桐江の眠る地
真っ白い大地はさながら落書き前の画用紙のようだった。ただ、画用紙はクレヨンや絵の具で彩られていくが、この大地は色に染まることがない。壊れたものも朽ちたものは全て白く染まる。真ん中から折れたビルの残骸も、焼け落ちた街路樹も、飢え死にした犬も、全ての死せるものは白くなっていた。
昔は忙しなく人々が行き交っていただろう交差点を一人大きいザックを背負い歩く。人の気配が死に絶えた街はがらんどうとでも言うのが正しいだろうか。崩れたビルや風化した民家の前を、私の足跡だけが石膏を踏みつけたように彩っていく。
シャッターが壊れ内臓を吐き出したように内装が丸出しの店の前を通った。十年前はここでよくタピオカを飲もうと少女達が談笑していたものだ。十年、たった十年で世界は白くなってしまった。地上に住むにはなにかと不便になり、皆地下に潜ってしまった。
居住区のある地下では慎ましやかな生活が営まれている。贅沢はできないが飢えたり貧することはない。一生を終えるだけならそこで十分だろう。だが、私は外に出たかった。外に出る準備をする内に皆に変人呼ばわりされ奇異の目で見られた。外に出たらどうせすぐ死ぬと誰かに言われた。私はそれでも構わなかった。外を知らず母の胎内でぬるく朽ちるような生より、未知の世界へ一歩を踏み出し切り裂かれる死を求める方が私には魅力的に思えた。
家族の誰も私を見送らなかった。早朝、出発するときテーブルの上に数日分の食料と「帰ってきてください」と書かれたメモが置いてあるだけだった。
歩く最中白い犬が道端に横たわっていた。舌をだらしなく出し、肋骨の浮き出た姿は白くなければ思わず後ずさってしまうような姿だった。犬は彫刻のようにただ白く動くことなくそこにあった。触れると私まで白くなりそうだった。
白い景色に、私という点だけが色を持ち歩いていた。道路を辿って歩き続け、三日ほど経った。途中キャンプをしたり比較的損壊の少ない建物の中で休んだりしたが、外敵や脅威というものには何も出くわさなかった。都市から離れ、海沿いの道路を歩く。真っ白い大地に比べ、海は眩しいくらい青かった。空だってそうだ。いつか写真で見た地中海の様子のようにコントラストの効いた群青で頭上を覆っていた。雲もなく太陽だけがぽつりと輝いている様は、凪いだ海の中に石を投げ入れたような心細さがある。
遮るものがない日差しを頭から浴びて私は歩いた。遠目に薄く白い家が見える。岬に建っている家だった。ここから歩いて三キロほどだろう。私はその家で休むことに決めた。
岬の家はちょっとしゃれた洋風の家、という以外は特に何の変哲もない家だった。地面と同様白く染まっていて、色がない。ただ、人の気配があった。音があるわけではない。誰かが掃除機をかけているような、食器を洗っているような、そんな何かをしている気配だった。
地上に出て初めて生きている気配を感じ取り、緊張しながら呼び鈴を押した。家は静まりかえっている。気配なんて気のせいだったのかもしれない。構わずドアを開けようとノブに手をかける前に、内側からドアが開いた。
「なにかご用ですか?」
機械に読み上げさせたようなワントーンの声色と共に若草色の髪の少女が私を出迎えた。年の頃は十五、六頃、髪と同じ若草色の瞳は、どことなくこの家に似つかわしい気がした。
「ご用件はなんでしょうか」
まさか本当に人が出てくるとは思わなくて何も言えない私に、もう一度少女がのっぺりした声で問い掛ける。私はそこで初めて声を出した。
「ここに住んでいるんですか」
「はい、私とご主人様の二人暮らしです。あなたはどなたでしょうか」
「私はこの辺りを旅している者です」
無難な答えだが、間違いではない。少女は私の頭から爪先までじいっと見た後「お客様ですね」とだけ言って私を家に招き入れた。
家の中は白くなかった。外観から中も真っ白だと思っていただけに急に色づいた景色に目が痛くなった。応接間に通され目頭を押さえる私に少女は綺麗な紅色のお茶を出してくれた。飲んでみると紅茶とわかり、しばらくぶりの嗜好飲料に口元に笑みが浮かぶ。
「お客様、ご用件は」
招き入れられたものの用件などない。強いて言えばここで休みたいくらいなのだが、聞いてもらえるだろうか。
「しばらく歩きづめで疲れていたんです。もしよければここで一休みさせてもらえないでしょうか」
「ご休憩ですね。かしこまりました。ご主人様にお伝えして参ります」
少女は若草色の髪をなびかせて応接間を出て行く。応接間は小綺麗に整えられ花の絵が飾られている、やはり外観から想像できるような平凡な部屋だった。
それにしてもみんな地下に移り住んだのに地上に住んでいる人がまだいるなんて驚きだ。しかも生活をしている。もしかするとこの家はどこかの居住区に近いのかもしれない。そこから食料や生活用品を持ってきて生活しているのかもしれない。私のいた居住区は外に出たがる人はほとんどいなかったが別の居住区では思っているほど外への認識が甘いのかもしれない。そうだったら、息なんてつまらなくていいのにと思った。
「お待たせいたしました」
少女が戻ってきて私に一礼する。私もつられて礼を返した。
「その、ご主人様というのは? あなたの雇い主ですか?」
気になっていることを聞いた。
「ご主人様は私のご主人様です」
「そのご主人様にお会いしても?」
するとのっぺりした表情の少女は途端にぱっと笑顔を見せて頷いた。応接間から部屋まで案内すると言って後についていく。
「ご主人様、最近はずっと眠ってばかりで私が歌を歌って起こしてあげてもちっとも起きないんです。だからお客様が来てくれたらきっと喜んで起きてくれると思うんです」
嬉しそうに言う少女にせっかく地上にいるのにもったいない人だと思いながらご主人様とはどんな人か考える。研究者じみているか、裕福そうな男性か。もしかすると艶やかな女性かもしれない。廊下を抜けた先の寝室に入って私は目を見張った。
部屋は真っ白に染まっていた。この部屋だけが家の中と切り離されて外と繋がっているかのような錯覚を覚えた。そして部屋の中央、本を積み上げた蟻塚のような機械に囲まれて一人の男性が眠っていた。花茎を束ねたようなチューブが体のあちこちと繋がれていて、心拍計は触れることなく直線を刻んでいる。
「ご主人様、お客様をお連れしました」
絶句する私を余所に少女は嬉しそうに彼に話しかける。
「ご主人様がお探しでした人間ですよ。起きてください」
だが男は起きることはない。よく見れば首筋が白く変色していた。
「やっぱり起きないんですね、ご主人様。すみません、ご主人様が起きなくて」
「あなた、この人がどうなっているか知ってるの?」
「百八十二時間前にお眠りになってからの活動は確認しておりません」
つまり一週間以上前にこの人は死んでしまっているのか。
「あなたは一体誰なんですか?」
少女は若草色の瞳をまっすぐ私に向けて機械的に言った。
「私はU-32型アンドロイド、個体名をトアと申します。個体名はご主人様である桐江様より賜りました」
短編集 小野崎ともえ @onzk-tomoe
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