第4話

 スマホから流れるけたたましいアラームで目が覚めた。東京にいた頃より通勤時間が極めて短くなっているので、アラームはこれまでより少し遅めの時間に設定している。軽めの朝食をとり、身支度を整えた。まだ少し暑いが、一応ジャケットも羽織った。二階の隅の居住スペースを出て一階に降りる。

 八時過ぎ――東京にいた頃の出社時間とほとんど同じだ。この事務所にはデスクがないので、仕方なく応接用のソファーに腰掛けた。小さくため息をつく。今日も仕事はない。

 こちらでの生活に少しずつ慣れてきた頃ではある。村の人間についても少しずつわかってはきた。だからこそ、絶望とほとんど変わらない虚無感が日々募った。最初の一週間は引越し作業や卸業者との顔合わせ、今後の確認で時間を過ごした。次の一週間は備品の確認をした。次の週にはもう仕事はなかった。

 なんとか仕事を探そうとしても、見つからない。当然だ。この村では人は死なない。東京では毎日人が死ぬ。それは東京の人が死にやすいからなどではもちろんなく、単純に人が多いからだ。そして意外にも、この村は老人が少ない。私の定年までに何度仕事が入るか、と言った具合だった。

 社長の言っていた日用品の販売――販売と言っていいのかわからないが、とにかくその仕事はどれほどのものかと思えば、実際のところ、ほとんど業務負担はないに等しかった。この村は日用品の消費も少ない。どうやら一人世帯が多いらしい。それもあって、ストックがなくなった頃に事務所に取りに来る人がいるくらいで、仕事と言えるほどの内容ではなかった。よって、私の仕事といえば月曜日と木曜日に車谷から受け取った食料を村人に渡すだけ。もしくは、たまに入る注文品の受け渡しだ。週あたり三時間にも満たない仕事量だった。

 最後の望みをかけて開いた社長からの引継書にも、ここに来た日に直接聞いた以上のことは書かれていなかった。引継書にも念を押すかのように「村人に寄り添って」と書かれていた。寄り添うも何も仕事がないのですが、と心の中でため息をこぼす。


「シロちゃんいるかい? この瓶が空かなくてねえ」


 ドアがうんざりするようなマヌケな音を鳴らしながら開き。春さんが瓶を片手に入ってきた。春さんはこの村のなぜか数少ない老人の一人だが、腰こそ多少曲がってはいるものの頭はしっかりとしており、ほとんど手はかからない。小さな畑を耕していて、時折採れたての野菜を差し入れてくれた。


「いいですよ。貸してください」


 私は春さんから瓶を受け取り、軽く力を入れて回す。思った以上に簡単に開いた。多分これが今日の最後の仕事だろう。昨日は別の家の障子貼りの手伝い。その前は、また別の家で棚の上の箱を取った。その前の日は、大隈の家で木材をまとめる手伝いだったか。それらが私の貴重な仕事の一部で、ほとんど全部だった。


「あら、春さん来てたの? 今日もいい天気ね」


 そんなことを言いながら、空きっぱなしのドアから三人の女性が入ってきた。歳は三十後半から四十前半といったところだろう。村の東寄りに住んでいて、大体いつも三人でいる。そのせいで、頭の中で誰が誰なのかがゴチャゴチャになってしまうので、名前を覚えるのは諦めた。呼び間違えるよりはいいだろう。

 春さんも穏やかな笑顔で挨拶を返した。


「お茶を入れますね。春さんも一緒にどうぞ」


 私は急な来客にも、もはや慌てることはなく、落ち着いて人数分のコーヒーを入れた。

 事務所には春さんのように用を頼みに来る人以外にも、こうして暇をつぶしに毎日人が来た。村に来た始めの頃は挨拶回りに行かなければと思っていたが、数日後には必要ないという結論に達した。代わる代わる、ときにはまとめてだべりに来るのだから、わざわざ訪ねて行く必要もないだろうと思った。そして実際なかった。

