水面の月と夜光虫⑥

 真夜中の船内。クロエはシャワールームからメイクルームへと出てきた。

 タオルを頭に巻き付けて、その上からパーカーのフードをかぶり、更に毛布をかぶっている。それにより彼女の髪は、光が漏れることなくすっかり隠れていた。煌めく目元は隠すことができないが、こればかりは仕方ない。クロエはため息をつく。

 二つ並んだシャワールーム。両方とも女性用で、かつ一人用。クロエが片方のシャワールームから出てきた時には、もう片方は空であった。使われた形跡はない。

 メイクルームにも、ルイテンの姿がなかった。ルイテンも海に飛び込んだのだからシャワーを浴びるだろうとクロエは思っていたのだが、予想が外れてしまい首を傾げる。


 ルイテンがネーレイスであったのは、クロエにとって意外だった。ルイテンの名前にも仕草にも、女性らしさがなかったためである。


 ネーレイスとは、女性的な特徴を持つ精霊種族。そのルーツは海の中とされ、彼女らの体は水との親和性が高いと言う。

 かつて海に住んでいた彼女らは、陸に住む人間と恋に落ち、それ以来生活圏を陸に移したのだと伝えられていた。

 だが、本来は海に適した体である。ネーレイスは、陸上では不安定な存在であるため、純粋なネーレイスは珍しい。


「ネーレイスって、初めて会ったかも……」


 クロエは呟く。そのくらい、珍しい人種であった。


「あ、ていうか、ルイ探してお礼言わないと……」


 ルイテンに礼を言いたくて、クロエの気持ちは逸る。

 クロエは一通り肌の手入れをすると、メイクルームから廊下へと出た。

 クロエの目の前に、探し人の姿があった。ルイテンは、シャワールーム前の廊下を行ったり来たりしている。髪を海水で濡らしたまま、何か悩んでいるようであった。


「あ、ルイ」


 クロエはルイテンに声をかける。ルイテンは振り向いた。


「シャワールーム空いてるよ。浴びてきたら?」


「あ……うん……」


 ルイテンは曖昧に頷く。

 廊下の反対側には、男性用のシャワールームがある。ルイテンはそちらをちらりと見て、続いて女性用のシャワールームを見る。そして、どちらにも入りづらいとでも言うように呻吟した。

 クロエは、ルイテンの行動に疑問を抱く。だがそれに触れるより先に、ルイテンへ礼を言う。


「さっきはありがとう」


「んん……大したことじゃないよ……」


 ルイテンは首を振る。溺れる心配のないルイテンにとっては、自分ができることをしたまでのこと。

 だが、クロエはそう思わない。


「私にとっては大したことなの!

 泳げない私を、危険をかえりみずに助けてくれて、本当にありがとう。ルイが飛び込んでくれなかったら、私死んでたよ」


 クロエはルイテンの両手を握る。比喩ではなく、きらきら輝く目で見つめられ、ルイテンは頬を桃に染めて目を逸らした。照れたのだ。


「や、だって、此方こなたは溺れないし……」


 褒められ慣れていないルイテンは、ひたすら謙遜けんそんを繰り返す。クロエはなおも感謝を述べようと口を開きかけたが、あることに気付いてすぐに閉じた。

 ルイテンが、褒め言葉や感謝を素直に受け止められないのは、ルイテンの性格なのだろう。クロエは、仕方ないとばかりに小さく笑う。


「そうだ! 私、びっくりしちゃった。ルイってば、ネーレイスなんだって?」


 ルイテンの頬から途端に赤みが消える。顔色は、先程とは逆の、青いものへと変わっていく。


「この前はごめんね。女の子だって気付かずに『ルイテン君』だなんて」


「あ、いや……此方こなたは……」


「ほら、シャワー行っておいでよ。あ、それとも着替えなかったりする? 私のパジャマで良かったら貸すよ」


 ルイテンは目を閉じる。

 悩んでいるのだろう。暫く眉間にしわを寄せて黙っていた。やがてクロエの手を引いて歩き出す。


「ルイ?」


 クロエはルイテンに引かれるまま、廊下を進む。

 ラウンジを抜け、扉が並ぶ廊下を抜け、やがて自分達が借りているツインルームに入る。そこでようやく、ルイテンはクロエから手を離した。

 クロエは行動の意味がわからず首を傾げる。早足にベッドに近付いてボストンバッグを開けると、予備として用意していた彼女自身の服を取り出した。小花柄のワンピースだ。


「これでいい?」


 クロエはワンピースを差し出すが、ルイテンは首を振る。ルイテンが求めているものは、それではない。

 ルイテンの意図がわからず、クロエは首を傾げた。


 ルイテンは深呼吸する。勇気を出したいのに、唇が震えて仕方ない。


「……気持ち悪がられそうで、言わなかったんだけどさ……」


 やがて、ぽつりぽつりと話し始める。

 ルイテンは何かを告白しようとしているのではないか。クロエはそう思い口をきつく結ぶ。静かに、ルイテンの言葉を待つ。


 ルイテンは、小さな声をもらした。


此方こなたは、どっちでもあるんだよ」


 クロエは眉を寄せた。言葉の意味がわからない。


「どっちでも? えっと……?」


 ルイテンは、再び言葉を重ねた。

 

