冬薔薇
増田朋美
冬薔薇
すでに立春を過ぎているが、まだ寒い日だった。なかなか冬というものは、退散してくれないものだなあとおもう。真冬の厳しい寒さからは抜けたが、まだまだ寒いなあと感じる日々である。
そんな中、製鉄所では、今日もまた、水穂さんが咳き込んでしまうという事態に見舞われていた。今日はたまたま、今西由紀子が手伝いにやってきていて、水穂さんが咳込み始めたときに、なんとかしようとしてくれたから、良かったのだけど、処置がおそかったら、たいへんなことになっていたのかもしれない。
「水穂さん大丈夫ですか?気分悪いようなら、横になって休みましょう。」
由紀子は水穂さんを布団に寝かせてあげて、急いで薬を飲ませてやったのであるが、とうとう口元から、赤い液体が漏れてきたので、急いでそれをタオルで拭いてあげた。タオルは真っ赤に染まってしまった。由紀子は、それを文句も言わずに、丁寧に拭いてあげた。
今回は、ちょっと薬が効くまでに時間がかかってしまった。水穂さんは何度も咳き込んで内容物が口元から噴出するのだった。由紀子は、何も言わないで、内容物を拭き取る作業を続けた。
「やれれえ。またやったのね。最近季節の変わり目で疲れるのかねえ。まあ、無理をしないで寝ることだな。」
不意に、杉ちゃんがやってきた。それでも、水穂さんは咳こむのだった。
「そんな呑気な事言っている場合じゃないわ。もしかしたら、病院に行ったほうがいいのでは?」
由紀子は杉ちゃんに言うのであるが、杉ちゃんはからからと笑った。
「そんな物無理だよ。救急車で搬送してもらったって、どうせ病院たらい回しにされるのが落ちだ。救命救急にしても、医者なんて自分の偉くなることしか考えてないから、どうせ、見てもらえないで帰ってくるのが当たり前なことくらい、由紀子さんも知っているじゃないか。」
「そうだけど!人の命の話よ!」
由紀子は、急いで言った。
「まあそうだけど、そう思うんだったら、連れて行かないほうがいいな。たらい回しにされて、つらい思いをさせるなんて本人も周りも辛いだけだから。同和問題なんてそんなもんだよ。もし、水穂さんが、ちゃんとした医療を望むなら、外国へでも逃げるしか方法は無いんじゃないの?」
「でも!」
杉ちゃんに言われて、由紀子はすぐに言った。
「でもじゃない。銘仙の着物を着ていると、そうなっちまうんだ。だから、病院につれていくなんて、絶対ムリなことだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは咳こむのをやっとやめてくれた。由紀子は、水穂さんに苦しい?と声掛けしてあげて、血液で汚れてしまった口元を丁寧に拭いた。
「本当にごめんなさい。」
水穂さんは、小さい声でそういいかけたが、薬には眠気を催す成分があったらしい。由紀子がそんな事言わなくていいというと、静かに眠り始めてしまった。由紀子は、水穂さんに掛ふとんをかけてあげた。
「本当にごめんなさいなんて、言うもんじゃないわよね。なんで謝られなきゃいけないの?あたしたち、何も悪いことはしてないわよ。そうでしょ?」
「だから、その謝られるのが同和問題なんだ。」
杉ちゃんは、断定的に言った。
それと同時に、製鉄所の利用者たちがやってきた。製鉄所と言っても鉄を作るための工場ではなくて、居場所の無い人たちに、勉強や仕事をするための部屋を貸している福祉施設である。今風に言ったら、コワーキングスペースを、障害者向きにしたものと言えばいいと思われる。利用者たちは大概は、若い女性で、何かしら精神疾患などを持っている人が多い。利用できる時間は、朝の10時から、夜の17時までとなっているが、午前に来る利用者もいるし、午後だけ来る利用者もいる。今日やってきた利用者は、午後に利用する女性だった。
「杉ちゃん。ちょっと相談があるんだけど。」
利用者の一人が、杉ちゃんたちのいる四畳半にやってきた。
「あの田宮さんのことで。」
利用者たちは、空気を読まない人が多い。空気を読めと言ってもそれができない人が多いのである。田宮さんというと、由紀子は嫌な顔をするが、利用者は、話を続けてしまった。
「はあ、田宮さんがどうしたの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「実は、今日来るときから、また頭が痛いと言っているんです。」
利用者は心配そうに言った。
