第5話

 診療所を出て一度振り返る。入るときはただ古臭いとしか思わなかった佇まいも、今ではやけに不気味に思えた。村の人たちはこの診療所の備品のことを知っているのだろうか。頭が勝手に思考を始めようとするが、それを無理やり打ち消した。

 私のようなよそ者が知る必要のないことだし、関わるべきではないことだろう。

 そうやって少し強引に、踏み込まない理由を作った。ぎりぎり認識できる程度の、微かな罪悪感がしこりとして胸に残った。この小さなしこりは、もう数え切れないほどに溜まってしまっている。


「修くん、何してるの?」


 突然、後ろから声をかけられ、小さく肩が跳ねた。今日は心臓に悪いことの多い日だ。この退屈な村では貴重な一日なのかもしれない。

 声の主は振り返るまでもなくわかっていた。こう言っては怒られてしまうかもしれないが、若い女性の声というのはこの村では珍しい。千花の声だった。


「なんでもないよ。大隈さんに届け物を頼まれて、岸先生の所に行ってきただけだ」


「あー、コップでしょ? シゲさん村の人全員に作ってるんだよねえ。先生の分もやっと完成したんだ」


「今頃渡される人がいるって、ちょっと遅くないか?」


 言ってしまってから後悔した。馬鹿にしていると受け取られてもおかしくない物言いだ。いらぬ事を言ってしまった。どうにも千花といると余計なことまで話してしまいがちだ。年が近いから、無意識に気を許しすぎているのだろうか。


「えー、そうかなぁ。でも確かに最近シゲさんの作るスピードも上がってる気がするし、初めは遅かったのかも」


 千花は腑に落ちない様子で首をかしげながら言った。もしかしたら、作り始めたのは最近なのかもしれない。それか、この村の人と私とでは時間の感じ方が違うかだ。とにかく、これ以上この話を追求するのはやめた。実際素晴らしい物だった。いくら時間がかかろうとその事実は変わらない。


「千花は何してるんだ?」


「んー、散歩?」


 疑問形で返ってきた返事に、ため息にも似た笑いがこぼれた。


「あてのない散歩にしては歩きすぎなんじゃないか?」


 それほど暑い日ではないのに、千花の髪とシャツはしっとりと湿っており、結構な距離を歩いてきたであろうことが伺えた。


「歩けるうちに歩いとかなきゃ損でしょ。歩けなくなってからじゃ遅いんだよ。そんで修くんのとこでアイスをもらう。これもしなきゃ損だよね」


 千花は顔に張り付いた髪をはらいながら笑う。年頃の女性がするには元気すぎる笑顔だが、それがいかにも千花らしく、こちらまで釣られて頬がゆるんだ。


「わかったよ。事務所に来い。子供達とお姉さま方が食べ尽くしてなかったらあるから」


「流石にこの時期にアイスを食べ尽くすことはないでしょ。私くらいよ」


「自覚はあるんだな」


「もちろん。でも、お高いアイスをいくつでも食べられるのは、この村のいいとこの一つよね」


 事務所に向けて並んで歩く。千花の足取りは、アイスという単語が出るたびに楽しげに弾んだ。アイスと連続で言い続けたら、このままどこかに飛んでいってしまうのではないだろうか、と思った。


「あ、なんか今変なこと考えてたでしょ?」


 ぎくりとしたが、乾いた笑いでなんとかごまかす。くだらないことだ、言うほどのことではない。言うほどのことじゃないということは、言わないほうがいいということだ。

 そう思い、なぜかしつこく食い下がってくる千花にとぼけてみせた。


「何も考えてないよ。アイス何があったかなーとかは考えてたかもしれないけど」


「――もっと思ったこと言ったっていいんじゃない? 言いたくても言えないことってたくさんあるんだし、言えることぐらいさ」


「……なんのこと?」


 口の端が変な角度で止まった。口角に無理に力を入れて、持ち上げる。


「なーんか、修くんは線を引いてる気がするんだよねえ。損しないためっていうより、行動したせいで損しないためにっていうか、なんかうまく言えないけど」


 見透かされたような気がして、すぐに声が出なかった。束の間、沈黙が流れた。鳥の声も、子供のはしゃぐ声も聞こえない。いや、本当は聞こえているのかもしれない。でも、私の奥までその情報は届かなかった。自分の足音だけは、足の裏から伝わる感触を通してかろうじて聞こえた。無音に音がひとつ増える。


