第2話
***
メロウは焼きたてのパンとワイン、それに今日とれた新鮮な野菜を入れた籠を抱えて、森の中にある小さな家を目指して歩いていた。夜の森は暗くて松明がなければ前も見えない。何もなければとても怖いが、メロウには加護が付いているから怖くない。目的地に無事に辿り着き、扉を開く。がらんとしたリビングに、家主の姿は見えなかった。
「もう、まだ寝てるの?そろそろ起きる時間だよ」
独り言を言いながら、籠を机の上に置く。そこから中身を取り出して、メロウが勝手に決めた所定の場所へしまう。
「さてと……まずは野菜を切って」
棚から取った半分萎びた野菜を適当に切って鍋の中の水に入れる。それから暖炉に持ってきた松明を放り投げ、火が付いたのを確認して鍋を乗せた。少し煮込んでスープにした後、それを皿に盛り付けて質素な食事を準備する。そして、奥の部屋に入った。部屋は暗かったが、月明かりでうっすらと中が見えた。そこにあるベッドに、大柄の男が寝ていた。
「ゲシュペンスト、起きて。もう夕方だよ?」
メロウはベッドに近付き、ゲシュペンストの肩を揺らす。それでも、男は起きなかった。珍しく熟睡しているようだ。
「起きて、起きて」
ベッドにあがり、仰向けに寝ている男の上に、メロウは遠慮なく覆い被さった。体が小さかった頃からの習慣だったから特に変だと思わない。それくらい、ゲシュペンストとメロウには体格差があった。
「もう、起きてよ」
腹の上に、一人の青年が寝転がったのに起きないなんて、余程疲れているのだ。先週来たときに、大変な仕事を請け負ったと話していた。
「……つまんない」
無理矢理起こすこともできたが、そこまでする必要もないと判断し、メロウはぺとりとゲシュペンストの胸に頬をつけた。そして、その男の顔を凝視する。
怖い顔に、ナイフで抉られたとても大きな頬の傷痕。そして、閉じた口からはみ出している長く鋭い牙。額には丸みを帯びた骨のように固い角があり、今は閉じている瞼が開かれれば赤い瞳に自分が映る。4年前から、この男の異様な面立ちは変わらなかった。
彼を怖くないと言ったら嘘になる。御伽噺で出てくるような悪魔の姿は、親しみを持つにはほど遠い。けれども、メロウは知っていた。この、悪魔のような姿の男は、不器用だけれどもとても優しく、メロウを傷付けることは絶対にない。そして、いつも心の中で孤独を憂いていることを。
「この傷も人間につけられたのかな?」
すっと頬の傷を撫でる。ゲシュペンストは、生まれたときに人間に森に捨てられた。そして、その森に住む魔女と言われていたラントゥルに拾われて仕事の手伝いとして育てられた。そのラントゥルも、14年前に恋をした人間に裏切られて捕まり、磔にされて殺されたらしい。それから、人間に会わないよう、メロウに会うまで一人で生活していたそうだ。
「可哀想な、怪物」
小声で呟いた後に、でも、とメロウは思う。
でも、自分だけがこの男に側にいることを許されている。その優越感に、ぞくりと背中が疼いた。
4年前、ゲシュペンストが迷い込んだメロウを助けてくれた後、メロウは頻繁にゲシュペンストの家に遊びに来ていた。初めは暗くなったら帰っていたものの、ゲシュペンストの仕事が夜になってしまうため、いつのまにか、4日に1回はゲシュペンストの家に泊まるようになった。彼の仕事は魔女の薬を作ることだ。それ以外知らないし、知らなくてもいいと思っていた。
「ん……メロウ?」
「起きた?遅いよ、もうこんな時間だよ」
ゲシュペンストが目を擦りながら、眠りから覚める。窓から見える空は暗く、星が瞬いていた。ゲシュペンストは落ちないように、メロウの腰を抱きながら上半身を起こした。
「すまない、昨日寝るのが遅かったんだ」
「仕事は終わった?」
「あぁ」
「じゃあご飯にしよう。焼きたてのパンを持ってきたんだよ」
「ありがとう」
ゲシュペンストはメロウを抱き上げて、そのままベッドから降りた。
「重くなったな」
そうは言うものの、軽々しく持ち上げるゲシュペンストに、メロウはふふっと笑った。大人の数倍の力を持つ彼は、やはり人間ではないのだろうか。
「来月の誕生日がきたら16歳になるからね」
「そうか」
ゲシュペンストはメロウを下ろさずに、持ち上げたままリビングに向かった。子供のようにリビングの椅子に、すとんとメロウを座らせて、その前の席に座る。それからメロウが持ってきたパンと、先程作ったスープに口をつけた。
「冷めちゃった」
「いや、旨い。いつもすまないな。このパンも柔らかくて食べやすい」
「ううん。ゲシュペンストは放っておくと、生肉と固いパンですませちゃうから」
「生きるためにはそれでいいが……それに、お前が一緒に食べてくれるなら何でも旨い」
「ふふ、でも僕は生肉のディナーは嫌いだよ」
他愛のない会話。優しい食事。それらは全て、20年以上ゲシュペンストが与えられなかった愛情が感じられた。
いつか終わりがくるとわかっているのに、この幸せを少しでも長く味わいたくて……ゲシュペンストはメロウを手放すことができなかった。
***
次の日、メロウが帰宅すると、4歳になる妹のアデリナがパタパタと走りよってきた。
「おにいちゃん、おかえりなさい!」
「ただいま、アデリナ」
「また秘密のおうち行ったの?アデリナも行きたい!」