「そうなんだね。彼女、頭痛を訴えだして、何日になるんだろう。もう一月くらいずっとそう言ってない?まあただの片頭痛だったらいいけど、もしかしたら、グリオーマとか、そういうのかもしれないから、病院で見てもらったほうがいいかもよ。」
杉ちゃんはできるだけ気軽な気持ちでそう言っているのであるが、利用者は、そのとおりにしたほうがいいわねといった。他人の心配をしすぎるほどなのに、自分のことは後回しにしてしまうのが、製鉄所の利用者たちの特徴かもしれなかった。
「じゃあ、あたし、田宮さんと一緒に、病院へ行ってみるわ。確か、この近くに、脳神経外科の大きなところあったわよね。そこだったらいい加減な診断をしないでちゃんと見てくれるかもしれない。」
確かに、近くに、脳障害研究所附属病院という立派な病院があった。由紀子は、水穂さんも一緒に連れていけたらいいのになと思わずにはいられなかった。
「それでは、行ってきます!」
と、利用者はどんどん身支度をして、出ていってしまった。由紀子は、そうする彼女を睨みつけたが、それには、気がついていない様子だった。
「田宮さんと、水穂さんを一緒にしてはいけないぜ。」
杉ちゃんがそう言うが、由紀子は、そうすることはできなかった。水穂さんを一緒になんとかできないものか、それを考えてしまう。どうして、水穂さんだけ医療を受けられないのだろう。
「そうかも知れないけれど。」
由紀子は、小さい声で言った。由紀子がそう言うと、水穂さんがスヤスヤ眠っているのが聞こえてくる。本当はもっと、根本的に治療ができたらいいのになと由紀子は思うのであるが、水穂さんにはそれができない。しばらくシーンとした長い時間がたった。聞こえてくるのは、水穂さんが眠っている音だけであった。
突然、杉ちゃんのスマートフォンがなった。
「はいはいもしもし。ああ、無事に検査を受けられたのね。それでどうだった?ああ、ウィリス脳動脈輪閉塞症。何だそれ?で、明後日に手術をすれば治るのね。わかったよ。まあ、結論が出てよかったじゃないの。グリオーマとか、そういう怖いものじゃなくて本当に良かったね。それじゃあ、引き続き入院の手続きとか、そういうことを頼むよ。」
杉ちゃんは、スマートフォンを切った。
「精密検査ができて良かったね。ウィリス脳動脈輪閉塞症とか言う、よくわからない病気らしいよ。なんでも、頭の血管が細くなって、余分な血管ができてしまうらしい。それで、別の血管を人為的に植え付ける手術をするんだって。そんなに面倒くさくない手術みたいだし、まあ、方向性が決まればこれにて一件落着だろ。あとは、お医者さんたちに任せて、田宮さんの回復をまとう。」
「杉ちゃんって、いつでも明るいのね。どうしてそうなるの?脳手術って結構難しいことよ。」
由紀子は、杉ちゃんに反発したが、杉ちゃんのように明るく考えるしかできることは無いんだということも感じ取った。だけど、それができるのは、田宮さんが普通の人であるからで、水穂さんのような人にはできないことを知ってしまった以上、なにか悲しいことのような気がした。
「まあ、難しい手術なのかもしれないけど、でも、お医者さんは、ちゃんとやってくれるんじゃないの。脳障害研究所は、有名なところだし。」
「先程は、水穂さんを連れていけないといったくせに!」
由紀子は杉ちゃんに激昂した。
「医者なんて、自分のことしか考えないから、連れて行くなとも言ったくせに!なんでそんな事言うのよ!」
「そんな事言われたって、事実は事実だろ。それに対してどう対処するかを考えるしかできないんだよ。」
「でも、それに対して、相手への思いとか、そういうものはどうなるのよ!」
「どうにもならないよ!」
由紀子がそう言うと、杉ちゃんも負けじと答えた。二人のガチンコバトルがあまりに大きな声だったため、水穂さんが目を覚ましてしまった。
「本当にごめんなさい。本当は、僕みたいな存在が消えてくれればいいんですよね。」
結局はそういう結論になってしまう。本人が、どう動くかしか、対処法は無いのであった。
「消えるなんてそんな事!私の気持ちを考えてよ!」
由紀子は、水穂さんにそういうのであるが、水穂さんは、表情を変えなかった。小さい声でごめんなさいとだけしか言わないでいた。
「水穂さんは悪くないのよ。ごめんなさいなんて言うもんじゃないわ。今は、静かに眠っていれば、それでいいのよ。きっとまた、ピアノが弾けるようになるわ。そうなるまで私はいつまでも待ってるから。」
