クルスカル図を描いて⑤
馬車道を挟んだ対岸の歩道。そこに見知った姿があった。
学生らしからぬ長身、筋肉質な巨体。細い目は吊り上げられている。緊張しているのか、それとも苛立っているのか。
「ドラス……」
ルイテンは親友の名前を口にする。
普段なら声をかけていただろう。手を振って大声で呼び止めていたかもしれない。
だが、今このタイミングは非常にまずい。ドラスは『喜びの教え』の教徒であり、クロエは『喜びの教え』から追われているのだ。
ドラスもクロエを追っているとしたら、ドラスと敵対してしまうことになる。
ルイテンはクロエに視線を戻す。
何も知らないクロエは、パンケーキの最後の一切れを口に入れていた。唇についたホイップクリームをペロリと舐め取って、舌鼓を打っている。
支払いは料理が運ばれる前、既に終えている。
ならば、この場を離れてしまっても問題ないだろう。
「クロエ。移動しよう」
「えー、まだカフェラテ飲み終わってないよ」
クロエは、グラスに半分ほど残ったカフェラテを見て不満をこぼす。ルイテンは、クロエの呑気な様子に苛立ちながらも、平常を装って言葉を重ねた。
「行きたいお店思い出したんだ。だから」
再びちらりと対岸に視線を向ける。
ドラスがこちらを見ていた。
気付かれた。
「早く!」
ルイテンはクロエの腕を掴み立ち上がる。クロエは引っ張られるままに立ち上がった。
ルイテンが焦る理由を、流石にクロエも察したようである。顔を青くして鞄を掴んだ。
「あ、あの」
「走りながら歌うから、いいね」
ルイテンは息を吸い込む。いつもの通り、
だがクロエは首を振る。
「だめ」
「なんで」
「ファミラナさんが……」
ルイテンはドラスに目を向ける。
馬車が通る中、かまわず馬車道を横断してこちらに向かってくる。視線は真っ直ぐルイテンの顔を見ていた。
親しい友人を見つけた時のような、和やかな空気も、嬉し気な表情も、彼にはない。
ただ、無表情でルイテンに向かってくる。
「行くよ」
ルイテンはクロエの腕を引き駆けだした。
クロエも引っ張られるままルイテンについて行くものの、ルイテンの足の速さに追いつけず、なかば引きずられてしまう。
ルイテンもそれに気づいている。だが、彼女の歩幅に合わせていたのでは、いつか追いつかれてしまうのではないかと恐ろしかった。
昼時の中央通りとなれば、人通りもかなり多い。ルイテンは躊躇わずヒト混みの中に突っ込んでいく。ヒトの波に紛れて、ドラスを撒いてしまおうという算段だ。
だが、ドラスは特別背が高い。すなわち視線も高いのだ。とても逃げられる気がしない。
「ルイ、待って」
クロエは息を切らせながらルイテンに声をかける。
ルイテンはそれに対してろくに返事ができず、ただ前を向いて走っていた。
「ルイ、待って、お願い」
「なら歌わせてよ。
「だって、ファミラナさんが、私達を見守っくれてるって、言ったから」
クロエの言葉に、ルイテンは辺りを見回す。
今はヒト混みの中だ。見回したところで、味方の姿が見つけられるはずもない。
だが、相変わらずドラスの頭はヒト混みの中からでもよく見えた。
一番頼りたい親友のドラスから逃げているという状況。ルイテンは情けなくて仕方なくて頭を振った。
「こっち」
ルイテンは建物の中へとクロエを引き込んだ。
クロエは引かれるまま建物へと入る。
回転扉を押し開けて入った先は、映画館であった。
館内は、雰囲気作りのために薄暗い内装となっている。それに目をつけたのだ。
ちらりと後ろを振り返る。ドラスは自分達に追い付けていない。
「こっち」
「え、何処に……」
映画館の中へ入る。館内にはクラシック音楽と、シアターから漏れ出る映画の音声が漂っている。チケット売り場のカウンターには、人間の女性が二人。ルイテンとクロエが入って来たことに気付くと、二人に向かって会釈した。
ルイテンは、チケット売り場には目もくれず、エントランスホールの隅へと向かう。向かったのはトイレの入口。迷わず女子トイレの方へと駆け込んだ。
「わぁ、頭いい」
クロエは手を引かれながらルイテンを褒めた。
