第12話
事務所のソファーに腰掛け、岸を待った。いつまで待たせるのか、と理不尽に苛立ち、それに呼応するように膝は小刻みにリズムを刻んだ。
視線だけを動かし、壁にかかった時計を確認する。時刻は午前六時三十分。その前に時計を見たときは六時二十分だった。その前は六時七分。眠ることすらもできず、ただ待ち続ける身には、時間の流れはあまりにも遅すぎた。
突然、自分でも予想のしていなかった感情の高ぶりを感じて、叫び声をあげた。だが、事務所に響き渡るはずの咆哮は、弱々しいかすれ声として口から漏れただけだった。その声で、戻って来てから一口も水分を口にしていないことに気づく。
自分のものではなくなってしまったかのように反応が鈍い体を、無理やり引きずるようにして冷蔵庫に向う。取り出した水を、ペットボトルから直接飲んだ。水分を取ると自分がいかに乾いていたのかよくわかった。枯れきった部分に、水分は瞬時に染み込み、表面はまたすぐに乾いた。乾いた部分をまた埋めるように水を飲む。またすぐに乾いた。潤うことを諦めて、ソファーに戻り、頭を抱えるようにして座った。早く安心させてくれと、早く杞憂だったのだと言ってくれと、形も知らない神に祈った。
「起きていたかい」
扉の開く音とほとんど同時に耳に飛び込んだ声に、勢いよく頭を上げる。声のもとでは、岸がほんの少しだけ目を見開いていた。
「ここで待たせてもらおうと思ったのだが、早起きだね」
岸のいやに落ち着いた声が癇に障る。こちらの様子は気にならないのか、岸は、まるで自分の部屋であるかのように自然にソファーに座った。
「話せる奴も来るんじゃなかったんですか?」
自分の口から出たしゃがれ声に驚きはしなかった。だが、その声に想像していたほどの敵意がこもっていなかったことに少し驚いた。
「あと十分もすれば来るだろう。この時間しか空いていないそうでね。君が寝ていたら起こすつもりだったのだが、ちょうど良かったよ」
あと十分。とてもじゃないが待てるような心境ではなかった。
「あなたは嘘つきだ。そうですよね?」
昨日と同じ疑問をぶつける。だから千花は病気なんかじゃないんですよね、という言葉は続けられなかった。何とか絞り出した言葉は質問というよりは懇願に近かった。
「その通り」
待ちに待っていた答えに、瞬間、胸の奥が歓喜に沸いた。
「ただ、私のはじめの言葉は本当だ。嘘をついたのはその後」
岸はソファーに浅く腰掛け、目を伏せるようにして言った。穏やかであるはずのその声が、まるで地の底から響いているかのように、耳の奥でこだまする。
それは、一晩考え続けた、予想通りで当然の、何の不思議もない言葉で、もはや驚きもなかった。ただ、それでも岸の口から「その通り」の一言を聞いた瞬間に湧いてしまうくらいには期待していた。反射的に喜んでしまうくらいには、希望的観測も残っていたのだ。
喉まで吹き上がってきていた歓喜は、栓を抜かれてしまったかのように、不快な音を立てながら引いていく。それに巻き込まれるように、ほんの刹那、疑問も、不安も、絶望さえもどこかに消えた。それは本当に刹那のことで、今度は湧き水のように、純度の高い絶望が胸の奥に染み出し、満ち始めた。
岸は、絶句する私のことが見えないかのように、それどころか存在しないかのように、優しく組まれた自分の指を見つめながら続ける。
「全人類のごくごく少数のみが持つ遺伝子に起因する病。ごく少数の民族である日本人の中でも、さらにごく少数だけに発症する可能性のある病だ。名前はない。今後も名付けられることはないだろう」
岸は一度言葉を止めた。何かを考えているようにも、何かに耐えているようにも見える。私の言葉を待っているわけではないことは明らかだった。
「初期症状は断続的な微熱。時間の経過とともに発熱の間隔は短くなり、苦痛も増大していくようだ。今後どういった症状が現れるのかは定かではない。ただ、最後には死んでしまうことだけは間違いない」
「その後の症状がわからない新種の病気なのに、どうして死ぬだなんてわかるんですか?」
私の力ない言葉にも、岸は視線を上げることさえしない。変わらず淡々と続ける。
「この病気の一番の特徴。それは特定の遺伝子を持つ人がほぼ同時に発症し、ほぼ同時に死亡するということだ。奇妙な話だよ。老若男女問わず、誰かが発症すると、まるでそれがトリガーであるかのように、同じ遺伝子を持ったほかの人間も発症する。そう理解していれば、過去に同じような事例を発見することもできた。小さくて不確かな記録だがね。白坂くん、新種の病気というのはね、新しく生まれた病気のことだけではないんだ。新しく発見された病気、もっと言えば新しく認識された病気のことも新種の病気と呼ぶんだよ。まあ、この病気のせめてもの救いといえば、特定の遺伝子のみではなくその組み合わせによって発症するから、発症者の家族も発症する可能性は極めて低いこと――」
