第10話

牢屋の扉が、ギイィと音を立てて開く。日のあまり射さない、薄暗い牢獄に、細い身体が横たわっていた。ゲシュペンストは、ゆっくりとその身体に近付く。ぼろ切れのような姿で、知らない人が見たら罪人の死体だと思うだろう。牢屋全体が据えた臭いがした。

「メ、ロウ?」

その横たわっていた人間は、拷問のせいで殴られた顔が膨れ上がり、歯が抜かれ、見た目からはもう誰だかわからなかった。手足は折られ、その両手足の爪は半分以上なかった。身体中に痣と、熱した鉄を押し付けられ焼かれた痕がある。目を背けたくなるような変わり果てたメロウの姿だった。


けれども、ゲシュペンストは誰なのかすぐにわかった。愛しい、愛しい、彼が唯一愛した人間だったからだ。


「……メロウ……すまない……すまないっ」

ゲシュペンストはそっと、メロウの唇に触れる。ヒーリングの呪文を唱えると、浅かった呼吸が少し、楽になったようだった。しかし、ゲシュペンストは、治癒の速度を高める呪文しか知らなかった。それは、その人間の寿命を縮ませてしまう。メロウを完璧に元に戻すには、メロウの残りの人生の半分以上を費やさないと難しい。そっと頬に触れると、メロウの顎が微かに、動いた。両目は晴れ上がり、何も見えてない。

「メロウ」

ゲシュペンストはその唇に、自分の唇で軽く触れた。初めてのキスは、血泥のような味がした。家に帰れば、膨大な資料の中から、もしかしたらゲシュペンストの命を使って、メロウを治すことができるかもしれない。ゲシュペンストはメロウを抱き上げて、頬を寄せる。

「帰ろう、メロウ」

憎まれても罵倒されてもいい。こんなことになったのは、自分のせいだ。


化け物の自分が、愚かで、人間と仲良くするリスクを本当の意味で理解していなかった。


ビアンカの言う通り、メロウたちに迷惑をかけてしまう覚悟はあった。その、覚悟が、足りなかっただけだ。

「私のことを、憎んでいてもいい。恨んでもいい。お前が生きてさえいれば……」

ゲシュペンストが抱き上げると、気が付いたのかメロウが蚊の鳴くような声でゲシュペンストの名前を呼んだ。

「げ、ぺん……と、ご、め」

「しゃべるな…辛いだろう」

「ご、め、ん…げ……しゅ……と」

「なぜ謝る?メロウが悪いことなんてひとつもない。あぁ、メロウ」

メロウの顔に、ポタリと涙が落ちる。ゲシュペンストは初めて、メロウの前で涙を流した。

「生き延びて、私を殺してくれ」


それしか、償いの方法が思い付かなかった。




家についた後、ゲシュペンストはメロウをベッドに寝かし、ありったけの知識と魔術を用いてメロウの治療を施そうとした。しかし、メロウの寿命をつかわずに治すのは難しかった。最終的に、ゲシュペンストはビアンカを呼んだ。ビアンカは笑いながら、表れた。

「やっぱり、すぐに呼んだ」

「ビアンカ、メロウを治してくれ」

「代償は?」

「私の命だ」

そういうと、ビアンカはクスクスと笑い、「冗談じゃないよ」と首を横に振った。

「化け物の命なんて、貰っても嬉しくない」

「では、何を望む」

「メロウの魂」

「……メロウのではなく、私の魂ではダメか」

「人間の魂が一番美味しいんだよ。それも、純粋で清潔な魂がね……でも」

ビアンカはすっとメロウの頬を撫でる。すると、腫れていた顔が、綺麗に元に戻った。そのまま頭を撫でると、割れて血が流れていた傷が元通りになる。続いて口に指を入れると、歯が生えていた。その治療の早さに、ゲシュペンストは驚く。ビアンカは、メロウの唾液が付いた指をそのまま自分の口に入れる。そして、赤い舌を出して、メロウの剥がれた指を一本ずつ舐めると、舐めたところから爪ができていた。火傷を放置して腐り始めていた背中にも手を当てて、傷を治していく。

