水面の月と夜光虫④

 更に三十分、電車に揺られ、ピクトル駅へと到着した。列車から降りる客達は、多くがその顔に疲れを浮かべている。ルイテンやクロエも例外ではない。眠気に襲われた二人の足取りは覚束無い。

 ルイテンは、クロエのボストンバッグを一つ抱え、欠伸を噛み殺しながら辺りを見回した。


 駅を出た先は、観光地ピクトルの街。駅周辺は飲食店が軒を連ねていた。

 駅正面に真っ直ぐ伸びた馬車道を挟むように、屋台や食堂が煌々と明りを放っていた。陽が落ちかけているというのに、街は明るく賑やかだ。

 クロエは地図を開く。駅で配られた地図は簡略化されており、あまり役に立たなさそうだ。クロエは地図をくるくると回しながら首を傾げる。


「ルイ、地図わかる?」


 クロエはルイテンに尋ねた。


此方こなたも地図は苦手だけど」


 ルイテンはクロエから地図を受け取る。駅は北、すなわち地図の上に書かれている。目的地である港は南、地図の下側。たが簡略化されすぎていて、駅から港までどのくらいの距離があるのかわからない。


「南ってどっち?」


 暫く地図を見ていたルイテンだが、困り果てた末、クロエに尋ねる。


「わかんない」


「んん……」


 ルイテンも、申告の通り地図を読むのは苦手であった。地図をくるくると回しながら、地図と景色を見比べている。

 やがて、地図に描かれた建物に一致する店を見つけた。


「食堂があそこだから、この道真っ直ぐ」


 ルイテンは正面にある店を指差した。馬車道を少し進んだ先、その右側にある大衆食堂だ。その店の中から聞こえる若い男女の笑い声は、離れた場所に立つルイテン達にもよく聞こえていた。

 地図上に書かれた名前が、食堂の名前と一致している。その道を真っ直ぐ進めば、ピクトル港があるはずだ。ルイテンは地図の情報から、そう判断した。


「ほんと?」


「多分」


「多分……」


 クロエは、ルイテンの頼りない言葉に苦笑する。

 ふと辺りを見回す。駅から出てきた乗客達が、ぞろぞろと道なりに進んでいた。彼らは同じ列車に乗っていた乗客達だ。自分達と同じように港を目指しているのだろうと考えたクロエは、ルイテンの腕を掴んでぐいと引っ張った。


「あの人達について行こう。多分みんな港に行くんだよ」


「ほんと?」


 ルイテンは問いかけるが、疑う余地はなかった。ルイテンも、彼らが同じ列車に同席していたことに気付いたのだ。

 駅から出てきたヒトの群れは道なりに進む。ルイテンとクロエも、その人波に従った。

 食堂やバーなど、飲食店の明かりがルイテンを誘う。ルイテンは視線を奪われそうになりながら、それらを見ないようにして先を急いだ。

 そういえば夕飯を食べていなかったと、ルイテンは思い出す。辺りを漂う食べ物の匂いに後ろ髪を引かれるが、立ち寄る時間はない。それを残念に思い眉尻を下げた。


 やがて港が見えてきた。

 深い濃紺に染められた空。やってきた夜を迎えるため、ぽつりぽつりと星が煌めく。その光を照り返すさざ波は、静かな音を立てていた。

 クロエは顔いっぱいに笑顔を浮かべる。


「見て見て。おっきい船!」


 クロエの声を聞き、ルイテンは前方を見上げた。船着き場に停泊中の船を見る。波に揺られる白い船体は大きく、ところどころに傷が入っていた。何度も荒波に揉まれてきた証拠だろう。

 舟に乗るのなんて久しぶりだなと思いながら、ルイテンはふっと笑みを浮かべた。実のところ、貨物船に乗せられるのではないかという一抹の不安があったのだ。それが杞憂であったのだとわかり、ルイテンは安心していた。


 船の入口までやって来ると、男性の係員が二人立っていた。


「チケットを拝見します」


 一人が手を差し出す。クロエは手に持っていた船のチケットを係員に差し出した。係員は受け取り、チケットを確認。ミシン目に沿って、チケットを左右に切り離すとクロエに半券を返した。


