52Hzの星の歌②

 海沿いの道を進んだ先。そこにルイテンが住む家がある。

 この住宅地一体は皆そうであるが、ルイテンの家も他と同様に、海にせり出すかのように建てられている。真っ白な外壁は日に染められて、赤く色づいていた。

 扉を開ける。重い足を引きずりながら、玄関に入る。

 ルイテンが帰宅するや否や、家の奥から男性が姿を現した。

 黒い髪を角刈りにしたその男性は、銀色の瞳で鋭くルイテンを射抜く。ルイテンは反射的に背筋を伸ばし、彼を見つめ返した。


「ただ今帰りました」


 ルイテンは歯切れよく言う。男性は「うむ」と頷いて、ルイテンに笑顔を向けた。


「ルイ、お帰り。荷物を置いて着替えて来なさい」


 男性はルイテンにそう言い残し、踵を返して家の中へと戻っていく。

 ルイテンは暫く背筋を伸ばしたまま突っ立っていたが、男性の姿が見えなくなると、深く息を吐き出した。


 黒髪の男性・ディフダは、ルイテンの保護者である。だがルイテンは彼に苦手意識を持っていた。

 母が「男らしくあれ」と願い、始めさせた格闘技。その師匠がディフダである。五年前より共に暮らし、現在まで世話になっている。だが、母同様、ルイテンに男らしさを求めるディフダのことを、ルイテンは好きになれないでいる。


 ルイテンは階段を上がり二階へと向かう。自室へと入ったルイテンは、床にボストンバッグを置く。ハンガーにかけられたTシャツとハーフパンツを見て、唇をきゅっと噛んだ。

 ディフダの「着替えて来い」という言葉は、格闘技の稽古をつけてやるという意味だ。ルイテンは服を手に取ると、制服からそれへと着替え始めた。


 脱いだ制服は、ハンガーに掛けてクローゼットにしまう。身にまとったTシャツを見下ろし、シワや汚れがないことを確認する。

 ルイテンの部屋は塵一つないほどに片付けられていた。この家では、掃除はルイテンの仕事であり、ディフダからも綺麗に片付けるようにと躾られている。

 「部屋の汚れは心の乱れ」というのが、ディフダの教えであった。

 ルイテンは一度部屋を見回して、荷物の散らかりがないか確認する。そうしないと自室から出られない程に癖づいてしまっていた。


 やがてルイテンは、自宅の中庭へと向かって行った。そこでは、師匠のディフダが小さな子供達に格闘技を教えているのだ。

 子供たちの無邪気な声は家の中に響く。その微笑ましさに、ルイテンの頬も自然とほころぶ。

 中庭に顔を出すと、子供達は丁度練習を終えたばかりだった。春先だというのに半袖で汗だくの彼らは、ディフダに手を振り帰宅し始めた。

 小走りする子供達に、ルイテンはひらひらと片手を振る。子供達はルイテンに気付くと、明るい声で「さようなら!」と挨拶をして去って行く。


 ルイテンは中庭へと視線を戻す。

 中庭には雑草一本すら生えておらず、赤茶の土が露出している。ところどころ染みが飛び散っているのは、先ほどの子供たちが汗をかいていたからだろうか。

 その中央に、ディフダは立っていた。笑みはない、真剣な顔つき。ルイテンは気圧される。


「ルイ、遅いぞ」


「すみません、師匠せんせい


 ルイテンは頭を下げた。急いで支度をしたつもりだったが、時間を掛けすぎていたらしい。


「始めるか」


 ディフダに誘われる。ルイテンは中庭へと出た。

 地面を素足で歩くのは慣れている。足の皮は、五年間で分厚くなったように感じていた。


 ルイテンは脚を肩幅に開き、腰を落とした。両手で拳を作り、利き手利き足を後ろに下げる構え。

 正面に立つディフダも同じ構えをする。

 二人は五年間もの間、格闘技の稽古をしている。二人の稽古は子供達に教える程度のものではなく、実践を想定した組手である。


「来い」


 ディフダが静かに声を放つ。それに合わせて、ルイテンは動いた。

 利き足である右足を前に踏み出し、右の拳を突き出してジャブをする。ディフダはそれを片腕で受け止めて防御。

 ルイテンはすぐに腕を引き、続けて左の拳を下から上へと突き上げる。ディフダの顎を狙ったアッパーは、ディフダが身を反らすことで易々とかわされる。

 ルイテンは焦らない。更に足を踏み込んで、右、左、ジャブを続ける。そのどれも、ディフダに受け止められる。

 ルイテンが五発目のジャブを繰り出したところで、ディフダが攻撃を仕掛けた。ルイテンの伸び切った右腕を、ディフダは左腕で絡め取る。象の鼻を思わせるような柔軟な動きに、ルイテンは虚をつかれた。

 ディフダがルイテンの腕を脇に抱え込み、体を捻る。その勢いのまま、ルイテンの顔を目掛けて肘打ちを繰り出した。ルイテンは思わず、両目をきつく閉じた。


 打たれはしなかった。ルイテンは恐々目を開ける。頬を掠めるほど近くにある師匠の肘を横目で見て、再び目を閉じ息を吐き出す。

 ディフダはいかった。


「私がお前を殴らぬと?」


 ルイテンの瞳が開かれる。

 いつもそうだった。師の拳を避けられないと判断すると、ルイテンは目を閉じてしまうのだ。それは、ディフダが自身を本気で殴るわけがないという甘い判断によるものだ。

 実際、ディフダは今までにルイテンを殴り飛ばすようなことはしなかったし、したとしても手加減していた。そのためルイテンは、大きな怪我はしたことがない。

 ルイテンの腕が解かれる。拘束されていた右腕は少しだけ痛み、ルイテンは左手で痛む箇所をさすった。


「実戦は、稽古のようにはいかぬぞ」


 ディフダの声は冷たい。ルイテンは背筋に冷たいものを感じながら、目を伏せ謝罪をこぼす。


「すみません」


 だが、実際に誰かと殴り合うなど、それを仕事にしない限りはあり得ないことだ。ルイテンは頭の片隅でそうぼやく。

 心の内を読んだのか、ディフダはルイテンの頬を平手で打った。乾いた音が響く。


「今考えたことを言いなさい」


 ルイテンはきゅっと唇を噛む。

 頭の中では恨み言がぐるぐると巡っていた。


 自分の意志で始めた格闘技ではない。

 稽古だって、やりたくてしているわけではない。

 そもそも、母が強制しなければ、やらなくてよかったことだ。

 自分は男らしさなどいらないのに。


 ……と。


 ディフダは深くため息をつく。ルイテンの悪癖は、彼もよく理解していた。

 自分が不利になった途端、黙りこくってしまうのは、ルイテンの悪い癖だ。


「まあいい。今日はもう仕舞いにしよう」


 ディフダは言って、裏庭から屋敷の中へと移動する。


「ルイ」


 なかなか後ろをついてこない愛弟子に、ディフダは再度声をかける。


「今日は、お前が好きなクラムチャウダーだぞ」


 その言葉につられ、ルイテンはディフダの後について行く。

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