 コーヒーの準備をしていると、後ろからドタドタと騒々しい足音も聞こえた。子供たちも来たらしい。


「あら、君らも来たの? 今日はおうちで遊ぶの?」


「こんにちは! 今日は畳でゲームする!」


 元気な声がいくつも聞こえる。私は振り向かずに、追加でジュースとお菓子の準備をし、客人たちの方へ持っていった。それぞれがバラバラに礼を言うので、苦笑交じりに返事を返した。


「自分もご一緒させていただきますね」


 女性たちは簡単に返事をくれると、また雑談に戻る。毎日代わり映えのしない村にいて、よくも話題が尽きないものだ。

 コーヒーを啜り、それとわからないようにため息をついた。

 村の人たちはいい人ばかりだ。よそ者と警戒するでもなく、こうして受け入れてくれている。せまい世界では新しい人と接する機会がないから閉鎖的になる、というのはどうやら偏見だったらしい。中には本当に日本人なのか、と思うほどにオープンな人もいるほどで、自分の見識の狭さを恥じた。

 お菓子をひとつ取り口に入れる。東京でも聞いたことのある有名製菓店のお菓子で、口に入れた瞬間に心地よい甘味が広がった。向こうに住んでいたときには手が出なかっただろう。通貨のないこの村では簡単に食べられた。

 社長に通貨がない、と言われたときには不安にかられたものだったが、初めの頃、そのことを実感することはほとんどなかった。私にしてみれば、会社の備品を使う感覚と変わらず、お客様である村の人にタダで商品を手渡す行為にも、さほど何かを感じるということはなかった。

 違いに打ちのめされたのは割と時間が経ってからで、それは給料日だった。あの日、カレンダーを見たのがいけなかった。あ、今日は給料日だ、これで貯金はいくらになったのか、などと考えたときに気づいた。私にはそれを確認する手段がないのだ。お金がない村には銀行もATMもない。会社から給与明細は送られてくるが、それが本当に振り込まれているのかを確認することはできない。

 そのことに気づいたときに、自分の置かれている状況の特異性を再認識した。本当に私はまだ社員なのか、とっくにクビになっているのではないだろうか、と悪い想像ばかりが頭に浮かんだ。その不安は、村人がどんなに良くしてくれようと消えてはくれなかった。酸素ボンベをつけて海底に沈んでいくような、緩やかな不安が心を締め付けた。


