水面の月と夜光虫③

 それは突然のことだった。

 車体が激しく揺れた。何かがぶつかったような衝撃にルイテンは驚き、ひじ掛けにしがみつく。隣を見れば、クロエも衝撃に驚いて、前方座席の背もたれに両手をついて、椅子から投げ出されないよう踏ん張っていた。

 列車は暫く走行を続けるが、徐々にスピードが落ちていく。やがて列車は緩やかに停止した。列車がブレーキをかけたのだ。


「なんだろ?」


 ルイテンは呟いて辺りを見回す。

 他の乗客達も困惑しているようだった。辺りを見回したり、窓の外を見たり。中には不安で泣き出す子供もいた。子供の親は、困惑を顔に浮かべながらも子供をあやしている。


「何があったんだろ。イルカの大量発生の時期じゃなくない?」


 クロエは言う。

 雲の上では、時折空イルカ達が巨大な群れを作り、銀河鉄道の進行方向をふさぐことがある。だがそれは季節性のものであり、春を迎えたばかりの今の時期は、その季節にはあたらない。

 原因を特定しようと、クロエは窓を全開にし顔を突き出す。進行方向に目を凝らし、暫く見つめ、ようやく状況を判断した。


「うわ……」


 クロエは呟く。彼女の視線は、前方から下方向へと動く。ルイテンは、その視線の動きを不安げに見ていた。

 やがてクロエは顔を車内に引っ込める。両手で顔を覆って背もたれに体を沈めた。

 直後、アナウンスが車内に響く。


『緊急停車いたしまして、大変申し訳ありません。

 ただ今、原因並びに安全確認を行っております。発車まで暫くお待ちください』


 空を駆ける銀河鉄道が緊急停車など、そうそうあることではない。

 ルイテンは、クロエの様子が気にかかった。顔を両手で覆っているが、何か衝撃的なものでも見たのだろうか。


「クロエ、大丈夫?」


 ルイテンは問いかける。

 クロエは顔から両手を離した。彼女の顔色は青い。瞳にはうっすらと涙を浮かべている。えずき、息をつまらせながら、ぽつりと言った。


「ペガサスが落ちてくの見た……」


「ペガサスが?」


 ルイテンは驚いて訊き返す。

 大きな翼を背中に持ち、優雅に空を駆けるペガサス。凛々しく賢い彼らが空から落ちるなど、まるで想像できない。


「血が出てたから、多分列車と接触したんだと思う」


 クロエは言うが、ルイテンはそれを信じられなかった。


「でも、ペガサスってかなり賢い生き物だから、列車に突っ込むなんてそんなの……」


「でも見たんだもん」


 クロエの語気は強い。彼女の言葉を疑う必要などどこにもなく、ルイテンはクロエの話をそれ以上否定しなかった。

 空の上で起こった事故。対処にどのくらい時間がかかるかわからず、ルイテンはげんなりした。もし何時間も拘束され、予定が変わるようであれば、師匠にまた連絡しなければならない。


 およそ三十分。二人は運行の再開を待った。

 車内に再びアナウンスが響く。

 

『大変長らくお待たせいたしております。

 人身事故発生のため、緊急停車いたしております』


 車内はどよめきで埋め尽くされる。「どういうことだ」と大人達は騒ぎ、子供は大人の唯ならぬ表情に怯えていた。


「え? どういうこと?」


 ルイテンも、どよめきに混ざって呟いた。アナウンスを信じられず顔を青くする。

 ここは空の上だ。駅のホームであればいざ知らず。空の上で人身事故など、起こるはずがないのだ。

 グルルかハーピィが衝突したのだろうかと考えるが、雲の上まで自力で飛んで来るヒトが果たしているのだろうか。


 対して、クロエは腑に落ちたような表情をしていた。


「やっぱり。ペガサスが接触するなんて、おかしかったんだ」


 ルイテンはクロエの言葉に喉を鳴らした。「やっぱり」とは、どういうことだ。

 先程、クロエはペガサスが落ちたと言っていた。それは嘘だったのか? 見間違いだったのか?

 それとも彼女は、人身事故とわかる決定的な瞬間を見てしまったのだろうか。


 空の上、何故か起こった人身事故。ルイテンはすっかり混乱していた。


「切符を拝見します」


 その時、五号車の中に車掌が入ってきた。ルイテンは車掌の姿を見る。

 進行方向にある入り口から入ってきた彼は、どうやらグルルらしい。両手は羽に覆われている。彼は帽子の鍔を押し上げて、紺色の前髪をちらりと見せた。


 このタイミングで切符の確認かと、ルイテンは訝しむ。


 車掌は、進行方向にある席から順番に、乗客の対応をしていく。

 不安を訴える者、怒りをぶつける者、様々な客がいるが、車掌は丁寧に対応する。どうやら一部の客には何かを渡しているらしく、一人一人の対応に時間をかけているらしい。


「車掌さん、何してるんだろう?」


「さぁ?」


 クロエの問いに、ルイテンは首を傾げる。遠くからでは、車掌が何をしているのか全く見えない。


 やがて車掌は、ルイテンの席までやってきた。腰を下ろして屈みこむと、ルイテンに片手を差し出した。

 

