水面の月と夜光虫⑤

 ルイテンが部屋に帰ってくると、そこはもぬけの空であった。

 荷物はあるがクロエはいない。荷物が荒れた様子もないため、トラブルがあったわけではないようだ。クロエの意思で、船内のどこかに出掛けたに違いない。船の中であれば危険はないだろうと判断し、ルイテンはさして心配する様子もなく、買ってきたパンをテーブルに広げた。

 ベーコンエピ、クロワッサン、ベーグルのサンドイッチ、そしてドーナツ。ドーナツはクロエの注文であるため、それだけテーブルの端に寄せた。

 暫く悩み、ベーコンエピとクロワッサンを自分の手元に引き寄せ、ベーグルはドーナツと同じ場所に寄せてしまった。


 まずはベーコンエピを袋から取り出す。焼いてからずいぶん時間が経っているらしく、すっかり冷めている。それを小さくちぎって口の中に入れる。硬めの生地に、塩気が強いベーコンと、クリーミーなチーズの組み合わせ。冷えていても十分美味しい。

 黙々とパンを食べ進めていたが、やがて一人で食べていることに寂しさを感じ始めて、ルイテンは食事もそこそこに立ち上がった。モグモグと口を動かしながら、部屋の扉を開けて廊下を見回す。

 クロエはやはりいない。


「何処行ったんだろ」


 ルイテンは部屋から出る。部屋の扉を施錠して、鍵を上着のポケットにしまい込んだ。


 廊下を歩き、窓の外を見る。船は、就寝中の乗客を起こさないようゆっくりと進んでおり、波は穏やかだった。

 甲板に出る。乗客は甲板を自由に行き来することが認められていた。ルイテンは手すりに両手を載せて、夜の海を眺める。

 夜の海は黒々としていて、水の中などうかがい知れない。だからこそ、水面には美しい景色が映っていた。

 満点の星々。天を流れる天の川。砂金にも似た星々の装飾を写し取っている様は、まさに水鏡。

 海の魚達は、皆眠っているのだろう。随分と静かであった。


 ふと視線を左に向ける。


「あ……」


 クロエがそこにいた。彼女は頭にスカーフをかぶり、屈んで縮こまっている。彼女の長い巻き髪は、全てスカーフの中におさめられているようだ。

 顔さえも見せない彼女は、時折あーだの、うーだの、言葉にならない声をもらしていた。


「クロエ、ここにいたの」


 ルイテンが声をかける。クロエはルイテンの顔を見ることさえせず、おびえたように肩をすぼめた。


「どうしたの? 酔った?」


 ルイテンは再度声をかける。その問いかけには、クロエは首を横に振って答えた。

 どうも様子がおかしいと察したルイテンは、クロエの隣に屈んで顔を覗き込む。


「相部屋が嫌なら、此方こなた、別のとこ行こうか?」


「ひゃあっ!」


 クロエは驚き肩を跳ねさせる。スカーフがわずかに後ろへとずれ、クロエの柔らかな前髪が隙間から見えた。


 キラキラと輝いていた。

 比喩ではない。髪自体が発光していたのだ。

 まるでオパールのような、虹色の輝き。


「み、見ないで……!」


 クロエはスカーフを巻き直す。

 ちらりと見えた彼女のまつ毛も、瞳も、星の煌めきのごとく光輝いていて、ルイテンは目を丸めた。

 天の川なんて比にならないほどに、美しく、そして眩しい。


「見ないでったら」


 クロエは慌てて立ち上がる。ルイテンの視線から逃げるべく、わき目も振らず甲板を走り出した。


「あ、クロエ! 走ったら危ない!」


 ルイテンはクロエを呼び止める。夜中の甲板で走って転んだら大変だと。

 

 大きめの縦揺れに、クロエは足をもつらせた。体が手すりにぶつかる。その拍子に、クロエの手からスカーフがするりと抜けてしまった。

 それは咄嗟の行動だったのだろう。

 潮風に飛ばされたスカーフを取ろうと、クロエは体を捻り手を伸ばす。片足を手すりにかけながら。

 