女子トイレの中は綺麗に掃除されており、ジメジメとした空気は一切感じない。半開きになった窓から、常に換気がなされているからだろう。
「クロエ、大丈夫?」
ルイテンはクロエに問いかける。彼女のペースを考えず、引っ張り回してしまったことを後悔する。だがクロエは、乱れた息を整えながら「大丈夫」と応えた。
少し休憩したら、再び外に出るつもりでいた。ルイテンも息を整える。
「訊いていい?」
ふと、クロエが声をかける。ルイテンはクロエの顔を見つめる。
彼女は神妙な顔をしていた。
「昨日から不思議だったんだけど」
そう前置きして、一旦口を閉ざす。
ルイテンは口が渇くのを感じた。クロエの緊張が伝わってくる。呼吸が早くなってしまう。
いつかは訊かれるかもしれないと思っていた。さっさとクロエと別れてしまえば、訊かれることはなかっただろうに。
「ルイは、なんで私の追っ手を見つけるのが上手いのかなって思ってて。今回も、私、追っ手を自分で見つけるなんてできなかった。
ルイがいなかったら、多分もう捕まってると思う。けど、それって…………ルイは……」
足音が聞こえた。クロエは途端に口を閉ざす。
ルイテンも足音を耳にする。喉から心臓を吐き出しそうになって、落ち着くために深呼吸した。
ルイテンは窓をゆっくりと開ける。全開にすれば、ヒト一人が通れる程の出口になる。
「クロエ、先に」
ルイテンはクロエに促す。そしてトイレの入口に顔を向ける。
足音は、隣の男子トイレに入っていくようだ。
クロエは自分の格好を気にする余裕もなく、窓の横桟に足をかけた。狭い窓に足を、腰をくぐらせる。途中、胸がつっかえてしまったが、無理矢理押し込んで体を通した。
「ルイ」
小声で呼ばれたルイテンは、窓の外に立つクロエに顔を向ける。服が汚れているものの、問題なく通れたようだ。
ルイテンもまた、窓に体を押し込んで外へと出た。
裏道は、ルイテンが予想していたよりも狭かった。
人が一人やっと通れるかというほどの道幅しかない。建物と建物に挟まれた隙間、と言った方が正しいだろう。
ルイテンは息をつきながら、ふと、窓を振り返った。
目が合った。
「元気っすか?」
開けられた窓から、ドラスの細い目がルイテンを見ていた。
ルイテンは、蛇に睨まれた蛙のように、ただ放心して動けなかった。
ドラスは、横桟に腕をかけて、ルイテンの後ろに縮こまるクロエを見る。
「あぁ、確かに噂通り。
ルイテンはクロエを隠すように、自身の体でドラスの視線を遮った。
ドラスはその様子に目を見開く。普段はほぼ見えない、彼の黒茶色の瞳が覗く。
「あれだけ色恋はやだとか言ってたじゃねぇっすか」
「クロエは、そういうんじゃ……」
ルイテンの言葉は尻すぼみする。ドラスの言葉を真っ向から否定できない。
クロエは友人なのだと意識するほど、ルイテンの中では違和が大きくなってしまう。
クロエはルイテンの横顔と、ドラスの顔とを交互に見ていた。
ドラスは自分達を追ってきたはずだ。二人はまるで以前からの知り合いのように話しているではないか。二人は友人なのか。
クロエの胸中に、不安が渦巻く。
「ルイ、この人、知り合いなの?」
クロエは震える声で問いかける。
ルイテンは、その言葉で我に返った。
「逃げよう」
ルイテンはクロエの手を引く。
クロエはその手を振り払った。
「…………え?」
ルイテンは唖然とした。
今までは自分が先導して、クロエの逃げ道を作ってきた。頼りない用心棒ではあったが、クロエは自分を信じてついてきてくれた。
たった今、クロエは、ルイテンの手を拒否した。
理由はルイテンもわかりきっている。信用がなくなったのだ。
「クロエ、逃げよう」
だが、こんな場所で立ち往生していたのでは、いずれ捕まってしまう。その相手がドラスだろうが、他の教団員だろうが。
「教えて」
クロエは問う。虹色の目をキッと吊り上げて、ルイテンを見つめる。
「あなたは、私が何から追われているのか、知ってるんでしょ? それを知ってるあなたは、一体何なの?」
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