由紀子は水穂さんに優しく言った。それと同時に、先程の利用者が製鉄所に戻ってきた。どうだったと杉ちゃんが聞くと、
「大丈夫ですよ。彼女の異常血管は小さいし、それに、重症では無いようだから、簡単な手術で済むって言われました。発見が早くて良かったねと言われました。まだ初期だから、すぐに手術できるようです。」
と、彼女はそう報告した。
「ほう。そうか。良かった良かった。まあ、彼女もこれで、命を学べるぜ。生きていることが、イヤダイヤダって、よく漏らしていたからな。」
確かに杉ちゃんの言うとおりだった。田宮さんという人は、よく生きているのが嫌だと口に漏らしたり、ときに毒親の話もすることがあった。それについて病院の診察は受けていないが、そういう事ばかり口にするので、杉ちゃんを始めとして、由紀子も彼女を嫌っていた。水穂さんがよく、どうしたら彼女は、生きようと思ってくれるだろうがと悩んでしまうほど、彼女の自殺願望は強かった。そういうところを考えると、こういう重大な経験をすることは、考え方を変えるいいチャンスかもしれない。
「そうよねえ。あたしも彼女の話を聞いていて、憂鬱になったこともあるから、杉ちゃんの言う通り、神様が彼女に試練を与えてくれたのかもね。」
と利用者もにこやかに言っている。由紀子はそれを聞いて、なぜ彼女はそういうことができて、水穂さんにはそれができないのか、どうしてそんなに不平等なのか、また怒りが湧いてきた。杉ちゃんが、怒るな怒るなと言ってくれても、由紀子は、そう思ってしまうのであった。
「もう、しょうがないことなのかもしれないけど、あたしはそうは思えないわ。どうしたら、そう思えるのかしら。あたしは、どうしてもできない。みんな、なんでそんなに明るくて、のんびりしていられるの?」
由紀子は、すぐに言った。
「いやあ、僕達はただ当たり前のことを述べているだけで。」
杉ちゃんはでかい声でそう言うが、
「そんな事、なんですぐに納得してしまえるの?」
と由紀子は言ってしまうのだった。そして、もう涙が止まらなくなってしまったらしく、縁側を走って、製鉄所の玄関から外へ出てしまった。水穂さんが、
「あ、ちょっと、由紀子さん!」
という声が聞こえてきたけれど、それも聞こえなかった。
由紀子は、製鉄所の外へ出たのであるが、カバンも靴も何も持っていないことに気がついた。そのまま製鉄所に戻るわけにも行かない。どうしようと考えていると、小さな花屋が立っているのに気がついた。そういえば、ここに花屋があったなと由紀子は思った。由紀子は、何気なくその花屋に置かれている商品を見た。バラや、ゆりなどの切り花がたくさん売っている他に、盆栽などの植木も売っていた。由紀子が、店の中をぼんやり眺めていると、
「なにか、お花がご入用ですかな?」
と、一人のおじいさんが、由紀子に声をかけた。
「ああ、ごめんなさい。」
としか由紀子は言えなかったが、おじいさんは、彼女の顔を見て、何かあったときがついてくれたらしい。
「なにか大変なことがあったんですか?誰かに花をプレゼントしたいとか?」
由紀子は、花屋さんの様子を見た。確かに美しい花が沢山売っている。でもそれは、天然の花ではなくて、人間が管理したものであると、由紀子は知っている。だから、あまり美しいとは感じない。由紀子は、もしかしたら、人間の身分制度も、そうなっているのではないかと思った。身分制度が、あるからこそ、人間は美しくなるのではないか。逆に言えば、身分制度の中で、人間は美しくあるのかもしれない。でも、由紀子には、水穂さんに、一生懸命生きてほしいと思うのであった。それが、もしかしたら、水穂さんのことを好きであることの現れかもしれなかった。好きというのは、単に、相手に好意があるだけではなく、相手が美しく生きるために、相手を思い続けることなのではないか。
花屋さんに売られている花たちは、置かれた環境の中で、美しく咲いている。それを送ることで、水穂さんを励ますことができたら。由紀子は、そう思った。今、お金も何も無いけど思い切って、おじいさんにいってみた。
「あの、バラの花束を作ってもらえませんか?お金は後で払いますから。急ですけど、作ってください。私の心から思っている人に、気持ちを伝えたくて、それで花を送りたいんです。」
まあ、後で払うと言ってしまえば無理かもしれないけれど、由紀子は言ってみた。
「はい。わかりました。色はどうしましょうかね?」
おじいさんは、由紀子に言った。
「赤がいいです。以前読んだ本で、赤は忠実な愛の色だと聞いたことがあります。」
