水面の月と夜光虫

水面の月と夜光虫①

 ルイテンは、先ほどから公衆電話に向かってぺこぺこと頭を下げている。悲痛な声で電話の相手へと謝罪を繰り返していた。

 自分から電話をかけたというのに、ものの五分もしないうちに切りたいという気持ちでいっぱいになった。


「すみません、師匠せんせい。用事が済んだら真っ直ぐ帰ります」


 電話の相手はディフダである。ディフダは、帰りがやたら遅いルイテンを心配していたらしい。ルイテンの後ろで気まずそうにしているクロエにも、彼の怒号がはっきりと聞こえてくる。


『遅くなるどころではないじゃないか!』


「ごめんなさい。すみません」


 ルイテンは瞳に涙を滲ませる。電話越しでも、怖いものは怖い。

 シェダルからは、危ないことはするなと言われていた。それは即ち、クロエを駅まで送り届けたらすぐに帰ってきなさいと、そういう意味であったのだ。それはルイテン自身理解していたし、その言いつけに背いてしまったことも理解していた。だからこそ、謝るしかできない。

 電話の向こうで、シェダルがため息をついている。ルイテンは前のめりになりながら、体を縮こませていた。


『用事とは例の女の子のことだろう? いつ帰ってくる?』


 ルイテンはちらりとクロエを振り返る。

 クロエはスケジュール帳をぱらぱら捲る。今乗っている列車は今日中に首都へ着く予定であった。ルイテンが首都のホテルで一泊過ごすと考えれば、帰り始めるのは明日の午後だろうかと推測する。

 クロエはルイテンにそのように耳打ちすると、ルイテンは頷いてクロエにぺこりと頭を下げた。


「明日の夕方までには首都を出ます。そこから特急で帰る予定なので、家に着くのは明後日、日が変わる頃かなと……」


 特急列車に乗ったとしても、クラウディオスからカッシーニまでは距離がある。移動には半日かかるため、すんなり帰ることができたとしても、ルイテンの見立て通りの時間になるだろう。


『……わかった。予定が変わるようならまた連絡しなさい』

 

 シェダルは渋々納得した。ルイテンは、これ以上叱られずに済むとわかると、ほっとため息をついた。再度謝罪を口にし、深く一度公衆電話に頭を下げる。相手側の通話が切れたことを確認してから、ルイテンは受話器を置いた。

 その途端に体の力が抜け、電話が置かれたキャビネットに寄りかかりながらへたり込む。


「大丈夫だった?」


 クロエは、脱力したルイテンに声をかけた。巻き込んでしまった負い目を感じ、表情は暗い。

 だがルイテンは首を振る。クロエのせいだと思う気持ちはあるが、それを責めるのは筋違いだと思った。


「いや、大丈夫……帰って師匠せんせいに叱られるだけだよ……」


 ルイテンの口から乾いた笑いが洩れた。

 シェダルの怒りは尤もであるし、叱られるだけで済むなら、それでいい。

 だが、教団のことを考えると、それだけで事が解決するとは思えない。自身が所属していた『喜びの教え』を、故意に裏切ってしまったのだ。シェダルに見つかってしまったし、帰宅後どんな制裁があるか想像できなかった。もしかしたら、再び『贖罪』を受けることになるかもしれない。