「ちょっと、待ってください。勝手に話を進めないでください。じゃあ、治せばいいじゃないですか。先生は高名なお医者様なんでしょう? 治療できるんでしょう? そのためにここにいるんじゃないんですか?」
論文を読むかのように語り続ける岸の言葉を、たまらず遮った。一度空っぽになった心は、今では激情と言って問題ないほどの深い絶望に満たされていた。
岸は視線だけをチラリとこちらに向ける。誰かと会話している、ということを今思い出したかのような仕草だった。
「この村に来る前も、来てからも、この病気の研究に心血を注いだ。努力に結果はついてきたよ。医学界における快挙だ。……私はこの病気が絶対に治療不可能だということを発見した」
岸の刺すように冷たい目と視線が合う。視線の鋭さに気圧され、気づけば生唾を飲み込んでいた。
岸は視線を外すと「今の私は彼らが穏やかに最期を迎えるためだけにここにいる」と感情を感じさせない声で言った。この事務所に来たときよりも、岸は老け込んでしまったように見える。
岸からの圧力が消えた瞬間に、堰を切ったように言葉があふれだした。みっともないことこの上なかったが、それでも止めることができなかった。
「嘘だ! あなたはまた嘘をついているんだ。だって、この話は政府が正式に否定している。あなたも認めて謝罪したでしょう? 第一、この村で千花が発症したとして、あなたがそれを発見できるはずがない! また同じ話を掘り返す気ですか?」
「私が政府の人間だと言えば、あなたでも理解できますか?」
背に冷ややかな声と視線を感じ、振り向いた。そこには階段を下りてくる車谷の姿があった。どうやってそこに、と問いかける前に答えは車谷の口から冷たく返ってきた。
「ヘリに決まっているでしょう。興奮しすぎて音も聞こえませんでしたか?」
車谷の嘲るような目を、込められるだけの怒りを込めて睨みつける。何に怒っているのかは私自身にもわからない。それは逃避の一種だと頭の片隅から声が聞こえた気がした。
「車谷さんが政府の人間? いきなりそんなことを言われて信じられると思いますか? どうして政府の人間がこんな小さな村にここまで介入するんです? それに岸先生が病気を発見できた理由にもならない。先生は村の外にいたんですよね? どうやってここで千花を見つけたって言うんですか? それに――」
「あなたは本当におかしいとは思わなかったんですか? その小さな村のために商品を探して持ってくる業者なんてものがいることを。しかも無料で。おかしいとは思わなかったんですか? あなたの会社がここに支店を作ったことを。無料で商品を渡しているのに利益が出ることを。おかしいとは思わなかった――」
「もういいです! ……もうやめてください」
怒気は瞬きをするくらいの間に、悲痛に変わる。
車谷は私の逃避を許してくれるほど甘くはなかった。
おかしいとは思っていた。村の唯一の交通手段であるはずなのに、バス停がないこと。バスは連れてくるだけで連れてはいかないということだ。
おかしいとは思っていた。村の入口にある緑の壁も。あってはならないものに蓋をするようなその佇まいを。
おかしいとは思っていた。片田舎の診療所とは思えない薬品を抱える岸を。
おかしいとは思っていた。重機を運ぶために車谷が乗ってきたヘリが軍用だったことを。
おかしいとは思っていたのに、深く知ろうとしなかっただけだ。初めは、知る気がなくて、だんだんと知りたくなくて、目をそらし続けてきていただけだ。
まだ疑問はあった。岸が病気に、つまりは千花に気づいたきっかけ。それに、なぜ岸は全国にいるであろうほかの患者の面倒を見るわけではなく、千花だけを見ているのか。加えて、千花だけでなく、ほかの村人もいっしょに隠されてしまっていること。そしてその面倒を国が見る理由もわからない。
だが、溢れようとする涙を止めることに必死で、それを聞く余裕がなかった。いや、これもきっと知りたくなかっただけだ。
だが、無情にも、車谷は私が聞きたくもない答えを述べ始めた。
「それと、先生は外で病気を見つけました。そして村の設立当初からこの村にいてくださいました。その後、先生は汚名を被ってまでも、患者たちを見てくれています」
溢れかけていた涙が引いた。
出来の悪い頭は、こんなときだけ本来の能力を超えた速度で回った。車谷は「患者たち」と言った。
やめてくれ、やめてくれと、声にならない声が自分中でこだました。
だが、車谷はやめてはくれなかった。
「この村は発症者の最期を看取るために作られました。……つまり、私、岸先生、それにあなただけです。まだ最期が決まっていないのは」
少し前、つまりは私が新聞やらテレビやらで岸を見るようになっていた頃、私が思うより遥かに国内は揺れていたらしい。
感染しない病気であることは明らかだった。今生きている人で、新たに発症者が出ることがないことも明らかだった。
それでも、この事実が大衆を混乱させるということは、頭のいい人たちには簡単にわかることだったらしい。この発表で国は乱れる。そんなことは前提で、じゃあどうするのかということが問題だったようだ。
