第13話

 首の痛みと全身が凝り固まるような感覚に自然と声が漏れた。不快感に顔を歪めながらゆっくりと目を開ける。話を聞いた後、そのまま眠ってしまっていたらしい。時計に目をやると、時刻は正午を大幅に過ぎてしまっていた。ずり落ちかけた体をソファーに戻し、背筋を軽くのばした。背と首から小気味良い乾いた音が響いた。音の快活さと気持ちのギャップに力ない笑いがこぼれる。

 笑った後に、なぜ自分はこんなに沈んでいるのかと考え、思い出してしまった。千花のこと、村のこと、村人のこと。覚醒し始めた頭でも、あれは夢だったのではないか、と疑ってしまうほどに現実感のない話だ。気持ちもまだ追いついていないらしい。気持ちはこれ以上なく沈み込んではいたが、あの話を聞いた後であることを考えれば、陽気と言えるほどに明るい気分と言っていいだろう。そもそも正気を保っていることが奇跡とすら思える。自分のような他人に苦しむ権利があるのか、という思いがブレーキになっているのかもしれない。

 これ以上ここに座っていることに耐えられず、逃げるようにして事務所から出た。あてもなく異様に住居の多い村を歩いた。今ならば、この住居の多さが異様ではないことがわかる。この村に家族はいないのだろう。一人世帯しかいないのだ。一人一軒家がある。そういうことなのだろう。


 誰かに会いたいような、誰にも会いたくないような複雑な心境でひたすら歩いた。気分屋のあみだくじのように、曲がり角があれば曲がり、ときには曲がらなかった。すぐに自分のいる所がどこなのかわからなくなる。これで昨日までと同じに戻れるなどと本気で思っていたわけではなかったが、それでもがっかりとしてしまっている自分がいた。今日の私はやはり昨日とは違った。私はもう、ここがどこなのか知ってしまっている。


「おーい! おーいって!」


 私を呼んでいるのだろう。豪快な呼び声が聞こえた。そちらを見なくても誰の声かわかった。きっと誰の声かわからなくても誰が呼んでいるのかはわかっただろう。こんなタイミングがいいのか、悪いのか、わからないタイミングで声をかけてくる人は一人しかいない。

 私はできるだけ明るい表情を浮かべながら近づいた。


「こんにちは。シゲさん、何をしているんですか?」


 シゲさんは槌とノミを持って、力強く石を削っていた。足元には、同じく削られたのであろう小さな石の彫刻がいくつも転がっている。私の足元にあるものは、それこそ川辺に落ちている石のようで、何がなんだかわからないものだったが、そこから、シゲさんの足元に近づくにつれて、石には細かな起伏や感情が宿っていっていた。今シゲさんが彫っている石は作業途中であったが、掘り終わった部分だけ見れば本物の猫だと勘違いしてしまうほどで、動いていないことが不思議なくらいだった。


「何って、石を彫ってんだよ。前から言ってただろ?」


 シゲさんは少し戸惑うような笑みを浮かべ、首をかしげた。

 聞きたいのはそういうことではなかった。なぜ石を彫っているのかと聞きたかった。それなのに、それ以上聞くことができず、「そうですよね」と曖昧な返事を返した。

 シゲさんは私の顔をジッと見つめ、また彫刻に戻った。

 カンカン、カンカン、と槌でノミを叩く乾いた音が響く。ひと振りごとに石像には生気が増していき、この生きているような石像は、まだ生きていなかったのだと気づかされた。


「最高の墓石を作ってやりたいと思ってよ。墓石だなんて思えねえような、かっこよくて、かわいいやつ」


 ハッと顔を上げて、シゲさんを見る。シゲさんは温かい、こちらの奥まで見透かすかのような表情を浮かべていた。


「聞いちまったんだろ?」


 無言で頷いた。言おうか言わまいか、言うべきか言わないべきか、迷っている間に言われてしまった。胸の内の重石は卑怯にも取り除かれてしまった。

「シロちゃんには言うべきだと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて悪いな。やっぱ、最期まで気にせず接してもらいたいって気持ちもあってよ」

