第3話

 事務所を出ると大隈は後ろを振り返りもせず、ズンズンと先に進んでいってしまっていた。早足を小走りに変えて後を追う。


「ちょっと待ってくださいよ」


 追いついたときには、つい呆れ声で声をかけてしまった。私の声に振り向いた大隈は非常に嬉しそうな顔をしていたが、私の顔を見て自分が道案内の途中であることを思い出したのか、しまったという表情を浮かべた。


「悪い悪い。つい舞い上がっちまってよ」


「社長と飲むのはそんなに珍しいことなんですか?」


 大隈があまりに嬉しそうにしているところを見ると、意外と社長は付き合いが悪いのだろうか。


「ん? いや、週に数回は飲んでるぜ」


 ガクリと体から力が抜ける。恋する生娘でもあるまいし、いい年の男が浮かれすぎだろう。

 大隈は私の表情から察したのか照れくさそうに笑った。


「いやな、社長さんは外に出ていくわけだろ。外に俺のことを覚えてる人が居るってのは、なんかいいじゃねーか。だから、俺はいつだって嬉しんだよ。それに社長さんは戻っちまうから今日で最後だろうしな」


 これだけ辺鄙な所で、外と関わりがないとそういう心情になるものなのだろうか。それにしても初老の男性にしてはロマンチスト過ぎるような気がしないでもないが、この大隈という男も案外見た目によらないのかもしれない。


「社長のことですし、また顔を出してくれると思いますよ」


「んー? あーどうかな。こんな村だしな」


 私の言葉に大隈は小さく笑った。これまでに出て行った人が戻ってこなかった経験でもあるのだろうか。話の広げどころではあったが、藪をつついて蛇を出す、なんてことになっても厄介なので、黙って歩みを進める。

 大隈は話を変えるように村の西の方向を指さした。指の先には山というには小さい、まさしく小山といった風貌の盛り上がりがあった。高さは事務所より少し小さいくらいだろうか。草に覆われているのか小山の表面は緑に染まっており、数本小さめの木が生えている。傾きかけた陽に照らされて木々や凹凸が高い影を伸ばし、小山の立体感をはっきりと感じた。


「あの山が目的地だ」


「まあ、近場ですね」


「この村にいたらどこでも近場よ」


 大隈が今度は見た目通りに豪快に笑う。私は苦笑いを浮かべたが、歩きながらなので気づかれなかったはずだ。

 大隈は小山に向かいながら、この家は誰の家、こっちは誰の家、と説明をしてくれたが、当然覚えられるわけも無く、そもそも覚える必要はあるのだろうか、とまた苦笑する。それでも、大人らしく「なるほど」、「そうなんですね」とそれなりに相槌を返していると、大隈が「シロちゃんちょっと待っててな」と言って駆け出していった。どうやら、シロちゃんとは私のことらしい。

 大隈が平屋の戸を乱暴に叩くと、大隈よりいくらか若そうだが、それでもおじさんと呼ぶべき年齢の男性が眠たそうに顔を出した。何か話しているようだ。待っていろとは言われたが、どちらにしても進む方向はそちらの方向だったので、ゆっくりと近づいた。

 大隈の困ったような声が耳に届く。


「本当かよ。じゃあ、今からうちに行って取ってきてくれねーか? 鍵は空いてるからよ」


「いや、どこも似たような形の家なのにどれがシゲさんの家なのかなんて覚えてねーよ」


「そっかあ」


 大隈は腕を組んで唸っている。


「どうしたんですか?」


「あー、シロちゃん悪いな。いやな、今日はコイツの家で飲もうかと思ったんだけど、こいつが酒を切らしてるって言い出してよ。社長さんの送別会も兼ねてるのに社長さんに持ってきてもらうのもなんか違うし、どうしようかなあってよ」


 こんな狭い村にずっと住んでいたら、大隈ほど細かくはないにしても、流石に仲のいい村民の家くらいは覚えるだろとか、どうせ会社の酒であんたらに渡す酒だから構わないだろとか、他のやつの家にはないのかとか、言いたいことはいくつもあったが、ただ無言で今日何度目かの苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、大隈さんが取りに帰ればいいですよ。私ならもう一人でも大丈夫です」


 目的地は見失いようがないし、大隈の話から察するに相手も私が来ることは知っているらしい。ならば、別に案内も必要ないだろう。大隈は私の提案に心が揺れているようで、「んー、いやでもなー、それはー」と煮え切らない態度をした。


