ああ、そうか。だから乙女様はあんたを欲してるんすね」
ドラスは、胸元からペンダントを取り出してみせた。ペンダントトップにあるのは、紫の泡をいくつか詰めこんだ小さな小瓶。
「わりぃっすね。俺、これのおかげで、魅惑は効かねぇんす」
「そんな……」
クロエは項垂れる。
「なぁ、何の話してんだよ。まるで俺が、俺の意思関係なく、その子に執着してるみたいじゃないか」
イーズは恐る恐る声をかける。ドラスの会話の半分さえ理解できなかったが、自分の感情が操られたものだということは理解できたのだろう。理解できたからといって、受け入れられるものではないのだが。
ドラスは、イーズの言葉を肯定する。
「そうっすよ。あんた、こいつに魅惑の術をかけられてたんす」
「……意味わかんねぇ」
「さっき言ったじゃねぇっすか。乙女様と同じ、あれっすよ」
その一言で、イーズは何かを理解したようである。顔がみるみるうちに青ざめて、その場に腰を落としてしまった。
ドラスはそれにかまわず、クロエに問いかける。その顔にあるのは静かな怒り。
クロエは息を呑んだ。クロエの小さな体を覆い隠せてしまうような大男が、怒りを孕んだ目で見つめてくるのだ。それだけでも恐ろしいのに、ドラスが口にした質問は、答えることが恐ろしいものだった。
「ルイにも、それ使ったんすか」
ドラスの声は冷たい。
あぁ、やはり親友なのだなと、クロエは理解した。ドラスはルイテンの身を案じているのだ。
この質問、間違えればどうなってしまうのか。クロエは恐ろしくてたまらず、声が震えた。
「使った……けど、ルイには効かなかった……」
クロエは口も目もぎゅっと閉じる。殴られるのではないかと危惧したからだ。だが、待っても拳が飛んでくることはなく、暫くしてから、ゆっくりと目を開けた。
ドラスはやはり怒っていた。だが、拳は震えているのみで、暴力に訴えることはない。女性を殴ることは、彼の意に反するのだ。
「使ったんすか」
「効かなかった」
二人は同じ会話を繰り返す。暫く沈黙していたが、ややあってドラスが深いため息を吐き出した。
食い込んでいた爪の痛みを誤魔化すように、ドラスは拳を広げてぷらぷらと振る。
「じゃあ、何でルイはあんたと行動してんすか。色恋は嫌いだって、いっつも言ってたんすよ」
クロエは首を振る。ルイテンの感情の揺れ動きなど、知り合ったばかりのクロエが知るはずもない。
「知らない。私は、ルイのことよく知らないもの」
その一言は、火に油を注ぐようなものだ。
「ルイのあんな顔、見たことねぇんすよ」
ドラスが声を荒げる。怯え切っていたクロエは、肩をびくりと跳ねさせた。
「あいつは弟分なんすよ。何年もあいつの顔見てきて、あんな、焦がれるような顔してんの見たことねぇ」
「ルイを弟分とか……」
そんなことをルイテンの前で言えば嫌われそうだと、クロエはそう言いかけて。
ドラスはクロエの肩を掴んで睨みつけた。
「あんたがルイを語るな」
クロエはそれ以上何も言えない。恐怖で喉が塞がって、言葉どころか声さえ出なくなってしまった。
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