そして最終的に、あるお偉い様が、周りの人間にすら極秘に決断を下したらしい。車谷はそのお偉い様というのが誰を指すのかは言わなかったが、あの言い方から察するに、馬鹿でも知っている人なのだろう。
その後、この村に発症者たちを集め、最期の日まで生活してもらうことが決まったのだという。その際、政府に勤めていた車谷は、わけあってそのことを知り、管理役、及び調整役に立候補したとのことだった。そして車谷の要望で、この病気の第一人者である岸と、葬儀にまつわるプロであるうちの社長に話がいき、今に至るとのことらしかった。
村にお金が必要ないはずだ。
無料で物品が送られてくるはずだ。
村を秘密裏に運営するために、その全てが税金で賄われていたのだから。
車谷は小学生の歴史の教科書でも読み上げるかのように、さわりの部分だけを淡々と説明した。存在したであろう情動も紆余曲折も語りはしなかった。当然、そんな説明で納得できるわけがなかった。
「なに話は終わりだみたいな顔してんだよ。納得できるわけないだろ。国民の混乱を避けるために病気はなかったことにしただと? じゃあ、この村の人たちの人権は無視か? 国っていうのは本当に腐ってるな。お前はどんな顔で今までヘリに乗ってこの村に来てたんだ? 先生、あんたも国の言いなりで、一緒になってここの人たちを閉じ込めてたのか。どんな気持ちでこの村に住んでんだ! この村の人たちの気持ちを、残された家族の気持ちをお前らは考えたことがあるのか!」
怒りに任せて、荒々しく喚き散らした。
この村で発症した千花が、岸に治療してもらっているのではなかった。ここに連れてこられて、閉じ込められているのだ。千花だけではない。この村の人たちは全員、うつりもしない病気のために、家族とも友人とも切り離され、この村に閉じ込められている。
こいつらは悪魔だ、と本気でそう思った。
二人からの返事はない。質問をしているわけではないのだから、それも当たり前のことなのだが、そのことにも無性に腹が立ち、「聞いてるのか!」と声を荒げた。
岸は感情を読み取れない表情で、変わらず目を伏せていたが、車谷は私の声に反応して顔を上げた。
その目には憎悪にも近い怒りが滲んでいた。
「これまでに、原因不明の病気がどれだけあったか知ってるか? 原因不明っていうのは、原因がわからないってことじゃない。馬鹿どもに原因が理解できないって意味だ。知らないよな? じゃあ、その病気にかかった人が、馬鹿どもからどういう扱いを受けてきたか知ってるか? ハンセン病ぐらいはお前でも知ってるだろう。うつるとかうつらないとか、治るとか治らないとかじゃないんだ、馬鹿どもはな、わからないものが近くにあるのが怖いんだ。そもそも何もわかってないくせにな。ここまで言えば、この村の人たちが、外にいたら、病気を公表したら、どういう扱いを受けるかくらいは想像できたか?」
怒りに任せるようにまくし立てる車谷の形相は、これまでに見てきた冷徹な機械を思わせるものではなかった。
その迫力に気圧され、口をつぐんだ。
車谷は、はっきりと視認できるほど、わかりやすくもとの無表情に戻ると「人間っていうのはそういうものなんですよ」とつぶやいた。
「白坂くん。本人たちも、ご家族も、納得してこの村にいるんだ。車谷くんが全員を説得して回ってね。説得は当然難航したらしいが、ほかならぬ車谷くんの説得ということもあって、全員ぎりぎりのところで納得してるんだ。だから、彼を責めるのはやめてあげてくれないか」
押し黙っていた岸は、優しげな声で宥めるように言った。
「車谷……さんだからっていうのは?」
私の質問に、車谷はしばらくの沈黙の後、溜息とともに答えた。
「千花は私の妹です。家庭の事情で苗字は違いますが」
言葉を失った。
悪魔は私じゃないか。無知で愚かで残酷な悪魔。
車谷が病気について知り得たこと、千花を始めとした村人への気遣いと距離感。少なくとも、車谷が村人たちに特別な思い入れを持っていることは気づいていたはずだ。それを一瞬の激昂に任せて、言ってはならないことを言った。ふたりの顔を見ることができず、力なくうなだれた。謝罪の言葉すらも、恐れ多くて言えなかった。それもまた最低だと思った。
「あなたにこの村のことを話したのは、余計なことを考えず、職務を全うしていただくためです。この村は、全国民と、発症者と、その家族の、幸福の最大公約数です。くれぐれも、あなたが壊してしまうことのないようお願いします」
車谷は言い終わると同時に、立ち上がり、階段を登っていった。早足で一歩ずつ段を踏みしめる音が小さく響いた。
「私もこれで失礼するよ。……白坂くん、酷かもしれないけど、これが最善なんだ。全体で見ればね」
岸の優しさを含んだ声にも何も反応できなかった。私は、ただうなだれ、沈んだ。
深い水の中に沈んでしまったかのような、息苦しさと重苦しさを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます