認められたいこと 1.

 街は嫌いだ。

 決して行くことのできないあの街には雨が降らない。雨が海を作る世界で僕は海の中に住んでいる。乾いた土地が嫌いなわけじゃない。むしろ渇望しているほどだ。ただ、住んでいる場所が海の中にあっただけだ。幸福でも不幸でもなくただそこに僕はいた。

 僕は絵を描いている。それを道端で広げて買い手を待つ。海の中だ、当然魚ばかりが通り過ぎて、滅多に人は通らない。その滅多に通らない人を捕まえて、滅多に売れない絵を売って僕は僕でいる。僕がいる通りは海の底の中でも日の当たる場所で、たまに船の影が映る場所だ。あの船に乗れば街へ行けることは知っているけれど、僕は船に乗るだけのお金がない。僕にとって街は遠い幻のようなものだった。

 ある時引き止めた人にこんなことを言われた。

「街に行って売れば、君の絵はもっと売れるんじゃないかな」

 その人が言うには街にはもっとたくさんの絵描きがいて、絵描きがずらりと並んで絵を売る通りまであるらしい。そこではうまい絵描きや下手な絵描き、偏屈な絵描きに素直な絵描き、たくさんの絵描きがいるそうだ。絵が好きな人も海の底よりずっと多くて海から街へ行ったある絵描きは海にいた頃の倍以上も絵が売れるようになったという。

「君も街に行った方がいいよ」

 その人はそう言い残して絵を買わずに去っていってしまった。その時から僕の頭の中には街が作り上げられていった。僕以外にも絵描きのいる所、絵を買う人がたくさん通るという通り。僕は胸が高鳴った。一度でいいから街の絵描きの通りを見てみたかった。だが、僕は海の底の絵描きだ。陸には上がれない。海から陸へ上がった絵描きは何人もいる。でも自分がそうなれるかと言われたら首を振るしかなかった。

 街行きのバスにも船にも僕は乗れない。僕は海を出られない。僕は日の当たる海の底で来るかどうかも怪しい人を待ちながら水面を見上げた。船が一隻日の光を遮るようにして通り過ぎていった。船がかききった水の跡がのっぺりと残り、すぐに波にもまれてもみくちゃになって消える。揺れる水面に絵筆を持って、知りもしない街の形をなぞった。山は陸よりもずっと高いという。そびえ立つ岩壁を描き、その上にたくさんの家を描いた。絵描きの通りはどこにあるのだろう。家を消して、大通りを一本描く。その通りに沿ってたくさんの絵を飾る絵描きを想像しながら筆を落としていく。

 できあがった街の絵は岩壁に一本の大通りが通り、その脇を埋め尽くすように絵描きと絵がひしめいているものだった。それ以外は目だって何かが描かれるているわけではない。街を考えるといつもこうだ。好きなものばかりが鮮明に映って、それ以外はかき消えた船の軌跡のようになんの形も取らない。

 街にはきっと絵に興味のない人もいるだろうし、絵ではなく本を売っている人、食べ物を売る人、絵以外に関わる人だって大勢いるだろうに、自分の絵からはそんな人々は一切合切追い出されていた。ただ絵の為だけにあるだけの街。僕が描くのはそんなことくらいしかない街だった。

 海の底に届く日差しがうっすらと色付いてくる。今日も人は少なく絵も売れなかった。僕は壁に立てかけてある絵を一枚一枚しまい込むと住処代わりにしているアトリエへと足を向ける。そこは海の日だまりの底が遠く見える位置にあって、岩礁をくりぬいたような洞穴だった。そこが僕のアトリエであり、住処でもある。

 アトリエの入り口には珊瑚を飾っている。玄関先の珊瑚のランプに火を灯すと水の中でちろりと火が揺れた。それから薄暗いアトリエに入り、もう一つ室内用の灯りに珊瑚のランプを付ける。柔らかく暖かな色をした光がアトリエを照らす。このアトリエにある珊瑚は皆僕が海から集めてきたものだ。形は歪だけれど綺麗な色をしているもの、くすんで死にかけている色をしているが形が美しいもの、全て僕が集めてきたものだ。そして珊瑚のランプは僕が珊瑚を組み合わせて作ったものだった。

 不思議と珊瑚に囲まれていると心が落ち着く。街のことすら忘れるほどに珊瑚は僕を夢中にさせる。珊瑚は海の中にしかない。とりわけこんな原形を留めたものは海の底くらいにしかなかった。僕は珊瑚が好きだったが、街の珊瑚は好きではなかった。街に夢を見始めてから少しして、街の珊瑚を見たことがある。呼び止めた人が身に付けていたものだ。それはペンダントだった。金具のペンダントトップに綺麗な形に削り取られ磨かれた珊瑚がはめ込まれていた。それは確かに珊瑚だった。しかし、僕の知っている珊瑚の形をしていなかった。

 それは綺麗な珊瑚だった。日だまりの光を浴びて美しくきらめいていた。朱く光るその珊瑚には無骨さがなかった。歪さもなかったし、傷もなかった。綺麗といえばそれで済むかもしれないが、それ以外には何にも形容できないそれであった。ただの綺麗の塊、いうとすればそうでしかなかった。

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