第18話

 意識が表層に浮かび上がる少し前、まだほとんど無意識だったはずなのに、脊髄反射の如くベッドから飛び起きた。思考を言語化することさえままならない頭を抱えて、真っ先にカーテンを開く。


「晴れてる――」


 力ない吐息とともに、自然と言葉が口から出た。ここ数日、心配で心配で堪らなかった問題は解決した。まだまだ安心することはできない。それはわかっていたが、それでも、どうしようもない理不尽にすべてを台無しにされることはなくなったのだと、胸をなでおろした。

 手早く着替える。着慣れたスラックスを履き、ワイシャツのボタンを閉める。ネクタイはここぞという場面で使ってきた赤色。いつも以上に結び目の形に気を使いながら、首が少し苦しいくらいにしっかりと締めた。いつもと違うのはここから。今日はジャケットの代わりに、その隣にかけてある法被を羽織った。

 鏡の前に立ち、身だしなみを確認する。きっちりとまとまった服の上から着た法被は、どこか間抜けに見えなくもなかったが、これはこれで悪くない、と自然と顔が綻んだ。十分な準備が出来ているのかはまだわからないが、少なくともこのお手製の法被には不安と緊張を和らげてくれる効果はあったらしい。女性陣の十分すぎる仕事に心の中で礼を言った。

「よし」と軽く自分に気合を入れて、一階に向かった。


 階段の半ばで、一階から気配を感じた。まだ準備をしに来るには早い時間だが、気配の主に心当たりはあった。


「あれ? 社長、おはようございます」


「ああ、白坂くんおはよう」


 階段を下りたところで、少しだけ驚きながらひょっこりと顔だけ出すようにして挨拶をすると、社長からも人の良さそうな笑顔で挨拶が返ってきた。

 そのまま、手早く隅のダンボールから法被を取り、社長に手渡す。


「これ、社長の分です」


 社長は法被を受け取ると、すぐにジャケットを脱ぎ、おもちゃをもらった子供のように、目を輝かせながら、それを羽織った。


「いいね。実にいい。気が引き締まるね」


「さすが似合いますね」


 ガタイのいい社長には法被が良く似合った。私と同じく、下はスラックスでワイシャツの上から羽織っているにも関わらず、私のような間抜けさは一切感じられなかった。法被の似合い具合で言えば、シゲさんと社長がツートップだろう。そして似合わないツートップは間違いなく私と岸だ。

 昨日、村の人間に囲まれ、岸と私で法被を着て並ばされたことを思い出した。笑うに笑えない組み合わせではあったと思うのだが、全員が大口を上げて笑った。


「準備は万端って感じだね」


「ええ。あとは人が来てくれるかどうかです」


「来ると思うけどねえ。私はたぶん当事者じゃなくても来ていたと思うよ」


 社長はわざわざプリントアウトしてきたらしい、春さんのSNSのページを指さしながら言った。何枚もあるところを見ると、もしかしたら、知人に配ってくれていたのかもしれない。

 社長の指さす先には、シゲさん作の見事な彫刻の写真や花火の写真とともに、代金全品無料! 直通バス準備! などの煽り文句が書かれている。私が村人たちに文句を言われながら考えた煽り文句だった。こうして落ち着いて見てみると、なんとも胡散臭い気がしてくる。これで本当に大丈夫だったのだろうか。

 やれることはやった。天気も良好。車谷が戻るまでまだ一週間はある。それなのに、不安は消えることなく、湿ったシーツのように体にまとわりついた。

 不安に飲まれないようにあえて冗談めかした口調で言った。


「本当ですか? 詐欺かもしれない、とか思われないですかね?」


 社長は私の言葉に、少し大げさに声を出して笑う。不安と誤魔化しを見透かされたようで、少し気恥ずかしい。


「確かに怪しくはあるけど、シゲさんの屋台が目を惹くことは間違いないし、駅に行って本当にバスが来たら、乗ってくれるさ」


「あ、バス。社長、ありがとうございました」


 礼を言っていなかったことに気づき、急ぎ頭を下げた。社長は「いやいや」と手を振った。

「たいしたことはしてないよ。私は何も手伝えなかったから、このくらいはね」


「いえ、社長がバスをチャーターしてくれなかったら、ここまで歩いてもらわないといけないところでした」


 この村へのアクセスは不定期のバスだけだ。それではいくら参加者がたくさんいても物理的に村に到着することができないし、もちろん帰ることもできない。そのため、バスは社長が準備してくれていた。台数もかなりとっているとのことで、出費は相当なものだったはずだ。深い感謝と、そのバスが無駄になってしまったらどうしよう、という新たな不安が沸いた。

 社長は私のそんな不安を感じたのか、身を乗り出すようにして、対面に座る私の肩に、優しく手を置いた。


「大丈夫。絶対大丈夫だよ」


 私は深く頷いた。安心したからではなく、少しでも安心するために。


「シロちゃん来たよー」


 事務所のドアが開き、法被を着た千花が元気よく入ってきた。何も知らない千花は、ただ祭りが楽しみで仕方がないようで、今にも飛び上がらんばかりにはしゃいでいる。それは千花の様子や表情から明らかだったし、集合時間よりも三時間も早く来たことからもわかった。

