第14話

 何も知らない頃に完全に戻ることは難しかった。それでも、元に戻ったふりができる程度には私は大人だったし、村人たちもそのことを理解して接してくれるほどに大人だった。優しくて悲しい村に、もう一つ優しくて悲しいことが増えた。その程度の変化だったのだと思う。

 シゲさんはいつも通りちょっと抜けていて、その度に村の女性たちに怒られた。子供たちは子供らしく外で元気に遊ぶ日もあれば、最近の子供らしく室内でゲームをする日もあった。千花の笑顔には、あの日以来影が落ちることはなかったし、春さんはいつも決まった時間に畑仕事をして、いつも決まった時間に家に戻った。そんな中で、私だけが非日常を感じ続けることは単純に難しく、緩やかに日常に帰還していた。

 それでも、バトンを繋ぐかのように、代わる代わる体調を崩す村人を見るとき、それを治療する岸を見るとき、岸がつけている症状の記録が目に入ったとき、そしてその周期がだんだんと短くなっていることに気づいたとき、私は少しだけ日常からはじき出された。

 村人たちが一通り体調を崩した後も、シゲさんだけは崩さなかった。青ざめた表情で過ごすシゲさんを見たときに、我慢をしているのだとわかった。理由は考えるまでもなかった。だから私も這うようにしてまた日常に戻った。


「必要物資は以上ですか? 少ないような気がしますが、本当に間違いありませんか?」


 車谷は訝しげな視線を私に向けた。すべてを知った私が、どうせ長くはないからと、仕事を雑にすることを警戒しているのだろう。

 そのことを察しても、憤りは一切感じなかった。車谷が神経質になる理由はもうわかっている。疑うのも当然のことだ。


「体調を崩している人が多かったので。もう皆さん回復していますし、次回からは元の調子に戻ると思います」


 車谷に不安を残さないよう、事実を確実に述べ、今の状況も伝えた。

 車谷は少し驚いた様子を見せたが、すぐに元の鉄仮面に戻り、「そうですか」と私の書いたメモを内ポケットにしまった。

 私は、例の如くすぐに立ち去るはずの車谷を待った。

 しかし、車谷は動かず、思案するようにゆっくりと目を閉じた。表情こそ変わらず鉄仮面だったが、何か迷っているということは私でも感じられた。


「どうか最期までこの村を、妹をよろしくお願いします」


 車谷は頭を下げた。それは四十五度や九十度の、お手本のような一礼ではなく、小さく頭を下げるだけの、少しだけ不格好な血の通ったお辞儀だった。

 きっとこの人は私なんかに任せたくはないのだろう。頭なんか下げたくなかったに違いない。それでも車谷は私に向かって頭を下げた。その意味を思うと返事の言葉は出てこなかった。

 車谷は私の返事を待たず、「では」と短く言い残すと、ヘリに乗り込み去っていった。私はヘリに向かって小さく会釈をするのがやっとだった。

言いようのない心を抱えて、一段一段ほとんど落下するかのように階段を下りた。穏やかな海の水面のように、私の感情は名前がつかないぎりぎりのところをゆっくりと上下した。

 正しいことはもちろん、自分がどうしたいのかすらもわからなかった。自分がどうしたいか、なんてこと考える必要があるのかさえわからない。少し前ならば、必要はない、と断じていたであろうことを思えば、私は確かに変わったのだろう。それがいい変化なのか悪い変化なのかも、当たり前のようにわからなかった。


「やあ。お邪魔してるよ」


 一階に降りると、聞き覚えのある声が聞こえた。同時にそれは聞こえるはずの声でもあり、いるはずのない人間の姿が視界に入る。


「社長。ご無沙汰しております」


 耳に届いた自分自身の声に少しだけ驚く。私の声はいやに落ち着いていて、およそ予想外の来客を目にした人間のものではなかった。この程度の予想外は予想の範疇になってしまっているらしい。そんなことを、まるで人ごとかのように思った。