「ちょっと聞いてるの? シロちゃん」


 女性の声で我に返る。すぐに人当たりのいい笑顔を作った。村人に嫌われてしまっては堪らない。これ以上の負荷に耐えられないことは自分が一番よくわかっている。


「すいません、なんでしたっけ?」


「もうっ! 髪の色変えたんだけど良くない? って聞いたの! シロちゃん、女の話を聞かない男と、変化に気づかない男はモテないよ。私で練習しときな!」


 女性の言葉に残りの女性が笑う。私も頭を掻きながら「すんません」とおどけた。


「女は気づいて欲しいし、男は気づかない。いつでもどこでもいっしょだねえ」


 春さんも愉快そうに笑った。私はいよいよ立つ瀬がなくなり、肩をすぼめる。また別の女性が、いたずらっぽい笑みを浮かべながら続けた。


「男の中でもシロちゃんは抜けてるわよ。どうせ私たちの名前まだ覚えてないでしょう?」


 バレていたことに驚き、あたふたとしてしまった。もうごまかすこともできないので、正直に「すいません。どうにも名前を覚えるのが苦手で」とさらに肩を縮めて謝った。

 春さんと女性たちはそんな私の様子を見ながら大声で笑う。


「正直でよろしい。いいのよ、名前なんて。この狭い村じゃさして困らないしね。私たち自体をしっかり覚えていてくれたらそれでいいよ」


 女性の一人が微笑み、ほかの人たちも口々に同意した。


「もちろん、顔とかはしっかり覚えてますから」


 しどろもどろになりながらなんとか答える。女性たちは、わかってないな、とでも言いたげに首を左右に振る。春さんも呆れたように笑っていた。


「そういうことじゃないんだけどね。シロちゃんはモテないねえ。まあ、これからの全部覚えといてねってことよ」


 返答に困り「はあ」と覇気のない返事が出た。

 情けなく萎んでいると、戸の方から聞き慣れた豪快な声が聞こえた。女性たちは突然の轟音に顔をしかめる。


「おう! シロちゃん。悪いんだが、今ちょっと手が離せないんで、代わりに岸先生の所に届けもんしてくれねえかい」


 手に風呂敷を持った大隈が立っていた。大隈は、すぐに「うるさい!」と女性たちから総攻撃を受けて、私と同じように萎んだ。


「わかりました。じゃあ、皆さん、すいませんが出てきますね」


 いつもなら内心渋々受けるような頼みだが、今日ばかりは晴れやかな気持ちで承諾した。女性たちからの「いってらっしゃい」と子供たちの騒ぐ声を背に受けながら事務所を出る。女性たちも気が済んだらまた移動するのだろう。

 田舎では鍵をかけないという話をよく聞くが、この村はその比ではない。中に他人を残したままで外出する。この村にあるものはすべてタダだから。




 特に急いでいるわけでもないので、ゆっくりとした歩調で岸の家に向かう。以前に千花から場所は聞いていたので、特に進む方向に困ることはない。村の中心に向かって歩く。それが診療所への行き方だった。まあ、仮に知らなかったとしても、狭い村だ。一軒しかない診療所など三十分もせず見つけられただろう。

 東京に比べて、ここは音が少ない。だからこそ、小さな音もしっかりと耳に届いた。鳥の鳴き声も、どこかで遊んでいるのだろう子供のはしゃぐ声も、明瞭に空気を揺らした。また違いを感じ、耳を塞ぎたくなる。

 もしあのとき、只野と一緒に声を上げていたら、まだ本社で働いていたのだろうか。もし、社長に会ったときに自分の置かれている状況を伝えていたら、助けてくれていたのだろうか。そんなことを考えて自嘲気味に首を振った。

 もしあのとき、只野と声を上げていたら、社長はまだここで働いていて、戻ってくる前に私はクビだっただろう。じゃあ、あのとき社長に訴えかければよかったのか。私はこんな田舎で働くのは嫌です。本社に戻してください、と。そんなことが言えるわけがない。社長にとって、ここは働く価値のある場所なのだ。そこで働くことを拒否した人間は会社には必要ないだろう。そもそもその場合は代わりがおらず、社長はまだしばらくはここで働くことになっていたはずだ。ならば結局は同じことになっていた気がする。

 やはり考えても考えても、私が後悔するべきなのは、あのときの不用意な発言だった。いらぬ発言で禍を招いたことなのだ。思い出さないようにしていた母の顔が浮かぶ。正確に言えば、浮かぶのは母の瞳に映った幼い自分だ。絶望に顔を染めながらも直前の笑顔の名残を残した見ていられない顔の自分だ。

 先程より強く首を振り、幻影を吹き飛ばす。慣れたものだった。

 考え事をしているうちに、気が付けば岸の診療所に着いていた。木造の古い造りで、ある意味で村に馴染んでいるようにも思える。

 形は綺麗な立方体で、入口は各辺に一つずつという奇妙な作りをしていた。村のちょうど真ん中にあるこの診療所に、どこからでも最短で来られるようにという岸の気遣いだ、と前に千花が言っていた。本当かよ、と内心疑っていたが、このわざとそうしているとしか思えないふざけた形を目の当たりにすると、本当にそうであるような気がしてくる。少し回り込めばいいだけなのに、扉を四つ作ることに本当に意味があるのかはまた別の問題だが。


「岸先生。いらっしゃいますか?」


 木戸を開け、遠慮気味に声をかける。部屋の半分だけ照明が点いており、診療所の半分は薄暗く何があるのかはっきりは見えない。暗い側にあるらしい、本棚や、デスク、コルクボードに本や資料があることはなんとかわかったが、ここからでは文字を文字と認識することすら難しかった。興味があるわけではないので、特に注視せず、もう一度声をかける。