「良い旅を!」


 クロエは船に乗り込む。ルイテンはそれに続く。

 船の中に入る。然程豪華ではなかったが、旅客船とあって内部は広かった。

 廊下を進むと、その先に簡易的な売店があり、軽食や飲み物が販売されている。その先にあるのはラウンジ。海を見渡すために作られた大きな窓は、継ぎ目のないガラス張りであり、窓側を向くようにいくつも合皮のソファが並んでいた。

 ルイテンもクロエも、旅客船に乗るなど初めてで、のんびり歩きながらラウンジを見回していた。

 

 その先には雑魚寝をするためのスペースがあり、部屋の隅に無地の毛布が何枚も重ねて置いてある。

 クロエはそれを見て不安を抱いた。


「船の中で一晩過ごすんでしょ? 個室あるかなぁ?」


 クロエは呟く。雑魚寝の部屋を抜けて廊下に出ると、不安げにルイテンを見上げる。


「チケットに席の番号とか書いてないの?」


 ルイテンが尋ねてようやくクロエはチケットをしげしげと眺めた。そこに書いてあるのは「ツインルーム2号室」の文字。

 クロエはそれでも難しそうな顔を浮かべる。ルイテンは彼女の顔を見ているうちに、一つの考えが頭に浮かんだ。

 自分の顔立ちは兎も角、格好は男性的であるのだ。素性を知らないヒトと同じ部屋に寝泊まりすることに抵抗があるのだろうと、ルイテンはそう解釈したのだ。


「部屋があるだけマシ。気になるなら此方こなたは他所行ってるからさ」


「え? いや、それは悪いよ」


 だがクロエは、ルイテンにそう言った。ルイテンは首を傾げる。どうもクロエは、ルイテンに対して嫌悪感を抱いたのではないようだ。

 そう話している間にも、自分達の後ろには乗客達が次々と乗り込んでくる。邪魔になってはいけないと、ルイテンはクロエの手を引いて階段を上がる。個室は階段を上がった先。二階にあるのだ。

 簡易ベッドが置かれただけの大部屋に集まる人々、ファミリールームへと向かう四人家族を見送って、ルイテン達はツインルームへとやってきた。部屋の中に入ると、そこはビジネスホテルのような空間。狭い部屋ではあったが、一晩過ごすには十分だろう。


「私達だけ部屋もらってよかったのかな?」


 クロエは言う。個室が欲しいと言っておきながら、いざ部屋が宛がわれると、申し訳ないと思えて仕方がないのだ。

 ルイテンは首を傾げる。どうやら気付いたことがあったらしい。


「んん……多分、行先や年齢でチケット決めてたんだと思うよ。後ろに座ってた夫婦なんて、さっきスイートルーム行ってたし」


「えぇ? いいなー!」


「まぁ、老夫婦だからね。大部屋じゃ体壊すでしょ」


 ルイテンはそう言って、片方のベッドにボストンバッグを置いた。自分のボディバッグから財布を取り出すと、ボディバッグもベッドに置く。


此方こなたは一階の売店でパン買ってくるけど。クロエは何かいる?」


 ルイテンは、一階の小さな売店で、夕飯代わりのパンを買ってくるつもりであった。クロエもお腹が空いているだろうと、彼女を気遣い声をかけた。

 クロエは暫し考えて答える。


「うん。ドーナツ食べたい」


「ん、わかった」


 ルイテンは頷き、ツインルームを後にする。「鍵かけないでね」と一言残し、部屋の扉を閉めた。


 クロエはしばらくぼんやりとしていた。自身の巻き毛を指で弄り、深くため息をつく。


「どうしよう……」


 その声は誰に聞こえるわけでもなく、静かな部屋の中に寂しく響く。


 ややあって、船の外から汽笛が聞こえてきた。くらりと船体が揺れ、窓の外にある景色は後ろへと流されていく。

 船は夜の海を進む。

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