 感情を高ぶらせるでもなく、淡々と槌を振り下ろすシゲさんに、奥歯を噛み締めた。


「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか? どうして、どうして……」


 どうして、何なのか、言葉にできなかった。どうして死を目前にして落ち着いているのか、なのかもしれないし、どうして黙ってこの村に閉じ込められているのか、かもしれない。


「どうして……か。どうしてって言われてもなあ」


 シゲさんは困ったように頭を掻きながら笑った。


「仕方がないのよ。仕方がない中で、いろんな人が、それでも俺たちのために精一杯何とかしてくれようとしたのが今の形なんだ」


「なんとかって、家族とも友達とも引き離されたんじゃないんですか? これが精一杯なんですか?」


「そうだなあ。シロちゃんも、車谷くんか先生から経緯は聞いただろう?」


 私はシゲさんの問いに首だけを動かして答えた。はい、という一言が咄嗟には出てこなかった。シゲさんは、そんな俺を馬鹿にするでもなく、「じゃあ、同じことをもう一回聞くことになっちまうかもしれねえけど」と前置きし、口を開く。


「病気のことがわかったら、いろんな人がパニックになる。そのせいで関係のない人が不幸になるかもしれない」


 シゲさんはそう言うと、持っていた槌とノミを地面に置いた。ひと呼吸おき、続ける。


「そして、当事者の俺たちには冷たい目とか、そういうもんが待ってる。それどころか、多分俺たちの家族にもな」


「国が嘘だって言ったんでしょ? それでいいじゃないですか。わざわざこんな場所に閉じ込められるなんて」


 私の言葉に、シゲさんはゆっくりと首を左右に振る。寂しそうな、諦めたような顔で言った。


「誤魔化すには遅すぎた。俺がそれで入院したってことは近所には噂で回っちまってた。他の奴らもたぶん同じだ。国が嘘でしたなんて言っても、弱っていく俺らを見たら気づいちまうわな。そうしたら、いよいよ収拾がつかなくなる。うつらないって話すらも信じてもらえなくなる」


 シゲさんは、言葉を失った私に、「だから、疑われる前に理由をつけて姿を消さなきゃならなかったのよ」と儚く微笑みかけた。


「でも。……でも」


 涙をこぼさないように目の奥に力を込めた。涙をこぼすことが、自分の苦しみを和らげる行為のような気がして、決して流してやるものか、と歯を食いしばった。


「そんな顔すんなよ。……シロちゃん、これはな、もう終わったことなんだよ。シロちゃんがここに来た時には、もう終わっちまってたことなんだ」


 何も言葉を返せず、空間を見つめる。シゲさんの言うとおり、もう終わった話なのだろう。いろんな人が頑張って、いろんな人が悩んで、いろんな人が泣いて、そんな物語が終わった後なのだ。それを思うと、これ以上軽々しく口を開くことはできなかった。私でなくても、口なんて挟めるはずがない。

 私の様子を気遣うようにシゲさんは軽く私の背を叩いた。胸の奥に優しい衝撃が残響する。


「俺たちは悩んで悩んで、悩みきってここにいるんだ。政府の人にも感謝してる。もちろん先生にも。たぶん、これがみんなの妥協点なんだと思うぜ」


「本当に、みんな納得してるんですか?」


「……仕方がないのさ。これ以上文句を言っても誰も幸せにならねんだ。もう本当に納得してるよ。その代わり、シロちゃんとか社長さんとか先生とか車谷くんとか、一人でも多くの人に、俺たちがいたってことを覚えておいて欲しいとかは思っちゃってるけどな」


 シゲさんは悪戯っぽく笑う。笑った後に、表情は物思うようなものに変わった。シゲさんはポツリポツリと雫が垂れるように続けた。


「俺たちはいいんだ。どういうことになっても受け入れられる程度には大人になってる。ちびっこたちは……かわいそうだけど、まだ何もわかってねえ。親と離れて寂しいとか、友達といられて楽しいとか、学校に行かなくていいとか、そのくらいだ。かわいそうだけど、ある意味幸せだと思うんだ」