 どうにか避けたいと思うものの、臆病なルイテンはそれをディフダに相談する勇気もなかった。

 どうしたものかと考えるが、答えは纏まらない。


「あー……それより、外の景色見ようよ。雲海見たい」


 ルイテンは話を変える。

 ここは銀河鉄道の五号車。備え付けの公衆電話から目を逸らし、指定席へと顔を向けた。

 五号車の中はヒトが少なく、席は十分空いている。クロエは自分が予約していた窓際の席に腰かけ、空いている通路側の席をポンポンと叩いた。

 乗り込んだ直後、ルイテンは車掌に不足分の金額を払っておいた。クロエの隣はルイテンの席だ。

 クロエの隣に座ったルイテンは、窓の外を見て感嘆の声をあげた。


 夕焼けの空に敷かれた光のレール、そこを走る銀河鉄道。当然車体は雲の上にあり、窓の外には絶景が広がっていた。

 橙から紺へのグラデーション。空にまたたく星々。

 雲は海のように広がり、辺りを飛び跳ねる空イルカの群れ。背びれ胸びれを持つ彼らは、列車とともに雲の中を進む。

 星々の間を駆けるは、真っ白な体をしたペガサス達。彼らの嘶きは、車内にいるルイテン達にも聞こえてきた。


 クロエが窓を開けると、風に乗って甘い香り、そして空色の煙がわずかに流れ込んでくる。鼻孔をくすぐるその香りに、ルイテンは目を閉じた。


「風が強いね。星屑の結晶のニオイが入ってきてる」

 

 ルイテンは言う。

 銀河鉄道は、『星屑の結晶』と呼ばれる燃料を使用した乗り物だ。色鮮やかに煌めく鉱石、星屑の結晶。それを燃やし、その爆発力を利用して空を進む。その際に、ホイップクリームに似た甘ったるい香りが辺りに漂うのだが、それが車内へと入り込んでいるらしかった。

 甘ったるい香りは食欲を刺激する。連想するのは、強い甘みのアイスクリーム。


「なんか、アイス食べたくなってくるね」


「あー、いいね」


 クロエの呟きに、ルイテンは生返事をする。ルイテンはすっかり外の景色に夢中であったのだ。

 橙の陽光に照らされた雲からは、ケートスの群れがマズルを覗かせる。空イルカはケートスをからかうように、彼らの周りをくるくると回って、やがて追い越し去っていく。

 空は幻獣の棲み処。銀河鉄道に乗らなければ見ることができない光景である。あまりに美しい光景に、ルイテンはほうとため息をつく。


「あ、すみませーん。アイスくださーい」


 景色に気を取られ、クロエの行動に全く気付かないルイテン。目の前にあるものを置かれ、そこでようやく我に返った。


「……えっ?」


 机の上に、バニラアイスと木べらのスプーンが置かれている。ルイテンは慌ててクロエを見た。

 クロエの手の中にはチョコレートアイス。彼女はまるで子供のような笑顔でアイスのフタを開けた。

 霜に覆われたチョコレートアイスは、どうやらカチコチに凍っているらしい。クロエはスピーンでそれを軽くつついて笑う。


「うわ、かったーい。やっぱり噂通りだねぇ」


 ルイテンは、先の会話を思い出す。

 真面目に聞いていなかったが、クロエから「アイス食べたいね」と言われていた気がする。そして、ルイテンは上の空でありながら、同意の返事をした気がする。

 結果的に、クロエにアイスを強請っていたということに気付き、ルイテンは顔を真っ赤にした。


「あ、ごめん。そういうつもりじゃなくて」


「んん? 何が?」


 クロエはルイテンに目もくれない。スプーンをどうにかアイスに突き刺そうと躍起になっているのだ。

 ルイテンは恥ずかしいやら申し訳ないやらで、慌ててクロエに問いかけた。


「アイス、いくらだった? 此方こなたの分」


「んー、あげるー」


「え? でも……」


「用心棒してくれてるんだから、そのお礼。あ、謝礼もちゃんと払うからね?」


 クロエは思いきりスプーンを振りかぶり、アイスに深々と突き立てる。彼女の顔にぱぁっと笑顔が浮かぶが、スプーンを持ちあげると笑顔は萎んだ。


「抜けない……」


 スプーンがアイスに突き刺さったまま抜けなくなったのだ。


「ルイテン君、これ抜いてー」


「あー、溶けるまで待ったら?」


「ぶー」


 クロエは頬を膨らませる。よほどアイスを食べたかったらしい。

 ルイテンはアイスと格闘するクロエに、「ありがとう」とアイスのお礼を言った。クロエは「うーん」と生返事をしていたが。

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