 社長は目を丸くしたが、すぐに何事もないように続けた。


「今日は色々と話すことがあって来たんだよ。悪いニュースとかではないから、安心していいよ」


 社長は目尻にシワを寄せながら、手でソファーに座るよう促した。私は大人しく腰掛け、社長の言葉を待つ。


「まず、刈谷くんと小杉くんの異動が決まったよ」


「そうですか」


「……驚かないんだね」


 社長の姿が見えたとき、なんとなく予想はしていた。これに関しては、混じりのない完全な予想の範疇だった。

 刈谷たちは捨て台詞の通りに、この村で受けた仕打ちを警察やら弁護士に言ったはずで、その後音沙汰がないということは、握りつぶされたということに間違いなかった。おそらくは車谷によって。そして当然、その話は社長にも伝わっただろう。

 政府の、いわば暗部に目をつけられ、それが自社の社長と通じているのだ。大企業である自社のトップと国を同時に相手にすれば、勝ち目がないことなど猿にでもわかる。むしろ、処分が異動で済んだことは類まれな幸運と言っていいことだろう。もちろん、こうなる前から社長が動いていた可能性もあるが、少なくとも、この村を相手にした瞬間に、刈谷たちの勝ち筋は無くなっていたということだ。

 こう言ってしまうと、まるで刈谷たちが被害者であるように思えてしまうが、あのハゲ階段たちはまごう事なき加害者であるので、これは痛快な話ではあるのだろう。


「なんとなくそんな気はしてましたから」


 少しだけ微笑みながら言うと、社長も同じく「そうかい」と微笑んだ。その表情のまま社長はさらに続ける。


「そして、これを直接言いたくて来た、みたいなところもあるんだけどね、君の企画書が通ったよ」


「え? 企画書ですか?」


 ここにきての全くの予想外の言葉に戸惑ったが、社長が差し出したパンフレットを見てすぐに思い出した。

 パンフレットの表紙には、大きな花火の写真に被せるようにして、毛筆で書かれたような勢いのある書体で「ガンガン葬祭~千発の花火を添えて~」と書かれていた。

 左遷前にやけくそで提出した企画だった。実現不可能だし意味もわからない、まさに悪ふざけの極地とも言えるような企画だ。うちの会社は大丈夫だろうか、と不安になったが、同時におかしくもあり、少しだけ笑ってしまう。社長はそんな私の様子を満足げに見ていた。


「ひとつくらいは、こういうぶっ飛んだプランがあってもいいんじゃないかって意見が出てね。あれよあれよ話が進んだんだ。まあ、本当にプランだけで実現することはないと思うけど、言うだけならタダだからね」


 悪戯っぽく笑う社長に、私もまた笑う。

 タダなことは確かだろう。パンフレットの下部にはデザイン課の文字はなく、只野と社長の名前だけがあった。手作りというわけだ。この字は社長の手書きなのかもしれないと思うと、さらにおかしかった。


「只野くんがね、君の代名詞のような企画にしたいって言い出してね。その方が戻って来やすいだろうって」


 お前、それはどうなんだ、とここにはいない只野にツッコミを入れる。こんな企画を作った奴の凱旋が望まれるとは到底思えない。しかも遥か彼方の左遷地からだ。まあ、存在を忘れ去られてしまうよりは、幾分かはマシなのかもしれない。それに実際の効果はともかく、気持ちが嬉しかった。


「只野くんから、君がここに来た経緯は聞いたよ。君が望むならいつでも本社に呼び戻そう」


 社長の言葉に、私はゆっくりと首を振った。


「いいえ。最期までここに居させてください」


「……やはり聞いてしまったんだね」


 社長の瞳に、悲しみとも哀れみともつかない色が浮かんだ。その瞳は真っ直ぐに私を見据えるというよりは、もっと大きな何かに向けられているようにも感じた。

その目を真っ直ぐに見据えて頷く。

 社長は神妙な面持ちで何度か頷くと、真剣な、しかし温かい声で言った。


「白坂くんはどうしたいんだい?」


「……わかりません」


 もう一度、自分の中で考えを巡らせ、答える。だが、その声に力はこもらず、答えに負けず劣らずの情けないものになった。わからない。それだけが考えに考えた成果だった。


「社長や車谷さんは正しいんだと思います。この村がみんなの妥協点だっていうのは確かなんだと思います。ほかの村人たちが納得しているのも本当だと思う。千花だってそれはわかってる。……でも辛そうなんです。何かを言いたそうなんです」


 私のたどたどしい要領を得ない話を、社長はゆっくりと頷きながら聞いてくれた。社長もこの村を作った人間の一人だ。悩みに悩んで、やっとのことで納得して、今に至ったのだろう。それを村に来たばかりの、何も知らない若造が好き勝手に文句を言っているのだ。いい気なんてするはずがない。でも、社長は微かに表情を緩めながら聞いてくれた。それなのに、自分なりの答えすらも示せないことが口惜しい。


「話は聞かせてもらったぜい!」


 事務所の扉が勢いよく開く。

 扉の向こうには、もはや驚きもしなかったが、シゲさんが立っていた。ただ、シゲさんの後ろに、申し訳なさそうな顔のほかの男性陣と、呆れ顔の真美さんたち女性陣が立っていたことには少し驚いた。ひとしきり視線を動かし、千花の姿がないことを確認してホッと胸をなでおろす。

 なかなかの大所帯だ。これだけの人数が、なぜか扉のすぐ向こう側で息を潜めていたということらしい。どこかで見たことのある組み合わせのような気がする。


「シゲさん、久しぶりだね」


 嬉しそうに声を弾ませる社長に、シゲさんも負けず劣らず声を弾ませながら、「おうよ」と答えた。後ろの男連中も、やや気まずそうに頭を下げた。


「ちょっと、シゲさん。まさか挨拶するためにあの空気をぶち壊した、とか言わないわよね?」


「シゲさんそういうところあるわよ。せっかくグッドタイミングの星の元に生まれてきてるのに、自分で台無しにする」


「何のために割り込んだのかちゃんと覚えてるわよね?」


 真美さん、麻子さん、涼子さんの総攻撃を受けながらも、今日のシゲさんは一味違うらしかった――事務所の敷居をまたぎながら、自分でそう言った。後ろから注がれる冷ややかな視線には気づいていないらしい。

 シゲさんはドシッと私の正面に腰を下ろすと、やけに大きな手荷物を脇に置き、グイっとこちらに顔を近づけた。


「話は聞かせてもらったぜい」


「さっき聞きましたよ」


 思わず吹き出す。間違いなく苦笑いの類だったが、笑いは笑いだった。真美さんの言う通り、シゲさんに空気を壊されてしまったようだ。さっきまでの空気も、最近の空気も、我慢できる程度に澱んでしまっていたはずなのに、今は少なくとも私の周りに淀みは感じない。


「何回でも言う。話は聞かせてもらった。――やろうぜ」


「何をですか?」


 社長と顔を見合わせ、首をかしげる。付き合いの長い社長ならシゲさんが何を言っているのかわかるのではと思ったが、この顔を見るに同じくピンときていないようだ。


「だ、か、ら! 千花ちゃんがみんなに言いてえことがあるんだろ? 言わせてやろうぜ! できるだけ人集めてよ! 盛大に!」


「……でも、千花はみんな納得してるのに、自分だけわがままを言うことはできないって。シゲさんもこれが妥協点だって、納得してるって言ってたじゃないですか」


 千花のために何かをするということは、ほかの村人の気持ちを、この村を作った人たちの気持ちを、何よりも千花の気持ちを踏みにじることになってしまうような気がした。そう思うと、シゲさんの威勢のいい言葉にも素直に首を縦に振ることができなかった。


「俺たちが納得したのはな、全員が納得したからよ。俺たち自身も、家族も、みんなが納得したからここで過ごすことに決めたんだ。一人でも納得してねえならほかの手段を考えなきゃならねえ。そうだろ、みんな?」


 シゲさんの呼びかけに、いくつもの返答が飛ぶ。その声は熱量も大小も様々だったが、すべてがシゲさんの言葉を肯定している、という点で統一されていた。


「でも、千花は自分のわがままに皆を巻き込んだって思うんじゃ――」


「逆よ。私らのわがままに、千花ちゃんを巻き込むの」


 真美さんが気持ちのいい笑顔を浮かべながら言った。そのまま言葉を続ける。


「私らもね、千花ちゃんが完全に納得したわけじゃないってことはわかってたの、迷ってたの。でも踏ん切りがつかなかったんだ。そんで、今ついたの。じゃあさ、やろうよ」


「そのとおり! グチグチ悩んで俺らしくねえったらねえ。なあ、シロちゃん、やろうぜ。まだ終わってなかったんだ――そう思ってみようぜ」


 シゲさんが豪快に、しかし瞳を少しだけ潤ませながら身を乗り出した。心が決まりかけたが、いや、と頭を振る。


「この村を作るために、維持するために尽力してきた人たちもいるんです。その人たちを裏切るのも――」


「わかった! ちょっと待ってな」


 シゲさんは私の言葉を聞き終わる前に、勢いよく事務所から飛び出していった。残された私たちは社長も含めて、全員でぽかんとした表情で取り残された。

 しばらくの沈黙の後、口を開いた。


「皆さんは本当にいいんですか? どう転ぶかなんてわからないんですよ? きっと悪い方に転ぶ可能性の方が高い」


 村人たちは私の言葉に顔を見合わせる。真美さんはフッと笑うと、全員を代表するように口を開いた。


「いいのよ。私らは死ぬんだよ? これ以上どう悪い方に転ぶっていうの。家族には確かに迷惑がかかるかもしれないけど、そんな表立ってどうこうって時代でもないでしょ。それよりも、今確実に苦しんでる千花ちゃんの方が大切」


 真美さんの目は凛としていて、同時に温かいものだった。

 村人たちも口々に同意の声を上げる。声がひとつ届く度に、心が少しずつ固まっていくような気がした。


「だからね――」


 真美さんが言葉を続けようとした矢先に、シゲさんが事務所を出たとき以上の勢いで、事務所に駆け込んできた。入ってくるときに、シゲさんの抱えているものが真美さんの肩に当たり、真美さんは小さくよろける。


「私は今いいことを言おうとしてたんだけどね」


 真美さんは不機嫌な顔をシゲさんに向けたが、すぐにその顔は驚きに染まり、小さく悲鳴を上げた。

 それも当然のことで、シゲさんが肩に抱えていたものは――つまり真美さんにぶつかったものは、岸だった。シゲさんを睨むつもりで顔を向けたら、視界いっぱいに岸の生気のない顔があったら、いくら真美さんといえど、声を上げてしまうのは無理もない。当の岸もわずかに耳を赤らめ恥ずかしそうにしていた。

 蛇口から水の滴る音が、いやに響いた。ピチョン、ピチョンと水滴が落ちるたびに、気まずさの濃度が上がっているように思えた。


「や、やあ、岸先生。お久しぶりです」


 凍りついた空気に耐えかねてか社長が口を開いた。


「こちらこそ、ご無沙汰してます。……シゲさん、下ろしてもらっていいかな?」


 バツが悪そうに頼む岸に、シゲさんは、「悪い悪い」とまるで悪びれる様子もなく岸をソファーの横に下ろした。岸は大人しくソファーに腰掛ける。


「で? なんの騒ぎかな?」


「先生! 俺たちやるぜ! 許してくれ! 千花ちゃんのためだ」


 岸の当然の疑問に、シゲさんからあまりにも不親切な説明が飛んだ。

 岸はきょとんとした顔で動きを止める。いくらなんでもこれでは岸がいたたまれない。補足のために口を開こうとすると、その前に岸が言葉を発した。


「本気かい?」


 岸からは、先程までのどこか愛嬌のある様子は消えていた。真剣な眼差しで、私とシゲさん、そして村人たちに視線を這わせた。シゲさんのあの説明で瞬時に理解をしたらしい。

 私は頷くこともできず、ただ岸を見つめていたが、シゲさんはしっかりと頷いた。

 その様子を見て、岸はほかの村人に視線を移す。全員が力強く頷いた。

 岸は小さく息を吐くと、私を真っ直ぐに見つめた。いくら私でも、もう覚悟は決まっていた。私もほかの人と同じく力強く頷いた。

 岸の瞳から鋭さが薄れ、そのまま社長に向き直った。


「社長さんは、それでいいんですか?」


「私は、意見できるような立場にいないよ。……ただ、友人たちが納得するための手助けはしたいと思っている」


 社長の言葉を聞き、岸はソファーに深く座り直した。背もたれに思いっきり体を預け、やや脱力したような様子で岸が言う。


「……じゃあ、私も協力しよう。大した助力はできないだろうが、少しでもいい方向に転がるようにね」


 岸の言葉に村人たちが沸く。岸は、仕方がないな、とでも言いたげに苦笑いを浮かべた。

 隣に座るシゲさんに勢いよく背中を叩かれる。驚き、シゲさんを見ると、シゲさんは満面の笑みを浮かべている。


「村を作った人たちの過半数の同意が得られたんだ。これなら何も問題ねえだろ?」


 思わず吹き出した。確かに、車谷、社長、岸、このうちふたりの同意は得られたわけだが、そういうことではないだろう。まあ、その同意を得る過程で、私の気持ちも固まったわけだし、シゲさん的には結果オーライ、といったところなのかもしれないが。

 社長も呆れ顔をシゲさんに向ける。


「この村のために一番尽力したのは車谷くんだから、過半数と言っていいのかはわからないよ」


「いや、民主主義国家に生きている以上、数は数だぜ。こればっかりは仕方がねえ。……それにきっと、最後にはわかってくれると思うんだよ」


 シゲさんはどこか遠くを見るような表情を浮かべた。似合わない表情だ、と茶化すことはできなかった。

 そうであって欲しいと思った。この中に、この村に、車谷に感謝をしていない人は一人もいないから。もちろん、私も含めて。


「それで、これからどうするつもりなんだい?」


「そりゃ先生、たくさんの人の前で、千花ちゃんに言いたいことを言ってもらうのよ」


「だからそのためにどうするんだい?」


 岸が呆れたように笑った。


「それはこれから考える!」


 ガクッと体から力が抜ける。確かにシゲさんの言う通りで、まだ何も決まっていないのだからこれから考えなくてはいけない。だけれども、そんなに自信満々に言うことでもないだろう。


「だからまずは飲もう!」


 シゲさんは、ソファーの横に下ろしていた大きな荷物を広げた。そこには大量の酒があった。見れば、ほかの人たちもそれぞれ荷物を抱えている。おそらく、全部酒やつまみの類なのだろう。初めにドアの外にシゲさんたちを見たときはなんの組み合わせなのかと思ったが、なんのことはない、いつもの飲み会のメンバーだった。おおかた、シゲさんが社長を見つけて宴会のメンバーを集めた、というところだろうか。珍しく千花がいないが、最近、千花は小山の上にいる時間が増えた。見つけられなかったから、騒ぎを聞きつけて千花が来るのを待つことにした。シゲさんが考えそうなことだ。


「じゃあ、準備しますね」


 半笑いで言いながら、机の上を片付ける。机を追加で出して、椅子も準備しなくてはいけない。

 そのとき、ふと机の上のパンフレットが目に入った。

 ふざけたパンフレット。ふざけた企画。場所も、人も、資金も足りない。実現不可能なはずの企画だ。おそらく、少なくとも日本では、似たものすらも行われたことはないだろう。


――場所はどうだ?


 言うまでもなく、近隣から苦情が入る可能性のない、広大とは言えないまでも十分すぎるだけの土地がある。


――じゃあ人は?


 今この場にいるのは十人弱といったところだろうか。だが、村には子供も合わせてだが、三十人ほどの人がいる。どちらにせよ、ほかの村人の同意は得なければいけない。そしてきっとそれは得られて、協力もしてくれるだろう。確信があった。そして私たちには、作業時間という意味では時間が豊富にあった。


――資金はどうする?


 それは問題にはならない。この村はこれまでの歴史で、一度たりとも資金不足に陥ったことはない。というか、この村ではどんなものでも無料で手に入る。資金なんてものは必要ない。さらに言えば、木材は取り放題。重機に技術者もいる。

 実現されるはずのなかった企画が、突如色を塗られたかのように現実味を帯びだした。

徐々に高揚し始める気持ちを抑えて、顔を上げた。社長の姿が目に入る。社長の視線はパンフレットに注がれていた。私の視線に気付いたのか、社長も顔を上げた。互いに目を輝かせながら頷き合う。

 方針は決まった。

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