 シゲさんは小さく息を吸った。涙をこらえているように見えた。


「ただ、千花ちゃんが不憫でな。受け入れられるほど大人じゃねえし、何もわからないほど子供じゃない。そんで、わがままを言うには、あの子は優しすぎる。今、この村で千花ちゃんだけが我慢をしてるんだと思う」


 沈黙が流れた。遠くから微かに子供たちの声が聞こえた。幼い子供たちは、この状況を理解はしていないが、適応しているのだろう。そして、大人たちは受け入れ、順応している。

 千花だけが、大人と子供の間で苦しんでいるのかもしれない。二十歳をやっと超えたところ。それが大人というにはあまりにも幼すぎることはよくわかる。私も同じようなものだから。

 全員苦しんでいる。けれども、苦しみの質が千花は違うのだと思う。きっと千花の苦しみはほかの人たちより、窮屈でやるせない。


「重苦しい話をしちまった。俺は重苦しい話アレルギーでよ。鼻水が出てきたから戻るわ。シロちゃんも、明日からはいつも通りにしてくれよ! シゲさん鼻水出ちゃうからよ」


 シゲさんは潤んだ瞳でそう言うと、手を振りながら家の中へ戻っていった。鼻をすする音がやけに悲しく、この人は本当に優しい人なのだと思った。その理不尽さが、余計胸を掻きむしった。




 事務所のソファーで何をするでもなく、何を考えるでもなく、ただ座っていた。何もしないことは簡単だが、何も考えないことはこの上なく難しいのだと知った。いくら思考をかき消し、言葉をバラバラに引き裂き追いやっても、どこかの隙間から入り込み、再び頭の中に文章が出来上がる。それをまた切り裂く。切り裂かれるそれは、罪悪感という名の体液を残した。

 乾いた音が耳に届いた。ゆっくりと伺うように開かれた扉の向こう側から、気まずそうに笑う千花が顔を覗かせていた。


「やっほー」


 言葉とは裏腹に千花の声色はおずおずとしていて、目も合わなかった。胸の奥が締まるような感覚を無視して、できる限りの笑顔を作った。できる限りということはつまりは全然できていないということだ。


「よう。体調は大丈夫か?」


「うん……」


 外と内のちょうど境界の辺りでもじもじとする千花に、「座れよ。コーヒー飲むか?」と声をかけた。

 千花は無言で頷くと、私が座っていた場所の対面に腰を下ろした。

 コーヒーを入れながら、どうするべきなのか、と考えないようにしていたことに目を向けた。

 何も聞いていないふりをして、今まで通りに振る舞うべきなのか。それとも、千花のこと、病気のこと、この村のこと、それら全すべてに触れて力になると言葉を並べるべきなのか。

 コップから溢れたコーヒーが、台の上を流れ、シンクに間抜けな滴り音を鳴らす。

 当然のように答えは出なかった。どちらも間違っている、ということだけは考える前からわかっていた。

 表面張力でなんとかコップにしがみついているコーヒーを、もうひとつのコップに半分だけ移した。量が少なくなってしまったが気にしないだろう。両手にコップを持ち、千花の所へ戻る。


「お待たせ。熱いから気をつけてな」


 千花はコップを両手で受け取ると静かに頷いた。私も対面に座り無言でコップに口をつけた。千花も私に合わせるようにコーヒーを口に運んだ。

 気まずさとも少し違う沈黙がしばらく流れた。横着してコーヒーを少なめに作ったことをすぐに後悔した。もうコップには薄く底が見える程度の量しか残っていない。唇を湿らせることが目的であるかのように、冷えきったコーヒーを飲んだ。

 ひとまず、この場は何も知らないことにして会話を始めることを決めた。


「そういえば春さんがさ――」


「聞いたんだよね?」


 独り言のように吐き出された千花の言葉は、それでも卑怯にも問題を先延ばしにすることを決意した私の頭を真っ白にするには十分で、その後に流れた再びの沈黙は答えを語っているようなものだった。