「すいません。大隈さんからの届け物なんですけど」


 返事は聞こえない。仕方がないので少しだけ待ってみようと思い、灯りのある側に行き、奥のカーテンを開け、少し黄ばんだ収納ボックスに軽く体重をかけた。明るい所にいれば岸を驚かせることもないだろう。

 灯りのある側には大きな棚があり、薬や包帯などの医療用品が保管されていた。包帯、湿布などはともかく、医薬品を取り寄せた覚えはないので、社長がいたときの物だろうか。手持ち無沙汰で、ぼんやりと棚の薬品を眺める。よく見る風邪薬らしい錠剤や聞いたこともない薬品が几帳面に並べられていた。その中でも一際貯蔵量の多い薬品に興味が湧き、近づき眺めた。薬品は三つある薬品棚のうち二つを埋め尽くしている。


「モルヒネ?」


 脇の下にじんわりと汗が滲む。モルヒネ。私でも知っている。麻薬だ。患者の苦痛を取り除くために医療用に使われるという話も聞いたことがあるが、こんなに大量の麻薬が、こんな辺鄙な村に必要だとは到底思えない。医学知識はないが、それでもこの量が普通ではなく、治療どころか人をまどろみの中で殺してしまえるほどのものだということは理解できた。


「誰かいるのかい?」


「ヒッ」


 情けなく甲高い声が小さく口から漏れた。岸が戻ってきたらしい。岸にまで鼓動が届かないように、必死に自分を落ち着ける。


「岸は医者だ。こんな薬品を持っていても不思議じゃないじゃないか」「いや、問題は量だろう。どうしてこんな場所でこんない必要なのだ」「そういうものなのかもしれない。まとめてストックしておくのが普通なのかも。医療の普通のなんてわからない」「じゃあ、本当に岸は医者なのか? この村で医師免許は取れないだろう、どうしてわざわざこの村で医者をしてるんだ?」「ここの出身で戻ってきたのかもしれない」「薬を悪用するためじゃないのか?」「この狭い村で誰に悪用するんだ。すぐばれるに決まっている」「じゃあ、自分で使っているとか」「それはもう岸が勝手にすればいい。そこまで干渉する必要はない」


 脳内での会議が終わり、数度深呼吸をする。


「すいません、私です。大隈さんから荷物を預かってきました」


 カーテンを開け、笑顔を作り、手に持った風呂敷を少し持ち上げた。口の端が意思と無関係にピクピクと動いた。岸は私が来ているとは思っていなかったようで、少し目を見開いた。


「そうかい。手間をかけたね。でも、そのカーテンの裏には危険な物もあるから入らないようにしてくれ。棚には鍵が掛かっているとはいえ、念のためにね」


「ええ、すいません。勝手に灯りをつけてもいいのかわからなかったので、明るい所に入ってしまいました」


 軽く頭を下げる。岸は「次からで構わないよ。消し忘れていた私も悪い」と言いながら風呂敷を受け取った。


「で、これは何なんだい?」


「さあ? 私はこれを岸先生に届けてくれとしか」


 岸が風呂敷を開けると、素晴らしい彫刻を施された木製のコップが出てきた。大隈の作品ということだろう。見事な作りで正直羨ましくもあったが、岸が喜ぶとも思えず、さりげなく岸の表情を伺う。岸は一瞬、目尻を落とし頬を緩めたが、すぐに元の陰気な表情に戻った。本当に一瞬のことだったが、意外な変化に戸惑った。やはり悪い人ではないのか、とますます頭が混乱した。


「よかったら、風呂敷返しておきましょうか?」


「いや、構わない。明日検診の予定だから、そのときに返すよ」


「そうですか。では、お邪魔しました」


 軽く頭を下げ、入ったときと同じ入口に向かう。後ろから岸の声が聞こえた。


「聞きたいことはないのかい?」


 振り向かず、立ち止まる。

 ほんの数秒の沈黙の後、私は中途半端な会釈をして診療所を出た。

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