認められたいこと 3.
「壊してしまえ」
闇から囁きが聞こえる。
「いけないのなら、壊してしまえ」
壊す。何を。
「捨ててしまえ」
何を捨てろというのだろう。
本物を見ず虚構に自らを踊らせるならそんなものは壊してしまえばいい。虚構と空想だけが舞い踊る街なんて壊してしまえばいい。街を恋しく思う僕に囁く声は、夕闇の中全ての方角から聞こえてくるような気がした。夕闇の声は告げる。壊してしまえと。
街を捨て、海の底が全ての世界に戻れと夕闇の声は囁いてくる。本物を見ず虚構に自らを踊らせるなら、そんなものは壊してしまえばいい。それで得られる安寧の為にこれ以上街を知り傷つくのを避けるために、壊せ。
闇からの囁きは僕の心にじっとりと染みこみ、僕の意識を乗っ取っていく。アトリエに着く頃には僕の心はまっ暗になってしまっていた。
僕はランプに火を灯すことすらせずに纏めてきていた絵を取り出した。絵描きが溢れかえっている街の絵だ。僕はペインティングナイフをアトリエから取ってくると、容赦なく絵に突き立てた。そのままぐちゃぐちゃになるまでナイフで何度もキャンバスを切りつけた。僕は切り裂かれた街の絵を放り投げると次の絵へと手を伸ばす。もちろん、街の絵だ。暗いアトリエにナイフで斬りつける音だけが聞こえている。さながら過去の自分を殺しているような心地だった。
街を捨てればいい、街なんて知ったから僕は囚われてしまったのだ。だったら全てを壊そう。壊して元に戻してしまおう。街を知る以前の僕に戻るんだ。街の絵を殺して、殺して、殺し尽くしてしまえばいい。
僕は取り憑かれたように街の絵だけを切り裂いていた。それから僕はイーゼルに立てかけてあった絵へと目を向ける。昨日まで必死に描いていた街の油絵だ。ペインティングナイフを持ち直して僕はキャンバスにかけられていた布を払う。空想と現実を見た嘘がそこには広がっている。僕はペインティングナイフを振り上げた。これを殺してしまえば僕は解放される。僕の心は夢だけを見る心から解放される。
振り上げた腕が震えた。雑念を払うかのように首を振る。終わらせるんだ、これで。
でも、それで僕は本当に幸せになれるのだろうか。夕闇に染まった心は答えてくれない。振り上げたナイフを僕はゆっくりと下ろした。
アトリエで切り刻んだ絵をアトリエの外に放り出し、火を付けた。パチパチと火の爆ぜる音を聞きながら僕はまだ震えている腕を抱きしめた。結局、あの描きかけの絵は僕にとって無くてはならないものだった。炎に抱かれた僕の絵は様々な色の炎を上げて燃え盛っている。焼け落ちる絵を見る度街に囚われる。僕は虚構の街にどっぷりと浸かっていた。
何をしようとも僕は街から逃れることはできない。しかし街に行くこともできない。僕は焼き払った絵を眺めることしかできなかった。
ある時僕は島に行った。絵描き仲間に誘われて、僕は街ではない陸に上がった。鎖を引きずったまま、絵描き仲間と一緒に街の気分を味わおうとした。絵描き達と談笑し、僕は束の間の幸福感に包まれていた。しかし、僕の幸福感はすぐさま奪われることとなった。絵描き仲間が街の話を始めたからである。
街で、あの絵描きの通りで絵を売ると言った仲間の内の一人を皮切りに次々と他の絵描き達が街での活動を話し始めた。絵描き仲間の端くれだった僕に話が回ってきた。どこで活動しているのかということに海の底としか答えられない。僕は惨めだった。
そこではっきりとわかった。僕は街に行けないのだ。決定的に欠けているものがあるからだ。それは、僕の動く力だった。体が丈夫でも、精神が不十分だった。本当に街に行きたいのなら船の切符を買うはずだ。買えなかったらお金を貯めればいい。しかし僕はそれをしなかった。やろうと思えばできたことなのに、僕はしなかった。行きたいと夢の中でしか思っていない僕は実際何もせず指を咥えていただけなのだ。行動の伴わない夢は夢でしかあり得ない。僕にとって街は幻だった。幻でしかない街に僕は囚われる。そしてその甘い夢を見ながら街を思い描く。僕は結局街の甘い部分しか享受したくなかったのだ。
僕を縛っていた鎖も、本当は外せることを僕は知っている。だが僕はそれをしなかった。理由は一つ、外す気が無かったからだ。散々街に憧れを抱いていても、本心が海の底を求めていた。そんな感情で僕が街に行けるはずもない。そもそも街に行きたいと思っていることすら疑わしい。夢見てはいても、実際に行くという選択肢を選ぶだけの精神力が僕には無かったのだ。
島から帰ってきた僕はまた絵を描き始めた。今度は街の絵ではない。珊瑚の絵だ。街を忘れさせてくれる珊瑚に縋って僕は絵を描く。もう海の底にいるだけでいい。街のことなんて考えたくない。その一心で僕は珊瑚の絵を描き続けた。ありのままの珊瑚は僕の心を癒してくれる。街のことで勝手に傷ついた僕の心を癒すように勝手に珊瑚の絵を描いた。
僕の絵にはいつも空想が踊っている。珊瑚の前でも同じように。その空想を生み出したのは街という遠くて近い存在だった。
だから、街は嫌いだ。
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