「本当に大丈夫ですから。社長も村での最後の夜ですし、せっかくですから」


 精一杯の営業スマイルを浮かべると、大隈はまだ迷いを残した様子だったが、納得した。


「じゃあ、シロちゃんも終わったら来てくれよな」


 どうやら、大隈は私にも来てもらいたくて渋っていたらしい。

 悪い人ではないのだろう。歓迎会も兼ねてということだろうか。それでも、今日は長旅で疲れているし、今の状況で社長と酒を飲み交わす気分にはなれなかった。東京にいた頃は歓迎会の誘いを断るなどとてもじゃないができはしなかったが、こんなところまで流されてきたのだから、そのぐらいはいいだろうという気持ちが湧いた。


「すいません、せっかくですが、お邪魔しても悪いですし、今日のところは遠慮しておきます。歓迎会ということでしたら申し訳ないのですが、また個別に挨拶には回らせていただきます」


「え? あー、歓迎会か。そうか、すまねえ、忘れてた。歓迎会はまた今度しようぜ」


 歓迎会ではなかったらしい。思わぬ赤っ恥に耳が熱くなったが、なんとか取り繕う。


「じゃあ、またの機会にお邪魔しますよ。今日はありがとうございました」


 私は小さく頭を下げ、小山に向かって歩き始めた。背中から「気が変わったら来いよー」という大隈の寂しそうな叫びが聞こえた。




 小山に向けて黙々と歩を進める。そうは言っても当然大した距離ではなく、大隈と別れた数分後にはもう麓に到着していた。遠目から見てわかっていたが、小山は麓から山頂まで木製の階段で行き来できるようになっていた。それにしても、山の道というのは、山の外周に沿うよう作られるのが普通のはずだ。しかし、この小山の道は一直線に下から上までを繋いでいる。当然角度は馬鹿らしいほどに急になり、山自体の傾斜が緩やかであることが救いではあるが、登ることが躊躇われた。

 とはいえ登らない訳にもいかず、小さくため息をつき、一歩目を踏み出す。二歩、三歩と段を登る。四歩目には足に不快な疲労感を覚えた。

 階段のそれぞれの段の両端には、階段の木をそのまま削り取る形で彫られた、いやに可愛らしい小動物が装飾されていた。リス、アヒル、子猫に子犬。どれも非常に精巧で、被っている動物も当然あったが、どれも表情が全く違っていて、ああ違う子なのだな、とすぐにわかった。この階段を作ったやつはきっと馬鹿なのだろう。腕はいいらしい。だが、なぜその腕を登りやすい階段にすることに注がなかったのか。せめて斜面にジグザグに配置するだけでもしてくれたら、もう少しマシな勾配になったはずだ。そんな呪詛を心の中で吐きながら登った。

 ゴールは一歩目を踏み出したときからずっと見えている。

 あのアーチが山頂への入口だろう。近づくにつれて、アーチも細部まで確認できるようになっていった。これまでに階段で見た動物たちが果物のなる木に集合しているデザインのようだ。圧巻で素晴らしい。一層苛立ちが高まった。それでもなんとか気力を振り絞り、鉛のように重くなった足を気合で交互に動かし、なんとかアーチまでたどり着いた。アーチに手をかけ、腕の力も使って最後の段を登った。アーチの柱には、こぢんまりとした丸文字で「シゲ作で自信作!」と彫られていた。底まで使い切ったと思っていた力が更に体から抜けていく。人間には底の底というものがあるらしい。

 アーチを抜けると原っぱが広がっていた。木が数本生えていて、所々に花が咲いている。広場の西側には簡素な木製のベンチがぽつんと置かれており、そこに男女が少し距離をあけて座っているのが見えた。男女という点が疑問だったが、ここでずっと立っているわけにもいかないので、近づき声をかける。


「あのー、すいません」


 呼びかけたところで、なんと言うべきなのかわからないことに気がついた。思えば、相手がこちらの名前を知っているとは限らないし、そもそも目的の人物ではない可能性もある。今日こちらに越してきたものです、とでも言えばいいのだろうか。相手が無関係な人だった場合、微妙な空気が流れてしまうことは間違いない。

 しかし、その心配は杞憂だったようで、女の方はこちらを見るなり笑って、立ち上がった。パッと咲くような笑顔というのはこういうものを言うのだろう。

 男の方も女に少し遅れて立ち上がり、軽く会釈をする。こちらも戸惑いながらも会釈を返した。

 女はおそらく私と同年代か少し若いくらいで中肉中背。綺麗というよりは可愛らしい容姿をしていた。肩の辺りまで伸びた髪はわずかに茶色がかっていて、彼女の明るい雰囲気によく馴染んでいる。近くにいるだけで毒気を抜かれるような雰囲気があった。おそらく、この人が千花なのだろう。

 男の方は四十歳後半といったところだろうか。顔には凛々しさの面影はあるのに、髪には白髪が混じり、姿勢は猫背気味で、女とは逆に、なんだか馴染んでいないなという印象を受けた。