 海水で濡れた手すりから、足が滑ってしまった。

 

「クロエ!」


 クロエの体が海に落ちる。派手な音を立てながら、水飛沫が飛び散った。水鏡がかき乱されて、天の川は霧散する。

 操舵室から船員が事の経緯を見ていたようだ。即座に警報が鳴らされた。


「女性が落ちたぞ!」


 船の中からは船員が次々と出てきて、甲板から海面を見下ろす。数にして五人。いずれも男性であった。

 船員の声を耳にした乗客たちが、一人、二人と甲板にやってくる。二人の若い船員が、乗客達を宥めて部屋に押し戻そうとしていた。

 

 ルイテンは、船員をかき分けながら最前列へと向かう。海面を見下ろし、クロエの姿を探す。


 クロエの姿は、彼女の輝く髪が目印となってよく見えた。

 様子がおかしい。彼女の体は浮き沈みを繰り返し、虹色の光に照らされた波が水しぶきを立てている。クロエの手足はバタバタと暴れ、船体を掴もうと必死に藻掻いていた。

 クロエは泳げないのだ。


「やば……」


 ルイテンは瞬時にそれを察し、上着を脱ぎ捨てる。海に飛び込もうとしたのだ。だが、すぐさま船員に取り押さえられる。がっしりとした男性の腕に捕まれ、ルイテンは動けなくなってしまった。


「だめだ! 君まで溺れたらどうする!」


 船員は言う。だが、ルイテンは首を振る。


此方こなたは大丈夫です。溺れるなんてないから」


「海をなめちゃいけない。大人しくしてなさい」


 船員の腕に力がこもる。

 ルイテンには確信があるのだ。自分は絶対に溺れないという確信が。


此方こなたはネーレイスです! 溺れるなんてない!」


 船員は目を丸くした。ルイテンの顔を見る。

 中性的な顔立ち、男性的な服装。てっきりルイテンのことを少年だと思い込んでいた船員にとって、ルイテンの発言は意外なものだった。船員は腕の力を緩める。


 ルイテンは、夜の海に飛び込んだ。


 春の海は冷たく、しかし波は穏やかであった。

 海水を口に吸いこみ、そのしょっぱさにルイテンは顔をしかめる。だが呼吸が阻害されることはなく、視界も良好であった。

 ネーレイスであるルイテンは、海の中でも呼吸ができる。溺れることがないというのは、この特性故であった。


 クロエの姿を探す。

 彼女の姿は簡単に見つかった。


 ルイテンより随分下、水の中に沈んでいくクロエの姿。

 髪は波に揺らめいて、まるで夜光虫のよう。

 

 ルイテンは足で水を蹴り、クロエの元へ一直線に向かう。

 息苦しさに顔をしかめるクロエを抱きしめ、ルイテンは水面を見上げた。


 揺らめく月明りと天の川。それを目印にする。

 もう一度、空気の代わりに水を吸い込み、深く吐き出す。こぽりと泡が一つ昇った。


 両足を魚のようにくねらせて、ルイテンは水面へと浮上していく。

 クロエの煌めく髪は、まるでランタンのように、ルイテンの進む先を照らしてくれた。


 やがて海面から顔を出す。

 ルイテンはクロエの体を持ちあげて、彼女の顔を空気に晒した。途端にクロエは咳き込み、呼吸し始める。


「げほっ、げほっ」


「……大丈夫?」


 ルイテンは恐々尋ねた。海水をしこたま飲みこんだクロエは、暫く咳き込み続ける。返事をするだけの余裕がないようだ。


「つかまれ!」


 船員の一人が投げた浮き輪が、ルイテンの目の前に落ちる。ルイテンはそれを片手で手繰り寄せ、クロエに捕まるよう促した。クロエは両手で抱えるようにして浮き輪に捕まる。それを見た船員たちは、浮き輪に繋がれたロープを手繰り寄せ始めた。


「よかったよかった!」


「姉ちゃん、あんたすげーよ!」


 ルイテンは自身に投げかけられる言葉に苦笑していた。

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