由紀子はそう答えると、
「わかりました。少しお待ち下さい。」
おじいさんは、由紀子に言われたとおり、赤いバラの花を取り出して、花束を作ってくれた。
「後で請求書を送りますから、お名前とご住所を承ります。」
由紀子は、自分の名前と住所を言った。
「わかりました。今西由紀子さんね。今日は寒いから、花ができたら、すぐに持って帰ってね。花は、寒さに弱いから。特にバラの花はね。」
おじいさんは、由紀子に、花を渡した。由紀子は、ありがとうございましたと言って花束を受け取った。
「本当にありがとうございました。心から、感謝いたします。無理なお願い聞いてくださってありがとうございました。」
由紀子は、頭を下げた。
「いやあいいんだよ。それだけ真剣に、相手の男性のことを思える人は、久しぶりに見たよ。昭和の頭くらいのときは、まだいたんだけど、そういう人。だけど、今は、いなくなってしまったからな。」
おじいさんは由紀子を感心した様子で見ている。
「誰か一緒になりたい人でもいるのかな?」
「いえ、思う人はいるんですけど、私の気持ちが届くことは、あるのでしょうか?私の気持ちなんて、本当に伝わるのかな。」
由紀子は、おじいさんの話にすぐに言ったが、おじいさんは、由紀子をにこやかな顔で見ていた。
「花を大切にしてくださいね。」
「はい。」
由紀子は、そう言って、花屋をあとにした。花屋の名前は、ロゼガーデンと書いてある。こんな素敵な店がもう少し増えてくれたら、いいのになと思いながら、裸足で、道路を歩いた。足の裏の痛みなどは特に感じなかった。なんでかわからないけれど、疲れも感じなかった。
由紀子はあるいて、製鉄所に戻ってきた。製鉄所の玄関の引き戸をガラッと開けると、杉ちゃんがいて、
「おかえり。」
とだけ言った。
「只今。今日は本当に変なことを言ってしまってごめんなさい。水穂さんにお花を買ってきた。枕元にバラがあったら、いいだろうなと思って。」
由紀子は、そう言ってバラの花を見せた。確かに寒い中歩いてきたので、バラの花束はもうしおれていた。
「そうか。いいもの買ってきたな。それじゃあ、水穂さんに見せてやろう。きっと喜ぶぜ。」
杉ちゃんは由紀子を製鉄所の中に入れた。
「花を置くには花瓶が必要だよな。台所に開いている油の瓶があるから、それでやるか。」
杉ちゃんは台所に行った。由紀子もあとをついていった。確かに、台所の流しの中に、オリーブ油と書いてある、大きな瓶が置かれていた。ちょうど、中身を切らしてしまったので、捨てるしか無いという。きれいなグリーンの瓶で、花瓶としても十分使えそうな瓶だった。
「じゃあ、これに花を入れてくれ。」
杉ちゃんから瓶を渡されて、由紀子は、瓶に水をはってバラの花をその中に入れた。それを持って四畳半に行くと、水穂さんはスヤスヤ眠っていた。まだ、薬の成分が残ってしまっているのだろう。
「水穂さん、お花買ってきたわ。枕元があまりに殺風景すぎるから、お花をおきますね。」
由紀子は、水穂さんの枕元に、その瓶を置いた。水穂さんは、気が付かないらしく、目を覚まさなかった。由紀子は、それでも、水穂さんのそばにいてやりたいと思った。一方で杉ちゃんたちの方は、例の田宮さんの入院手続きとかを話し合っていて、誰も水穂さんのところに来る人はいなかった。由紀子は、それも水穂さんが可哀想だと思って、余計にそばにいてあげたくなった。
「あたしが、そばにいるから。」
思わず、そう言ってしまう。
「どんなに人が見捨てたって、あたしは、水穂さんのそばにいるから。」
由紀子は、決断したように言った。水穂さんが同和地区と呼ばれるところの出身者だったとしても、由紀子は、その気持に偽りはなかった。たとえ、病院で見てもらうことができなくても、それでもいいじゃない。こうして、花をいける女性がいれば。水穂さんにその気持を伝えたいと思ったが、由紀子は、どう表現していいのかわからず、ただもどかしい気持ちで、水穂さんのそばにいてやるしかできないのだった。
外は、寒い北風が吹いていた。まだまだ冬は続き、立春を過ぎたと言っても、寒い日々が続くのだろう。春と呼ばれる季節が来ることはまだ先になりそうな感じの気候だった。これが正常だから嬉しいと表現する人もいるけれど、冬はやっぱり寒かった。
冬薔薇 増田朋美 @masubuchi4996
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