「……そんなに、力を使ってしまったら……」

魔術は等価交換だ。それをこんなに簡単に治してしまうだなんて恐ろしい。そういうとビアンカは口の端を大きく上げて、カカカと笑った。いつもとは違う、低く太い声音だった。

「何を言う愚かな、人間と魔物の間の子よ。これが真の悪魔の力ぞ」

ビアンカは最後に手足に触れる。反対側になっていた足が元通りに戻り、ついにメロウはかすり傷程度に元に戻ってしまった。

「代償は……」

「彼に直接聞こう」

そう言うと、ビアンカはゲシュペンストの左目を撫でた。

「君は治さない。人間を愛する覚悟が足りなかった罰だ」

「……かまわない。それより、アデリナはどこに?」

「僕の城だ。治療を施した。あの子の治療費は、嫉妬で醜い僕の写しのような少女の魂を貰った。アデリナも望んでいたしね。あの子は僕が育てる。実質、両親は子供たちを捨てたのだからな」

「………私が、捨てさせてしまった」

「ハハハ、違いない」

ビアンカはいとおしそうな顔でメロウの頭を再び撫でた。その表情は、先程と異なり、天使のように優しく愛情に満ちていた。

「最初に、メロウとアデリナが捕まって、アデリナが魔女裁判を受けた。可哀想にアデリナの小さな身体は拷問ですぐに悲鳴をあげ、悪魔と契約を交わしたと懺悔させられた。本当に、すぐだったからまだ綺麗なままでいられたよ。逆に、メロウの口は固かった。君との関係と、君の家の場所を何をされても吐かなかった。殺してしまう一歩手前で、メロウの母親が拷問されることになってね、メロウの父親が妻を守るためにお前のことを話したんだ。全ては森の化け物に仕組まれたんだと」

「……そうか」

「あんなにも、ボロボロになってまで、君を守ることなんて果たして必要だったのかな?」

ビアンカはチュッとメロウの額にキスをした。そして、ゲシュペンストの側に来て、ゲシュペンストの左目にもキスを送る。

「じゃあ、またね。もし、すぐにメロウに殺されたら、君の心臓を貰いに来るよ。以前に僕と契約した通りに」

「かまわない」

ビアンカは訪れたときと同じように、跡形もなく消え失せた。



メロウは三日間、眠り続けた。三日目の朝、ようやく目を覚ました。

「あれ……ゲシュペンスト?」

「メロウ」

ゲシュペンストはベッドの脇に座り、メロウを真っ直ぐ見ていた。左目には眼帯がしてある。

「ゲシュペンスト、その目、どうしたの?……ぼ、くは……なんで、ここに…」

話している最中にぶわっとメロウの両目から涙がぼたりと溢れ落ちる。メロウは顔を両手で覆って止めようとしたが間に合わなかった。

「ごめん、ごめんなさい、ゲシュペンスト。と、とうさんが、僕の、ペンダント、持っていっちゃって、に、にんげ、に、やられたんでしょう、その目………」

「かまわない。左目くらいお前にしたことに比べたら大したことじゃない」

「た、大したことだよっ……」

ゲシュペンストはそっと、メロウの頬に触れた。

「お前に、話をしなければならない」

「……うん」

「お前が捕まって、アデリナが魔女にしたてあげられた」

「そうだ、アデリナは?助けに行かないと、火炙りにするって」

慌ててベッドから抜け出そうとベッドの端に座ったメロウを、ゲシュペンストが抱き止めた。

「大丈夫、生きている………生きているが、ビアンカのところにいる」

「ビアンカ?」

「あぁ。火炙りの最中にビアンカが助け出してくれて治療もしてくれた。身体は元通りだが、心はそうはいかない。これからビアンカの城で、生きていく」

「母さんと父さんは?」

「エーファとカザスは町にいられなくなり、森へと逃げてきた。昔、ラントゥルが使っていた隠れ家の入り方を教えた。彼らなら、そこで二人で生きていけるだろう。もちろん、望めばメロウ、お前もだ」

