52Hzの星の歌⑥

 この日の授業内容は、ルイテンの頭の中に入り込んでくれなかった。苦手な歴史の授業は、聞いたそばから知識が泡のように消えて、毎回頭に残らない。

 それだけではなく、ルイテンはすっかり上の空であった。窓の外にある街並みをぼんやり眺めては、昨日シェダルから教えられた内容を、頭の中で反芻していたのだ。

 『喜びの教え』の教義が真実なのであれば、この世界の歴史は一体何なのだろうかと、疑問が頭の中をひしめき合っていた。


「五年前、前法王であるスコーピウス・アンタレスが亡くなり、新しい法王がその座についた。新法王の名前はわかりますか?」


 ルイテンはふと視線を黒板に向ける。教壇には若い女性の教師が立ち、教科書を片手に持って生徒達を見回している。

 ルイテンは、運悪く教師と目が合ってしまった。教師はにこりと微笑んで、ルイテンを名指しする。


「では、ルイテン・オルバースさん、答えてくれますか?」


 ルイテンはしどろもどろ。何故なら、教科書を開いていないからだ。教師はそれに気付くと僅かに眉を寄せるが、指摘することはない。

 ルイテンは頭の中の引き出しを次々こじ開け、答えを探す。


「えっと、水瓶の大賢人、ネクタル・サダルメリク、ですね」


「正解」


 比較的簡単な質問で良かったと、ルイテンは安堵する。教師が目を離したタイミングを見計らい、教科書を開いて該当のページを探す。

 教科書の丁度真ん中のページ。そこには大賢人達の紹介とともに、現法王である女性の写真が載っていた。ニンフである法王の顔は十代の少女のように見え、紫の巻き髪が見た目の幼さを強調していた。だが、この見た目で五十歳を超えるというのだから、見た目はあてにならないと思い知らされる。

 教師は淡々と授業を進める。


「五年前の動乱の中、前法王である蠍の遺体は行方不明。牡牛、獅子の大賢人達は亡くなり、血縁者に継承。山羊魚の大賢人は体を壊し、一時的に席を空けている状態。

 さて、乙女の大賢人はどうなったかしら。アレックス」


 教師の説明に合わせて、ルイテンは教科書を目でなぞる。その間にクラスメイトの一人が名指しされ、教師の問いに対し答え始めた。


「乙女の大賢人は亡くなりました。それで、血縁者がいなくて継承できなかったんですよね」


 教師は、その答えに満足して二度頷く。

 

「そう。乙女の賢者の一族は、先の動乱で亡くなった一人だけだった。だから、乙女の輝術きじゅつを継げるヒトはいなかったし、血脈も途絶えてしまいました。そのため、現在では、13の大賢人は12組のみで構成されています。ここ、テストに出しますよ」


 丁度その時、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。生徒達は授業という拘束時間から解放され、皆思い思いに姿勢を崩す。

 教師としては面白くない状況で、彼女はむっとしかめっ面をした。だが、それを指摘することはない。


「全く……授業を終わります!」


 女性教師の呆れた声が授業を終わらせる。その声に弾かれたかのように、数人の男子生徒が立ち上がり、教室を走って飛び出した。

 この日最後の授業が終わった。彼らは帰りたくて仕方なかったのだろう。

 女性教師も教室を後にし、男子生徒達は談笑しながら教室を後にする。女子生徒達は教室に残ってお喋りするヒトらが多かった。

 ルイテンは黙々と帰り支度をし、のんびりと教室を後にした。


 廊下を抜けてエントランスへ向かう。生徒たちが我先にと校庭へ飛び出していくため、エントランスはごった返していた。

 ルイテンはその人波に巻き込まれないよう、ヒトだかりから離れた後方でそれを眺めていた。ヒトごみが落ち着いてから、校庭へと足を進める。

 色とりどりのパンジーが咲き誇る花壇を横目に、ルイテンは校庭を横切って校門へ向かう。校門は、ルイテンとドラスの待ち合わせ場所である。いつもなら、ドラスが先に校門に来てルイテンを待っているはず。

 今日はいない。ルイテンはがっかりしたが、「こういう日もあるか」と呟いて、しばらくそこでドラスを待っていた。


 生徒達とすれ違う。皆お喋りに花を咲かせており、存在感が薄いルイテンのことなど気にも留めない、というよりは気付かないようであった。ルイテンは鞄の中から文庫本を取り出して、校門に寄りかかるとそれを読み始めた。


 十分経って、二十分経った。

 ルイテンは顔を上げる。手の中にある小説は、ページが捲られた形跡はない。ひたすらに待つのも退屈であった。ふと馬車道に顔を向ける。


「ん?」


 ルイテンの視界に、それが入り込んできた。

 石畳で舗装された馬車道。この時間は人通りが少なく、街中を広く見渡せた。

 馬車道を挟んだ反対側の歩道。そこを走る少女の姿。彼女は光悦茶アンバー色の巻き髪をはためかせながら走っている。

 ルイテンは彼女をじっと見つめた。女性はルイテンの視線に気づかない。それよりも気になって仕方ないものがあるかのようだ。

 彼女は時折後ろを振り返っては、しかし立ち止まることはない。

 そのさまは、何かから逃げているようであった。


 ルイテンは、振り返った少女の視線の先を見る。

 パーカーのポケットに手を突っ込み、フードを目深にかぶった男が、少女の後ろを歩いていた。見るからに怪しい。


「いやー、すまねぇっす。先生に頼まれごとされちまって」


 ルイテンの後ろから、ドラスの声が聞こえてきた。ルイテンの意識が、一瞬ドラスへと向く。


「あぁ、お疲れ」


「疲れたっすよー」


 ドラスの言葉を聞かないうちに、ルイテンは再び少女へと視線を戻す。

 少女の姿はなくなっていた。


「あれ?」


 ルイテンは視線を走らせ少女を探す。

 見つけられたのはフードの男のみ。彼は、路地裏の暗がりへと入ろうとしている。


 少女はかなりまずい状況なのではないか。ルイテンはそう判断した。


「ドラス、ごめん」


「んぁ? どうしたんすか?」


 ルイテンは口を大きく開く。

 次の瞬間、ドラスの視界から


「あ? ルイ?」


 ドラスは辺りを見回す。

 目の前に残っていたのは、細かな光の粒だけだった。

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