 もう腹を括るしかない。もし失敗することになっても、少なくとも、この人たちが楽しいと思える思い出にはしよう。はしゃぐ千花の声と、案の定忍び込んでいたシゲさんのイビキを聞いて強くそう思った。




 時刻は午後三時を越えようかというところ。花道を作るかのように、村の入口の左右に村人たちと並んでいた。

 以前、刈谷たちの来襲の際に道を広げておいて良かった。バスは社長が小型から中型くらいのもので用意してくれたらしい。なんとか通ることはできるだろう。それでもギリギリのギリギリで、運転手には大変申し訳ない。さらに言えば、バスは何台か来るはずで、すれ違うことは物理的にできないので、初めに着いたバスには次のバスが来ていないことを確認できるまで村の中で待ってもらわないといけない。重ね重ね申し訳ないと内心頭を下げた。もちろん、それも人が来てくれたらの話だ。

 もう結構な長時間、この状態で待っている。

 バスが遅れているというわけではなく、緊張や不安のせいか、家で時間を潰すということができなかったからだ。誰が言うでもなく、光に向かう虫のように、気づけば全員がこの場所に整列していた。

 村人たちは一様に顔をこわばらせている。だが、間違いなく一番こわばっているのは私だろう。千花だけはなぜここに立っているのかわからず、ずっと「どうしたの?」とか「なんかの儀式? 私踊ろうか?」などと騒がしいが、誰も満足に答える余裕がなく、千花は不満そうだった。その千花さえも私には話しかけてこないのを見ると、思っている以上に私はガチガチになってしまっているのだろう。


「来たぞ!」


 野太い声が響いた。

 誰の声かもわからぬまま、獣道もどきに目を凝らす。

 確かにバスがゆっくりとこちらに向かって来ていた。やはり道幅が少し足らないらしく、コツコツと木々が車体に当たる音が微かに聞こえる。

 全員がバスを見ようと列から身を乗り出した。前の人の頭を避けるように身を乗り出すものだから、自然と列は中心に向かって狭まるようにして歪んだ。

 バスがファンッという控えめなクラクションを鳴らした。斜めにはみ出した私たちが邪魔だったらしい。村の入口の辺りで止まるものだと持っていたので、慌てて村人に指示を出し、元の綺麗な列に戻した。

 目の前をバスが通り過ぎ、村の奥に入って行く。

 え、行っちゃうの? と一瞬頭の中に疑問符が浮かんだが、その疑問は数秒後には消え去った。二台、三台、四台と同じようにバスが村に入ってきた。これは、人が集まったのではないか? いや、まだ、安心するには早い、とそのまま五台、六台と通り過ぎるバスを注視する。好奇心や不安感、それに興奮を滲ませた顔がバスのすべての窓に張り付いていた。


――人は来てくれたのだ。集まってくれたのだ。


 私たちが起こした小さな奇跡に、それぞれが両隣の人とハイタッチを交わした。千花だけは流石に理解が追いつかないらしく、混乱した様子だったが、村人が喜んでいることが嬉しいのか、結局は一番派手なハイタッチを交わしていた。

 冷めやらぬ興奮を隠すこともせず、先頭のバスに駆け寄った。ほかのバスにもそれぞれ村人が走った。


「どうも! 運転お疲れ様です! 狭い道ですいません!」


 バスから一人降りてきた運転手に頭を下げた。顔を上げると、見たことのある顔であることに気づく。運転手は私がこの村に着任したときの、あの運転手だった。

 運転手の顔には以前の、面倒くさそうな、不満そうな気色はなく、ただただ純粋な驚きが浮かび上がっていた。表情の奥に未知のものへの微かな感動も垣間見えた。

 運転手は私を見て素っ頓狂な声を上げる。


「あれ? あなたはいつぞやの」


「え、よく覚えてましたね」


「そりゃ、あそこで人を下ろすことなんか滅多にありませんからね。具体的に言えば、私は一度だけです」


 なるほど。確かに、あのバスを利用する人間など私か社長くらいのものだろう。いや、そういえばあのハゲ階段も一度だけ使ったはずだったか。それだけ滅多に使われないバス停なら、利用した珍客の顔を覚えていても不思議はない。

 運転手は納得したような思案するような複雑な表情を浮かべた。


「なんのためのバスだろうと思ってたんですが、そうか、こんな所があったんですねえ」


「ええ、あったんです。ずっと」


「じゃあ、もっとちゃんとバス停を見とけば良かったなあ……」


 運転手は呟いた。声からは誰かに届けようという意思は感じられない。ただ自分に染み込ませるような声だった。

 運転手がバス停をしっかりと見ていたとしても、この運転手のときにあのバス停を使ったのは自分だけで間違いはなく、ほかの誰かを見つけることはなかっただろう。でも、きっとこの人が言っているのはそういうことではない。それがわかったから、私は何も言わず、バスに乗りこんだ。


「皆さん、よくお越しくださいました。今日は楽しんでいってください」


 若い、命を感じさせる返事が飛び交った。

 祭りが始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る