「………もう、家族は一生一緒にいられないってことなんだね」

「私のせいだ……」

「違う、僕のせいだ」

家族がバラバラになってしまったのは残念だった。しかし、四人とも生きている。生きていれば、前を向いて歩いていける。

「僕の治療は、ゲシュペンストがしたの?」

「いや、ビアンカだ………悪魔との取引は代償が必要で、お前の意見も聞かずに治してくれと懇願してしまった」

「代償」

「お前が死んだあとの……魂が欲しいと言っていた」

「魂……」

メロウはゲシュペンストに抱き付く。そして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、ゲシュペンストの服で拭いた。

「辛い思いさせちゃったね」

「何を言う。私が悪いんだ。お前こそ、拷問を受けるだなんてつらかっただろう」

「うん。痛かったし、怖かった。なんであの人たちはこんなにも酷いことをするのかなって思った。自分の肉の焼ける臭いが、鼻から離れないや」

「っ、メロウ」

「でも、不思議。今でも怖いけど、ゲシュペンストの側なら落ち着く……ねえ、ぎゅっとしてくれないの?」

抱き締め返せなかったゲシュペンストに、唇を尖らせて、抱擁をせがむ。ゲシュペンストは恐る恐るメロウの背中に手を伸ばした。途端に、ゲシュペンストの目から涙がこぼれ落ちた。


「わ、私が、アデリナに宝石を渡してしまったから」

「うん」

「私が、メロウと一緒にいたいと願ってしまったから」

「うん」

「私が、私みたいな化け物が、人間がを愛してしまったから……」

「うん。でも、それっていけないことなの?もし、化け物が人を愛すのはいけないことなの?」


メロウは、ゲシュペンストの右目を見た。メロウの大好きな綺麗な赤い瞳がひとつ欠けてしまったのは残念でならない。

「ゲシュペンストが捕まったら、ぼくよりさらに酷いことをされると思って、拷問の時もゲシュペンストのこと絶対言わないって決めた。それなのに、結局僕は、君を守れなかった」

「メロウ」

「だから、償いをさせてほしい。君が、僕を……僕の家族を守れなかったと悔いるのであれば、僕も同じだ。僕も君を守れなかった」

「違う、お前は私と同じでは…」

「ゲシュペンスト、愛してる」

「なにを、言って……」

「愛してる。誰よりも、君のこと愛してるよ」


メロウはとても、穏やかな表情だった。教会の救世主を抱く聖母のように、深い愛情に満ちていた。


「この命に変えても、守りたいと思った。それってもう、愛なんだろう?僕は人間には二度と会わない。君と二人きりで静かな場所で暮らす。母さんと父さんとアデリナには悪いことをしたけれども、運命と思って諦めてほしい。過ぎたことは元には戻らない。アデリナはちょっと……気になるけど。ビアンカに数年に一回は会いたいとお願いしてみるね」

「……メロウ」

「ゲシュペンストの側に居させてくれる?」

「あ、あぁ」

「やだ、ゲシュペンスト泣いてるの?君のそんな顔、初めて見たよ」


クスクスとメロウは笑った。その顔を、再び見れるなんて夢のようだとゲシュペンストは思った。


自分みたいな化け物を、愛してくれているメロウの優しさに、救われてきた。


これからも、この優しさを望んでもいいのだろうか。

自分みたいな化け物が、愛を乞うてもいいのだろうか。


「メロウ……私は、君を愛してもいいのだろうか」

ゲシュペンストがそう言うと、メロウは眉を寄せた。

「当たり前でしょう。最初に愛してるって言ったのはゲシュペンストじゃないか」

「……そうだ」

「僕を愛して、僕に愛されて。君が悪魔でも化け物でも何でもいい。愛してるよ、ゲシュペンスト」


そのメロウの言葉は、孤独だったゲシュペンストの心に深く深く刻み込まれた。

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