盲目の魔女くん

前編

 この病院には男の魔女がいる。

 病棟生活が十年以上の年月を超えてもなお、彼の容姿に変化はほぼないに等しい。ゆえに御堂みどう桐弥きりやは盲目の魔女、そのような噂が当時子供だったオレの耳にも入っていた。


「ねぇ、センセーって魔女なの?」


 我ながら率直だとは思う。しかし、その問い掛けに深い意味なんてない。


 オレが八歳の頃、三つ上の姉貴が軽傷ながら事故に遭い、そこそこ広い病室の隣人が先生――桐弥さんだった。


 桐弥さんは視覚障がいを患わっていて目は見えないが博識で愛称がてらセンセーと呼称していた。それは本人も大層気に入ってくれたようで、たった三ヶ月と短い出逢いながらもやり取りに関しては鮮明に覚えている。


 それはどうしてか、答えは非常に簡単。

 オレは彼のことを尊敬とは別にまた違った感情を抱いていたから。


「ふふ。さて、どうでしょう?」


 桐弥さんはふわりと微笑む。成人済みと風の噂で聞いたが、その童顔と悪戯な笑みに何処か心奪われるものがあった。


「ちょっと、たつみ。お姉さまのお見舞いに来といて毎回そちらの邪魔ばかりして…… 。少しはアタシの心配もしなさいよ!」

「えー、だって元気じゃん。それに邪魔はしてない。センセーが一人で寂しいと思うから話してるだけ。男同士の話なんだからネェちゃんには関係ないでしょ」


「むっ。何よ、アタシも混ぜなさいよ。生意気な弟のブンザイでアタシだけ仲間外れなんて許さないから!」


 頬を膨らませる姉に追撃の言葉を送りたいが、この先の展開を察した桐弥さんが仲裁に割って入る。


「ま、まあまあ。お二人とも落ち着いてください。姉弟きょうだい仲良く、ですよ?」


「っ。は、はーい…… 」


 姉貴とオレは互いに顔を見合わせては同時に似た返事をする。桐弥さんの圧に押し負けたと言わんばかりに。



  御堂家の長男坊。

 彼の肩書は至ってシンプルであり、金持ちの家系としてみな彼に媚を売っていたのを知っている。誰に対しても敬語で接する穏和な性格の裏には障がい者、というだけで家族から懸念を受けていようとも。


「そういえば、かおりちゃん。退院日が決定したと聞きましたよ。少々早いですが、おめでとうございます」

「ありがとうございます! やっと学校に行けるので安心してますよー」


「あはは。勉強、みんなより遅れちゃうって言ってましたからね。入院中なのに頑張っていましたし」


「御堂さんに宿題とか教えて頂いたので……それはもう本当に助かりましたよ。むしろ、

学校の先生よりわかりやすかったくらい!」


「いえいえ、それは大袈裟ですよ。でも俺なんかが役に立ったのなら……」


 オレの知らない情景が、おそらく普段の日常的なやり取りがベッドに座る者同士で繰り広げられる。


 姉貴、古賀こがかおりはよく人前で大人な自分を出す。背伸びをしたい年頃と言うべきか、はたまた同学年とかよりも優位に立ちたいのか……どちらにせよ、花咲く未知の会話に今度はこちらが頬を膨らませる番でふと話の腰を折りたくなった。


「センセー! ネェちゃんが居なくなってもオレ、ここに来てもいいよね?」


 勢いよく手をあげての発言。

 これには談笑を楽しんでいた姉貴も無言で睨みを利かせて来たが構わない。


 先生と、桐弥さんにこれからも逢えるなら。優しい彼なら絶対に肯定してくれる、そう思っていたのに。


「駄目です」



「……えっ……?」


 一瞬の間、その短くもはっきりとした回答に理解するまで時間を要した。


「ダメ……って、なんで。どうして」

「賢い君なら理由はわかっていそうですが……病院は健康体の方が本来居るべき場所ではないのです。巽君は何処も悪くはないでしょう?」


「で、でも……っ! オレ、センセーとまだいっぱい話したいし、一緒にやりたいこともたくさんあって」


 必死に希望を語る。『今』を繋ぎ止めるものを失うのが怖くて。横に首を振られても当時

のオレは少ない語彙に頼って訴えることしかなかった。……現実はそう、上手くは行ってはくれないのに。


「お気持ちはとても嬉しいです。ですが俺と顔合わせするのは、かおりちゃんの退院日が最後ですよ」

「そうよ、巽。我儘言わないの。そもそもお母さんたちと一緒に病院に来てるのにどうやって一人で来るつもりなの?」


「そ、それは……。頑張って、チャリとか歩いて」

「バカね、家からここまで遠いのに無理に決まってるでしょ。今日だって、車で来たって言ってたじゃない」


「そうだけど……。ネェちゃんには関係ないだろ。オレはセンセーに、っ……」


 視界が歪む。涙が出そうだった。


 当時のオレはとにかく桐弥さんに逢うことがすべてだった。優しくて、物知りで格好良い大好きな年上の彼に。


 なのに、本人からの力強い否定に世界が壊れていく音がした。


「ちょっと何泣いて……」

「泣いてない! うぅ、センセーのこと好きなのにどうして離れないといけないの。もう、

一生逢えないの?」


 目先が濡れて何も見えないが、二人が困惑しているのがわかった。

 姉貴なんてわざとらしい大きな溜息を吐いては呆れているようで。



 数秒先の末、桐弥さんはオレのことをぎゅ

っと抱き寄せる。ぬくもり、その唐突な抱擁と共に穏やかな声音が上から降り注いだ。


「――なら、十年後。君がまだ俺のことを覚えて居たら、迎えに来てください」


「じゅう、ねんご……?」


 気の遠くなる話だった。

 逢えなくなる翌日にでも顔が見たいのに、それよりさらに先の未来とか。


「そうです。巽君が十八歳になるまでもし、俺の存在を記憶していたら……この盲目の牢獄から、出して、ください」


 消えてしまいそうな、かつ搾り取るような願いに子供ながら何かを察した。


「……わかっ、た。オレ、絶対にセンセーのこと忘れないで迎えに来るから! 絶対に、絶対にっ……!」


「巽……御堂さん……」


 姉貴の不安そうな呼び掛けは聞こえていないフリをした。


 希求、そう汲み取った幼いオレによるポジティブな思考か。それとも先生の表沙汰には出来ない心からの救助要請か――。


 どちらにせよ、その場凌ぎの優しくも残酷な嘘だったのかもしれない。たとえ彼がそうだと認めてもいい、オレは……。

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