イラジエーション⑤
ほんの一瞬、ルイテンは意識を失っていた。
不意に目を覚ます。
ルイテンは浮かんでいた。
落下ではない。
脇腹にできたはずの切り傷は痛まない。触れてみると、服は破れていたが、傷はすっかりなくなっていた。
あまりに不思議な出来事に、ルイテンは困惑する。
「存外、すぐに目が覚めたようじゃの」
どこからともなく声が聞こえる。
辺りを見回す。そこは雲の中であったようだ。周りは、柔らかな白色に覆いつくされている。
その白の中に、暗い影が差し込んだ。
鰐のようなマズルはあまりに大きく、ルイテンの顔なら一口で食い切ってしまいそうなほど。
蝙蝠のような翼の迫力は、一振りで竜巻を起こせそうなほど。
それらは影だというのに、鋭い威圧感を放っていた。
あまりにも巨大な影に、ルイテンは圧倒される。なんだこれは、と。
「
影はマズルを頷かせてそう言った。
この影は一体誰なのか。そもそも、人語を離しているがヒトなのか。
わからない。
ルイテンは震える唇で問いかける。
「あ、あの、あなたは」
「知らんで良いことよ」
突如、雲の中から一頭のペガサスが現れた。それはルイテンの前に立ち止まると、
本来ペガサスは暴れ馬である。だが、目の前のペガサスは、従者のように大人しい。
ルイテンは何を求められているのかわからず戸惑った。
「
とんでもないと、ルイテンは首を横に振る。再び影は声をあげて笑った。
「素直なのは良いことじゃ。
ルイテンはペガサスを撫でる。
乗馬の経験はない。何より、ペガサスは野生の個体のようだ。
だが、ルイテンがペガサスを一撫でしただけで、ルイテンの体はふわりと浮かび、ペガサスの背中に跨った。
これは
「頼むぞ」
影はそう言い残し、姿を消した。
目の前が晴れ渡る。雲の中から抜け出したようだ。
途端に重力が戻った。ルイテンは自分の体の重みを思い出し、ペガサスの首にしがみつく。
眼下には街が小さく見える。知らぬ内に、随分高い場所を飛んでいた。
列車から落とされたことを思い出し、ルイテンはぞっとした。謎の影の助けがなければ、命はなかっただろうと。
「ペガサス、列車まで飛んでくれる?」
言葉が通じるかわからないが、ルイテンは問いかける。ペガサスは
ぐんと上昇する。振り落とされぬよう、ペカサスにしがみつく。
すぐに列車と同じ高度までたどり着いた、風に煽られ暴れる前髪を、ルイテンは撫でつける。
列車と並行しながら、ルイテンはクロエの姿を探した。
すぐに見つけた。
座席の影に隠れて震えるクロエの姿が、窓越しに見えた。ルイテンは今にも駆け寄りたい衝動に駆られる。
別の影を見つけ、視線はそちらに奪われた。ファミラナがニコラを
ルイテンは焦る。列車から落ちる直前、自分は同じようにニコラを追い詰め、しかし即座に形勢が逆転した。
ファミラナも同じ
車両の内部がきらり輝く。
ルイテンは咄嗟に動いた。
ペガサスの背を蹴り、閉めきられたガラス窓に突っ込む。両手で顔を覆い隠しながら。
激しい音を立ててガラス窓が割れる。車内に飛び込んだルイテンは、ファミラナの体を抱き込んで倒れ込んだ。
瞬間、たがねが放たれる。ファミラナの首を狙ったはずのそれは空を裂き、天井に突き刺さった。
「ルイ! ど、どうして?」
ファミラナは状況が読めず混乱した。あわあわと口を動かしながら、だがそれ以上の言葉が出てこない。
ルイテンは即座に立ち上がる。ガラスに飛び込んだために両腕は切り傷だらけだが、ルイテンはそれに気づかない。
起き上がろうとするニコラ。ルイテンはその頭を掴み、下を向かせ、膝でニコラの顔を蹴り上げた。
ニコラの悲鳴は声にならない。鼻から鮮血が飛び散った。思わずルイテンの体を突き飛ばす。
ルイテンは追撃する。十分に離れていないニコラの腹を、片足で蹴りつける。仰向けになったニコラの肩に掴みかかり、うつ伏せにし、両腕を後ろにひねりあげて押さえつけた。
「いてぇ、やめてくれ!」
「辞めるわけないでしょう。お前は、
ルイテンの目は血走っていた。
自分が殺されかけたことが許せない。だが、それ以上に、クロエを危険に晒し、ファミラナにまで負担を強いた自分の弱さが許せなかった。
ニコラの腕を押さえる両手に力がこもる。ルイテンは、腹立たしさのあまり歯軋りしていた。
「ルイ」
クロエの声が聞こえた。ルイテンは顔だけで振り返る。
クロエがそこに立っていた。ルイテンを見下ろすその目は、涙に濡れていた。
「生きてた……よかったぁ……」
クロエはルイテンの背中に縋り付く。声をあげて、わんわんと泣いた。
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