第16話

「まさか私にこの役回りが回ってくるとはね」


 岸は少し困ったように、口元を歪めた。

 もともとの予定では、今回もシゲさんに来てもらう予定だったのだが、前回あまりに頼りなかったシゲさんは、村人たちに――というか主に真美さんに役目を下ろされていた。話したがりのシゲさんはともかく、真美さんが再び車谷との交渉に出向くのは怪しく、真美さんに来てもらうこともできない。そこで岸に白羽の矢が立ったというわけだった。


「まあ、確かに私は医者よりも詐欺師が向いているような人間だし、妥当な人選か」


 自嘲しながら陰気な笑みを浮かべる岸に、慌ててフォローを入れる。


「いやいや、そういうことで選んだんじゃないと思いますよ。岸先生が頼りになるからですよ」


 岸は村人のために汚名を被った。そのこと自体は本人が望んでしたことのようだ。だが、岸は数え切れないほどの人を騙したという自己嫌悪に苛まれているようで、度々その所作からそんな雰囲気が感じられた。真面目すぎる性格が災いしているのだろう。


「いいんだよ、白坂くん。気を使わせて申し訳ない」


 どう返すべきか考えているうちに、聞き慣れたものとは少し違うプロペラ音が耳に届いた。軍用とは言えないまでも、いつもより一回りほどは大きく見えるヘリが、目の前に着陸した。

最後の関門で、最大の関門。その緊張に思わず生唾を飲んだ。

 ヘリから降りてきた車谷はひどく疲れきった様子で、目の下のクマが目立った。一体どうしたのかと岸と顔を見合わせる。岸は口の動きだけで「過労だね」と私に伝えた。


「大丈夫ですか?」


 私の問い掛けに、車谷は生気なく「ええ」とだけ呟いて、近づいてきた。そのまま手に持った紙の束を私に渡す。

 車谷に促されて、パラパラと冊子をめくった。それは非常にわかりやすくまとめられた、花火の打ち上げ装置の取扱説明書だった。作りの要所要所に気遣いが垣間見え、手作り感のある部分も多い。おそらく車谷が作ったものなのだろう。


「その説明書をよく読み込んでおいてください。装置はバラしてヘリに積んできていますが、組立はそこまで難しくないはずです。特注でセットさえすれば自動で打ち上げるように作りました。危険は少ないし、全員で打ち上げを見られるはずです。花火も今日持ってきていますので、渡しますが、くれぐれも取り扱いには注意してください」


 私は「わかりました」と精一杯何事もないかのように返事をしたが、心の中は罪悪感でいっぱいだった。まさかここまでしてくれるとは思っていなかった。これから行う、車谷への更なる酷な仕打ちを思うと、いますぐ頭を地面にこすりつけたい衝動に駆られた。


「それで、今日はどうして岸先生がご一緒しているんですか?」


 車谷は嫌な予感がする、とでも言いたげな、心底嫌そうな顔を向けた。私だけでなく、岸にもその表情を向けているところを見ると、本当に疲れているのだろう。

 罪悪感で言葉を発せない私の代わりに、岸が答えた。


「実は、春さんから白坂くんに注文があったらしいんだが、それがなかなか難しい品でね。私はそれについて多少の知識があったから、アドバイザーとして同行させてもらったんだよ」


 岸は淀みない調子で答える。

 車谷の表情が、その言葉を聞いてさらに心底嫌そうなものに変わった。それでも車谷は小さくため息をつくと、すぐに表情を引き締めて私を見る。


「それで、その品というのは?」


「ヌルチップグラスの種が欲しいらしくて」


「……なんですって?」


 引き締められたばかりの車谷の表情がいとも容易く崩れた。今度は嫌そうとかではなく、本当に何を言っているのかわからない、と心底困惑したような表情だった。そうなるのも当然だと思う。私も自分自身に何を言っているのかと問い掛けたい。当然この作戦の立案者はシゲさんだ。変な空気に当てられて、この案を通してしまった自分を呪った。うまくいくはずがない。それでもいまさら引くわけにもいかず、言葉を続けた。