「だから、その……男でもあるし、女でもある」


 それはあまりにも意外な言葉であった。

 常人が普通に暮らす中では、なじみがないであろう現象。耳に入るはずのない言葉。


「……トランスジェンダーっていうの?」


 クロエが持つ知識では、その言葉しか「それ」を表すものがなかった。

 しかし、ルイテンが抱えるものは、それよりも遥かに珍しいもので。


「いや……あー……だから、その……

 つまり、両性って、やつ……」


 クロエは目を瞬かせた。つまりは、男性的な特徴も、女性的な特徴も持ち合わせているということ。それを想像して、驚きのために息を呑む。

 先程、ルイテンかシャワールーム前の廊下で彷徨うろついていたのは、どちらのシャワールームに入るべきか迷っていたからだ。

 だが、ルイテンは自身をネーレイスと言っていたはず。


「でもルイ、ネーレイスなんでしょ? ネーレイスは、女性的な特徴を持つって……」


 ルイテンは首を振る。クロエの考えを否定するように。


「そうだよ。でも、此方こなたは実際両性なんだよ。

 あー……だから嫌だったんだ。別れるまで隠そうと思ってたのに……」


 ルイテンはベッドに腰掛け、そのままうつ伏せに倒れ込む。

 自分の性を枠に当てはめられることは嫌いだった。自分の存在が異質なもののように思えて。

 男でも女でもない、はみだし者。そう言われているようで、辛くて仕方ない。


「ルイは、自分をどっちだと思ってるの?」


 クロエは問う。


「……どっちでもない」


 ルイテンは答える。

 ルイテン自身、性の自認はどちらにもないのだ。だからこそ、自分の存在が不安定で揺らいでいるように思えた。


「そっか」


 クロエは呟く。


「じゃあ確かに、シャワールーム迷うよね」


 クロエの言葉に、ルイテンは顔を上げる。

 クロエは、あまりにもあっさりと、ルイテンを受け入れていた。その上で共感しようとしている。神妙な顔をしながら腕組みして、解決案を口にした。

 

「どっち入るにしても迷うよねぇ。あ、でも今は女子用がいいかも? ほら、船員さん、ルイのこと女の子だと思い込んでるみたいだし」


 ルイテンはクロエの態度に驚いていた。てっきり拒絶されるものだと思っていたからだ。

 おそるおそる、ルイテンは問いかける。


「あの、引いてないの?」


「何で?」


 クロエはきょとんとする。彼女には、拒絶という選択肢はないように見受けられた。

 こんなこと、あんまり珍しくて、ルイテンは慌てていた。自分でも不快感を持つ自分の体に対して、こんなにも普通に接してくれるクロエは、ルイテンにとってイレギュラーであったのだ。


「いや、だって、此方こなたはさ……」


 ルイテンが自分を卑下する言葉を言いかけて、クロエはそれを遮るように言葉をかぶせた。

 

「だってルイは、私を変な目で見なかったもん」


 クロエは頭のタオルを解く。

 はらりと、濡れた髪がこぼれる。それはやはり虹色に煌めいている。


 ルイテンは思い出す。クロエが甲板にいたのは、おそらくルイテンに髪を見せたくなかったから。スカーフをかぶっていたのも、光が辺りに漏れないようにするためだったのだろう。

 彼女もまた、自分の体を嫌っているのだ。


 クロエは語る。


「私、毎晩髪がこんな風に光るの。でもこれは私の意思じゃない。

 生まれつきこんな髪で、ヴィラコスの中でも変な目で見られることは多かったの。

 こんな髪、綺麗だって言われるのも……怖いって、気持ち悪いって言われるのも、私は嫌で……こんな髪のせいで、変なやつにちょっかいかけられることも多くて、見られるの嫌だったの。

 でもね。ルイは、ただ見てるだけだった。この髪に対して、何も言わなかった。

 シャワー室出た時もさ、ルイは髪について何も言わなかったでしょ? それが私は嬉しかったの」


 ルイテンは口を開く。「そんなこと」と言いかけて、クロエの微笑みを見て……ルイテンは口を閉ざした。

 ルイテンは、自分のことで頭がいっぱいだっただけだ。普通に接しようなどといった狙いがあったわけでもない。クロエを気遣っていたわけでもない。ただ、結果的に何も言わなかっただけなのだ。

 だが、クロエはそれが嬉しいのだと笑う。


「ルイは、私を特別なヒトだと感じなかったんでしょ? 私はそれが嬉しいの」


 クロエはルイテンを見つめる。虹色に輝く瞳で見つめられると、ルイテンの心がざわついた。

 クロエがなぜルイテンを全面的に肯定してくれるのか、ルイテンにはわからない。だが、彼女の前向きなところは「いいな」と思えるのだ。


「あのね、私、やっぱり性別なんて関係なくさ、ルイのこと好きだな」


 クロエは言う。

 ルイテンは顔を逸らせる。そういう言葉はどうも苦手だ。ヒトを好きになるには性別が関係する、そういった先入観が、ルイテンの頭にはこびりついていた。自分という希薄な存在が、好いて好かれる、その関係性に憧れるなど、おこがましいと。


「あ、でも返事はいいからね? いきなり好きだなんて言われて、ルイ困るでしょ?」


 クロエはからからと笑う。その笑顔は宝石オパールのように眩しかった。


。.:*・゜

『水面の月と夜光虫』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る