「理由があるなら言ってみたら? 案外、自分で選べる程度のことなんか、言ったってたいしたことないもんだよ?」


 千花の温かい目がやけに痛かった。千花の言っていることはよくわかる。実際にたいしたことないことのほうが多い。ただ、問題はたいしたことかどうかは、結果が出るまでわからないということだ。それが私はたまらなく嫌だった。それで失敗するのが嫌だった。


「なんのこと言ってるのかわからないけど、多分千花の気のせいだよ」


 顔に皺を寄せるようにして笑った。くしゃくしゃの醜い笑みだっただろう。千花は私の顔を見て、一瞬寂しそうに微笑んだが、すぐに「そっか」と私と同じようにして笑った。千花のそれは醜くはなかった。

 それからは事務所まで、とりとめのない話をしながら歩いた。私からもしたし、千花からもした。私はとりとめのない話しかできなかった。千花は多分違うのだろう。

 事務所が見えてきた頃に、耳馴染みのある喧しい声が私を呼んだ。少し安堵する。なんだかんだで、この人はいつもタイミングがいいな、と少しおかしくなった。


「おう、シロちゃん。おつかいありがとな。いやー手が離せなくてよ」


「別にすることもないんで構いませんよ」


 大隈は庭でまた何かを彫っていた。今彫っているのは木だが、庭の隅に石の塊も見えた。


「大隈さんは石も彫れるんですか?」


「いやあ、俺は大工だからよ、石はさっぱりだ。いま勉強中よ。木彫りを覚えたのもここ最近の話だし、なんとかならあ」


 腑に落ちた。それはそれで驚きではあるが、彫刻そのものを始めたのが最近であるなら、コップを掘り始めたのも最近ということだろう。練習用に始めたのだろうか。


「シゲさん本当にすごいよねえ。彫刻始めてみるって言ってからメキメキうまくなっていったもんね。ちょっと体の大きさには似合わないけど」


 千花がからかうように笑う。大隈は「ちょっと、きついぜ、千花ちゃん」と照れくさそうに頬を掻いた。私も千花と全面的に同意見だった。彫刻は本当にすごい。時と場所が違えば、歴史に名を残してもなんらおかしくはない。あの図体で細かい作業が得意というのも、大隈には悪いが、おかしかった。惜しむらくは、大隈に階段作りの才能がないことだろうか。

 大隈は手に持っている彫りかけの木彫りを日に照らした。


「でも、この歳になっても見つかるもんなんだなあ。俺はもう人生絞りきったと思ってたよ」


 しみじみと感じ入るように言った大隈の声は、なぜかやけに儚く聞こえた。

 千花が小気味のいい音を響かせながら、大隈の背を叩いた。


「見つかってよかったじゃん。これからいっぱい彫らなきゃね」


「そうだな。史上最高の作品を彫ってやるさ」


 大隈はいつも通りの調子に戻り、豪快に笑った。史上最高の作品を、と言われて笑い飛ばせないところが恐ろしい。


「お、そうだシロちゃん。今夜一杯やろうぜ。千花ちゃんも一緒にどうよ?」


「いくー」


 二人して、こちらの都合も聞かずにキャッキャと騒ぎ始める。先程までの真面目な雰囲気はすっかり消し飛んでいた。千花はともかく、初老の筋肉質なおじさんがそのようにはしゃぐ姿はとても直視できたものではなかった。


「今日はダメです。明日は車谷さんが物資を持ってくる日ですよ。早く起きて準備をしないと」


「えー、いいじゃーん。ちょっとだけー」


 千花は体をクネクネと左右に振ってねだる。拳を顎の前につけて体をくねらす様は、古いの漫画に出てきそうだった。恥ずかしくないのか、と口元までせり上がってきた言葉をなんとか飲み込む。


「勘弁してくれ」


「ちょっとだけー」


 調子に乗った大隈が千花の動きを真似ながら言った。きつい。あまりにきつすぎた。ポーズもきつかったが、初老が語尾をのばすのも相当きつかった。


「わかりましたよ。ちょっとだけ付き合いますよ。ただし、酔いつぶれないでくださいよ、大隈さん」


 大隈が、あまりにも見るに耐えず、眉間に力を込めながら承認した。大隈と千花が年不相応に盛り上がる。


「任せろ。ところで、シロちゃん、そろそろシゲさんって呼んでくれよ」


「飲むのは定時を過ぎてからですよ。それから来てくださいね、大隈さん」


 しゅんと小さくなる大隈を尻目に、事務所に向かう。千花は「アイス、アイス」と歌いながらついてくる。どうやら忘れていなかったらしい。というか、まさか今から定時まで居座る気だろうか。

 軽く眉間を抑え、ため息をついた。まあいい。どうせすることもないのだから。

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