 種類のわからない感情をなんとか押し殺し、やっとのことで口を開く。


「ああ」


 千花は情けなく視線を泳がせる私を見て、淡く微笑んだ。


「やっぱりね。修くんはわかりやすいなあ」


 千花はそのまま顔を上げ、「そりゃ聞いちゃうし、言っちゃうよね」と天井を眺めた。


「――ごめん」


 私の的外れな返答に顔を下ろしたときには、千花の表情はいつも通りの、明るく屈託のないものに変わっていた。


「なんで修くんが謝るの? こっちこそ謝らなくちゃ。お礼も言わなくちゃだね。先生の所まで運んでくれてありがとう。……それと、ごめんね」


「礼なんていらないよ。当たり前のことだろ。謝ることでもない」


 千花は、まだ一度しか口をつけていないコップをいじりながら、「謝るのはそのことじゃなくて」と顔を伏せた。

 私は千花の言葉の意図がかわからず、続く言葉を待った。


「内緒にしててごめんねってこと」


 千花の顔にまた力ない微笑みが浮かんだ。そんな顔は見たくなくて、視線を外した。

 そんなことで謝らなくていい。当然のことだ。気にする必要なんかない。

 伝えたいことはいくらでもあったが、それらはすべてぶつかり合い、打ち消し合い、私の口を動かすことはなかった。瞳だけが情けなくゆらゆらと動いた。


「修くんには話せなんて言っといてずるいよね」


 千花の表情は穏やかだったが、「でも、知られたくなかったなあ」と続けた声はほんの微かに震えていた。

 千花も震える声を聞いて、反射的に声が出た。思っていたよりも大きな音に自分で驚く。


「ずるくなんかない!」


 目を見開き驚く千花に冷静になり、慌てて声を落とした。音量を下げると、声の震えが目立った。


「ずるくなんかないよ。俺は、あのときの千花の言葉とか、そういうのに救われた。ずるいなんて思うわけない。絶対に思わない。……でも、あのとき、思いっきり叫んでほしいって、鳴いてほしいって、千花言っただろ? 俺だって同じだよ。言いたいことがあるなら言ってほしい。そんな風に我慢するところなんて見たくないよ」


 今度は、千花の目を真っ直ぐに見つめる。

 結局、私は一度も鳴いてなんていない。何を偉そうに、ともう一人の自分が私を詰る。それでも、その言葉を無視できるほどに、混じり気のない本心だった。

 千花は私の顔をジッと見つめていたが、笑おうとしているかのように口角を上げた。潤んだ瞳としかめられた眉に千花の優しさが痛々しく反射する。


「ダメ。言えない」


「どうして?」


 すがるように言った。私の問いに答える千花の声は、優しく、悲しかった。


「正しいことだから。たくさんの人が、たくさん悩んで、たくさん考えて、たくさん悲しんだ結果が今なの。だから、私が今悲しいのは、ただのわがままなの。だから言えない」


「わがままだなんて……」


 続く言葉が出てこなかった。千花だけの問題でないことは確かなのだ。部外者の自分が、新参者の自分が、したり顔で他人の気持ちを代弁なんてできるはずもなかった。

 千花はそんな私の表情を見ると、不自然に明るく笑い、コーヒーを一気に飲み干した。そのまま、勢いをつけてソファーから跳ねるように立ち上がった。


「だから修くんには精一杯に好きに生きて欲しいんだ。これも私のわがまま」


「そんなのって‥…」


 同じように言い淀む私の肩を、千花は勢いよく叩く。痛みは普段より遅れて脳に届いた。


「暗い話は今日で終わり。明日からは明るくかわいい千花ちゃんだからよろしくね。……楽しくなくなっちゃうなんて嫌だからね」


 千花はそう言い残すと事務所を出ていった。

 追いかけることはできなかった。

 音のしない事務所で、続くはずだった言葉を考えた。

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