「切符を拝見します」


 車掌は柔らかな笑顔でルイテンに言う。ルイテンはポケットから三枚の切符を取り出した。

 一枚は、カッシーニ駅の入場券。これは既に不要になった紙切れであるため、ポケットに再度しまう。

 他二枚は、この列車の車掌から購入した乗車券と特急券。行先はクラウディオス中央駅。車掌はその二枚のみを確認する。


「そちらのお客様も」


 車掌はクロエに声をかける。クロエもまた、切符を二枚取り出した。乗車券と特急券、行先は同じくクラウディオス中央駅。


「お二人とも、ご旅行ですか?」


 車掌はクロエの切符を確認しながら、にこやかに声をかける。二人を仲の良い友人と思ったのだろう。

 クロエは車掌に向かって、おどおどと返事をする。


「あ、いえ。クラウディオスに引っ越しで……」


「そうでしたか。足止めしてしまい、大変申し訳ありません」


 車掌は深々と頭を下げる。

 車両とヒトとの衝突事故。確かに鉄道側にも非があるかもしれないが、ルイテンもクロエも車掌を責めることはできなかった。


「いえ、車掌さんが悪いわけじゃないんです。仕方ないですよ」


 ルイテンは首を横に振って言う。

 クロエも同意見だ。ルイテンの隣で頷いている。続けて車掌を労い言葉をかけた。


「こんな夜中に大変ですね」


「あぁ、いえ、私どもは大丈夫です」


 心配されることに慣れていないのだろう。車掌はかけられた言葉にまごつきながらも返事した。

 鉄道の不備は、鉄道の責任。それを責めるヒトは多いが、心配して声をかけるヒトは稀である。車掌は優しい言葉に安心したらしい、ほっとした顔をしていた。


「……あの、私、ペガサスが落ちていくところを見たんです」


 思い切ってクロエは言う。


「やっぱり、ヒトが乗ってたんですか? 私が見たのって……」


 ルイテンは目を丸くしてクロエを見た。

 クロエが顔を青くした理由は、ペガサスだけではなかったのだ。

 彼女の一連の様子から察するに、ヒトが落ちていくところも見ていたのだろう。走る列車と接触したのだから、ヒトとしての原型があったかどうか定かではないが。


 車掌は苦々しい顔をし、答えられないとばかりに首を振る。


「お二人とも、お急ぎでしょう。別便を手配いたしますので、まずはこちらを」


 車掌は無理矢理会話を切り、ルイテンに二枚のチケットを差し出した。

 ルイテンは、人身事故について尋ねることはしなかった。車掌から大人しくチケットを受け取り、それをまじまじと見る。

 それは船のチケットだった。乗り場はピクトル港、行先はダクティロス港と書かれている。


「三十分後、当列車はピクトル駅に向かい出発します。皆様にはピクトル駅でお降りいただきます。お二人は港から船をお使いください。ダクティロスからは列車が運行しておりますので、その際にこちらをご提示ください」


 車掌は、更に二枚のチケットを差し出してくる。

 クロエが受け取ったそれは、ダクティロス駅からクラウディオス中央駅に向かうための切符であった。駅員に提示すれば、乗車料金を追加で払うことなく乗ることができる。


「船ですか」


 ルイテンは呟く。観光の街であるピクトルから、学問の街ダクティロスまで、船旅を強いられることになる。

 海を進む船は、空を飛ぶ銀河鉄道と比べ、移動に時間がかかる。おそらく帰宅が一日延びるだろうと考えると、ルイテンの心は沈んだ。


「船かあ。久々に乗るなぁ、旅客船」


 対してクロエの声は弾んでいた。クロエの呑気な物言いに呆れ、ルイテンはクロエを横目で見遣る。


 彼女の顔色は青いまま。だが、頬には笑みを貼り付けて、不安を隠そうとしていた。

 ルイテンは目をしばたかせ、そして伏せる。彼女を軽く見ていた自分を恥じたのだ。


 車掌は二人に一礼すると、その後ろの席に座る老夫婦の対応をし始めた。同じように切符を確認し、目的を尋ね、代替案を提示する。

 ルイテンは深々と椅子に座り直した。前方をぼんやりと見つめる。


「ごめんね、ルイ」


 クロエはルイテンに謝罪する。ルイテンはクロエに顔を向けた。


「予定よりも、帰るの遅くなっちゃいそう」


 困ったように笑うクロエ。ルイテンは視線を彼女から逸らした。


「君が悪いんじゃないよ……」


 追われている不安があるだろうに。嫌なものを見ただろうに。クロエはルイテンに対する気遣いを忘れない。

 ルイテンは「気にしなくていいのに」と思いつつ、彼女と自分を無意識に比較してしまい、自己嫌悪に苛まれた。

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