「ごめんなさい。白坂さんよね? つい時間を忘れちゃって。この村には時間なんてないようなものだし、ついね」


 随分軽い謝罪だったが、そもそもこちらは世話をしてもらう立場なわけで、苛立ちもいつの間にか消え失せてしまっていたので、「いえいえ」と手を左右に振った。女は私の視線が男の方に向いたことに気づいたようで、手を男に向けながら言った。


「こちら岸先生。この村唯一のお医者様。先生に嫌われたらこの村では長生きできないから気をつけて」


「そう思うなら、診療の予定をすっぽかしたりしないでもらいたいんだけどね。おかげで足が棒のようになってしまった」


 岸と呼ばれた医者は苦笑を浮かべる。どうやら岸も私と同じ状況のようだった。おそらく、この人も山を登りながら階段の作者への非難を唱えていたのだろう。そう思うと勝手ながら親近感が湧いた。だが岸がこちらを向いたときには、その顔から表情は消えており、無愛想に「では」とだけこちらに告げて、山を降りて言ってしまった。嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。もしくはやはりよそ者は歓迎されないということだろうか。


「気にしないで。先生は基本的に無愛想な人だから。いい人なんだけどね」


 女がこちらの様子を察したのか明るい声で言った。


「別に気にしてないから大丈夫ですよ。診療と言ってましたけど、行かなくていいんですか?」


 もし女の体調が悪いのなら、岸に着いて行くべきだろう。別にこちらの用事は後日でも構わない。


「もう終わったから大丈夫だよ。ただの定期検診だから問診だけなの。村の人全員が受ける奴よ。だから大丈夫」


 女はニカッと笑って小さくピースを作った。そのためにわざわざこんな山の上まで来てくれるとは、確かに岸はいい人らしい。それに苦労人だ。


「じゃあ、手間かけちゃったけど村のことを説明するね。白坂、えーと」


「修です。白坂修」


「修くん! 修くんは何か聞きたいことはある?」


 いきなり下の名前で呼ばれたことや、話が長くなるならベンチに座りたいことなど、言いたいことはいくつでもあったが、まずは一番気になっていたことを聞くことにした。


「名前を聞いてもいいですか?」


 女はハッとした顔で口元をおさえた。忙しい人だなと苦笑する。


「ごめん、ごめん。何で私は先に先生の紹介をしちゃったんだろう。普通はまず自己紹介からだよね。私は詩木千花。なんか長ったるいし、仰々しくてめんどくさいから、千花って呼んでね。村の人も皆そう呼んでるから。それに年も近いんだし、敬語もいらないよ。この村でいわゆる若者は私たちだけだから」


「いえ、そういうわけにもいかないですよ、詩木さん」


 私が戸惑いながら返すと、詩木はツンとそっぽを向いて「聞こえませーん」と言った。本当にこの子と年齢が近いのか、と疑問をぶつけたくなる。


「詩木さん、聞こえてますよね? 詩木さーん?」


「聞こえてません」


「いや、聞こえてますよね? 別に敬語でも名字呼びでもいいじゃないですか」


「この村にはずうっと年上の人かずうっと年下の子しかいないから同年代の友達が欲しかったの。だからお世話係も立候補したんだよ。友達は敬語も名字呼びもしないでしょ?」


「いや、別にそうとも限らないと思うんですけど」


「私はずっとそうだったの!」


 村に同年代はいないのに、ずっとそうだったってどういうことだよ、と思ったがあまり追い詰めるのも忍びないと思い、ため息を吐くだけにとどめた。子供達はいるとのことだし、その様子を見ながら妄想でもしていたのかもしれない。そう思うと確かに不憫ではあるし、この目の前でむくれている人のことはなんとなく嫌いではないと感じていたので、まあいいだろうという結論に至った。


「わかったよ、千花。これでいいか?」


 千花は私の言葉を聞くと「よし!」と満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、今日はもう日も暮れるし、帰りながら家に誰が住んでるか教えてあげる。ほかのお世話は明日からじゃんじゃんしてあげるから」


「家の説明は大隈さんにしてもらったからもういいよ」


 ほとんど聞いていなかったし、覚えてもいないが、家の説明はもう勘弁して欲しい。


「えー、仕事取られちゃったよ。じゃあ、ほかのいろんな事は折を見て教えてあげよう」


 千花はもったいぶるようにそう言ったが、この小さな村でほかに何を教えることがあるというのだろう。そうは思ったが、わざわざ機嫌を損ねかねないことを言う必要もないと思い、無言で小さく肩をすくめた。

 下りの階段が憂鬱で、また大隈への呪詛の言葉を吐き出したい衝動に駆られたが、飲み込んだ。道連れもいて、重力に任せて降りられる帰りは、行きに比べれば天国だ。それに、正直こんな場所で、できるとも思っていなかった友達ができたことは、私も少し嬉しかったから。

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