「ヌルチップグラスです。春さんが言うには、とても綺麗な花で心を落ち着ける香りがあるみたいで、北極のごくごく一部にある花だそうです」


 私の無理のある説明に、車谷は怪訝な視線を向ける。苦しいことは重々わかっているからそんな目で見ないで欲しかった。

 それでも車谷は頭から否定するのはやめてくれたらしく、少し言葉を選ぶような様子を見せた。


「いくらなんでもそんな不確定な情報だけでは動けません。それに花の種は必要不可欠とは言えないでしょう」


 おっしゃる通りだ。返す言葉もない。押し黙る私に代わって、岸がスラスラと話し始める。


「オックスフォード大学の研究なのだが、花を育てている患者は病気の進行が遅いという論文がある。不確定だが確実に存在するゴールに向かうという行動が、患者の生きる気力を活性化させるらしい。それに幸福指数も高まる傾向にあると。まだまだ発展途上の研究だが、説得力はある、と私は見ているよ」


 車谷の表情が変わった。ほかならぬ岸が言ったことで、車谷の中での重要性が増したらしい。それに、村人の幸福などと言われては、車谷が揺れないはずもない。変わり始めた風向きを邪魔しないように、私は存在感を薄めた。

 だがそれでも、そんなあるかもわからない花を探しに北極までは行くのは流石の車谷も嫌なようで、何も悪いことなどしていないのにまるで言い訳をするかのように続ける。


「でも、ヌルチップグラスなんて聞いたこともありませんし、本当に存在するのですか?」


「わからない。だが、もし絶滅されたとされているニャルテックシーラスの現地名なのだとしたら可能性はある。古い書物に書かれているくらいで、インターネットにすらほとんど情報はないはずから、車谷くんが知らなくても無理はない。確か、かつては氷点下――つまりは雑菌が極端に少ない地方で分布していたはずだ。温暖化の影響で絶滅したというのが通説だが、北極ならあるいは」


 車谷は引っかかることがあったのか、訝しげに言った。


「春さんはどこでその花のことを知ったんですか?」


「ネットらしいです」


 岸の、台本から完全に逸脱した説明についていけず、ただ影であることに徹していた私だったが、車谷が奇しくも台本のセリフを言ったことで、ほとんど反射的に口を開いてしまった。言ってしまってから、ネットにはない、と岸が説明していたことに気づき、血の気が急速に引いていくのを感じた。だが、車谷は「ああ、春さんですものね」と納得をした様子だったので、内心胸をなで下ろす。

 車谷は顎に手をやり、何やら考え込んでいたが、言った。


「ですが、本気で探すとなると、村への物資の供給が滞ることになるかもしれません」


「その点は大丈夫です。先ほど確認しましたが、日用雑貨にも食料にもかなり余裕があります。おそらく一ヶ月くらいは物資なしでも生活に問題はないと思います。どうか春さんのために探してきてもらえませんか」


 車谷はまた無言になり、考え込んだ。

 短くはない沈黙が流れる。もうひと押しと、口を開こうとしたとき、車谷が言った。


「三週間です。三週間で見つからなければ、一旦戻ってきます。それでも構いませんか?」


 当然、私と岸に異論があるはずもなく、声を合わせて同意した。

 車谷は迅速に荷物を下ろすと、空へ――おそらくは北極の空へ旅立っていった。

 小さくなるヘリを眺めながら、一向に薄れてくれない罪悪感を見つめた。

岸はそれを察したのか、「シゲさんも言っていただろう。車谷くんもきっとわかってくれる。……いや、きっと、彼にとってもこの方がいいんだと思う」と私の肩に手を置いた。

 私は岸に礼を言ったが、岸の表情は、コマ送りの映像のように、みるみると影が落ちていった。もともと陰気な岸の顔が、一層陰気に満ちる。

 不安になり声をかけた。


「どうしたんですか?」


「……私はもしかしたら、本当に詐欺師の方が向いているんじゃないだろうか。……医者をやれてよかった」


 元気なく肩を落とす岸にかける言葉が見つからず、男二人でしばらく空を眺めた。

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