とある夏の日

夕雨 夏杞

第0話

「海、見に行こう」


「いつ?」


「いまから」


そういうと彼女は、引きこもりの僕を外へと連れ出した。今日も今日とてすることはないし、かといって一日中家にいると、もはや誰に対するものなのかも分からなくなった罪悪感が、じわじわ押し寄せてくる。だから僕は、彼女に従うまま電車に乗った。



平日の昼間、比較的空いている静かな電車に揺られていると、ついうとうとしてしまう。


「寝てていいよ」


彼女のその言葉に甘えて、僕はゆっくり瞼を閉じた。電車の揺れが心地いい。このままどこか遠くへ、ここではないどこかへ行けたらなあとぼんやり考えていると、次第に僕の思考は夢の世界へと飛んでいった。





「……、おきて」



名前を呼ばれたような気がして、目を覚ます。

どうやら目的の駅に着いたらしい。


「ほら、いこう」


彼女は笑顔で僕に手を差し出す。

僕は仕方なく彼女の手をとり、ついて行く。それはまるで、お母さんが子どもの手を引いているようで、なんだか不思議な気分だった。


海の匂いがする。

海に来たのはいつぶりだろうか。


「ついたぁー!」


彼女は海の方へ走っていく。

僕は砂浜に腰を下ろして、その後ろ姿を見つめていた。波の音を聴きながらぼーっとしていると、彼女はまた僕の手を引いて、海の近くへと連れていく。


「気持ちいいよ、ほらっ」


そう言って水をかけてきた。つめたい。

けど、確かに気持ちよかった。



いつもより、見える景色がひとまわりもふたまわりも大きかった。世界の広さと同時に、自分の存在の小ささを感じて、僕は少し寂しくなる。僕の、僕たちの人生は、宇宙からみたら本当に一瞬なのだろう。だったら、何のために僕らは生まれ、死んでいくのだろうか。


だめだ。またぐるぐる考え出す。

僕は毎回、こうして考えるだけで疲れてしまって、行動までに至らない臆病者だ。

今日だって彼女が連れ出してくれなければ、家に閉じこもったままだった。



ゆっくりと深呼吸をする。



……もう、いいか。

どうせ一瞬の人生だ。

一日くらい羽目を外したっていいだろう。



「うおおおおおおおおおおおお」



叫びながら僕は海へ飛び込んだ。

自分の声なのに、僕はその大きさに驚いた。

ずっと、苦しかった。

そうだ、僕はこんなふうに心の底から叫びたかったのだ。

口に入った水が、しょっぱかった。



子どものように遊び切った僕らは、夕日に染る海を眺めていた。久々に身体を動かしたせいか、明日は絶対に筋肉痛だろうと確信する。


「来てよかったでしょ?」


彼女が微笑みかけてくる。僕はちょっと間を置いたあと、素直に


「うん」


と頷いた。僕の答えを聞いた彼女は、とても満足そうな顔をしていた。



「そろそろ、行かなきゃ」


「え?」


どういうこと、と言おうとした瞬間、急にぶわっと強い風が吹いた。

砂で目がやられないように、手で覆う。

風がおさまったあと、僕はなぜか嫌な予感がした。目を開けた時、それは予感ではなくなった。彼女が、どこにもいなかった。



僕は動揺していた。

彼女の存在は幻だったのか、それとも夢を見ていたのか、だとしたらどこからが現実で、どこからが夢なのか…。

それによっては自分の正気を疑わなければならない。彼女は……誰だ?

さっきまでは隣にいることが当たり前のように感じていたのに、今では彼女の顔も、声すらもあやふやになっていた。



僕は混乱して、少しばかり悩んでいたが、結局考えるのをやめた。どうしても、今日の思い出を汚したくなかったのだ。

いや、単に疲れすぎて、考える気力が残っていなかっただけかもしれない。


彼女は確かにいて、ふたりで海を見に来た。

僕らだけの真実があればそれでいいと思った。



そのあと、どうやって家に帰ったかはあんまり覚えていない。

だから次の朝起きた時、やっぱりあれは全部夢だったのかもしれないと思ったけれど、ものすごい筋肉痛が押し寄せてきたことに、僕はほっとした。


ずっと閉めっぱなしだったカーテンと窓を開く。


「わかってる、もうすこしだけ足掻いてみるさ」



そこにいたはずの誰かへ向けた僕の言葉が、朝の澄んだ空気に包まれていく。

微かに潮の香りが僕の鼻をくすぐった。

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とある夏の日 夕雨 夏杞 @yuusame_natuki

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