「ダメだよ、前に一緒に行ったとき、彼をみて大泣きしたじゃないか」
以前、アデリナをゲシュペンストの家に一度だけ連れていった。念のため、ゲシュペンストにはフードを被ってもらったのだが、フードから見える口の鋭い牙をみて、アデリナは怖がって大泣きしてしまった。それ以来、彼の元に人間を連れていったことはない。元々、妹以外の人間を連れていこうと思ったこともなかったので、変わらずゲシュペンストはメロウが独占していた。
「アデリナ、大きくなったから!もう大丈夫よ!」
「嘘だ。夜トイレにいけなくておねしょしたら怒られるのは僕だよ」
「メロウ、帰ってきたの?」
メロウの母であるエーファがリビングから顔を出して手招いていた。メロウはアデリナの頭をくしゃりと撫でて、「お部屋で遊んでおいで」と促す。リビングに行くと、エーファが座って刺繍をしていた。
「おかえり」
「ただいま。母さん、パンを分けてくれてありがとう。ゲシュペンストも美味しいって食べてたよ」
「まあ、良かったわ」
エーファはゲシュペンストを息子の命の恩人だと思っているので、よくゲシュペンストに食べ物を持っていきなさいと、メロウに持たせてくれる。
「来月、あなたの誕生日でしょう?何がいい?」
「なんでもいいよ。母さんがくれるならなんでも嬉しい」
「そう?何にしようかしら」
エーファが考えながら刺繍糸の色を変える。真っ赤な、ゲシュペンストの瞳の色だった。
「………その色、綺麗だね」
「あら、こんな真っ赤な色が好きなの?あなたは変わっているわね。アデリナは逆に濃紺が好きだなんて言ってたわ。正反対の兄妹ね」
エーファはケラケラと笑った。
「アデリナは紺色が好きなの?初めて聞いたよ」
「子供は好みが直ぐ変わるから……どうかしら」
丁度、リビングの扉が開く。メロウの父のカザスが猟から帰ってきたのだ。途中、アデリナに会ったのだろう。その腕には仕留めた鳥とアデリナを抱き抱えていた。
「おかえり、父さん」
「おかえりなさい」
「ただいま、あぁ、メロウ。ちょうど良かった。お前に話があったんだ」
カザスはメロウの隣の椅子に座った。いつにもなく真剣な顔をしている。
「何?」
「隣町に靴屋があるだろう。実はそこのヒルダの娘のレオノーラとの結婚話を持ちかけられてな。お前、どうだ?」
何を言われたのかわからず、メロウは固まる。
「え?僕?」
「今月、17になるらしい。お前も来月16歳になるだろう。年も近いし、何より相手がお前を気に入っているらしい」
「気に入っているって……その人と逢ったことはないよ」
「町の祭りで、アデリナを抱いたお前を見たんだそうだ。少々夢見がちな女性ではあるが、話を進めてもいいか?」
「ちょっと待って、まだそんな……」
「いい話じゃない!母さんも賛成だわ!」
「母さん!」
メロウは慌てて首を降った。まだ、結婚なんて考えたこともない。人を好きになったことすらないのだ。
「とりあえず、少し考えさせて」
「好きな子でもいるのか?」
「いや、そうではないんだけど」
「なら、こういうことは早い方がいいぞ」
「そうよ」
にこにこと笑う両親に、メロウはそれ以上反論ができなかった。
「結婚、することになったみたい」
ゲシュペンストの家に行くと、珍しくゲシュペンストは暖炉の前に座っていた。どうやら古い本を読んでいたらしい。傍に寄ると古くさくて黴の臭いがした。何が書いてあるかはわからなかった。メロウたちの文字ではなかったからだ。
「メロウが?」
「うん。断れなかった」
「………そうか。こういうときは、おめでとうと言えばいいのか?」
「別におめでたくないから、言わなくていいよ」
実のところ、メロウは不満だった。知らない女性を愛せるのかなんてわからないし、勝手に結婚相手を決められるのも腹が立つ。本から目を離さない男の隣に腰かけて、ゲシュペンストの腕にもたれ掛かった。
「ゲシュペンストは結婚しないの?」
「こんな見た目で結婚しようと思うやつがいるか?」
「僕、ゲシュペンストの見た目好きだよ」
「………お前は特別だ。もっと自分が変わっていることを自覚しろ」
そう言いながら、ゲシュペンストは照れていた。そのたまに見せるゲシュペンストの表情がメロウは大好きだった。
「………結婚したら、ここに来る時間が減っちゃうんじゃないかな」
「……………」
「いっそのこと、僕、ここに住もうかな。やっぱり結婚はしませんって言って」
「……………駄目だ。私はお前は幸せになって欲しい」
「僕は十分幸せだよ」
「………まだ、知らない幸せもあるだろう」
「じゃあ、ゲシュペンストは、僕が君より結婚した女性の方が大切だって言ってもいいの?」
「……その方が正しい」
その言い方に、胸がもやもやとした。これではまるで、メロウの片想いだ。ゲシュペンストだって、メロウのことを誰よりも大切だと思ってくれていると思っていたのに。メロウはゲシュペンストから体を離し、無言で隣の部屋の扉に向かった。
「メロウ?もう寝るのか?食事は……」
「正しいってなんだよ!!ゲシュペンストのバカ!!」
ヒステリックに叫んで、メロウは扉を閉める。寝室には机と本とベッドしかない。そのベッドに戸惑うことなくダイブして、布団を頭から被る。しばらくすると、ゲシュペンストが部屋に入ってきた。そして、メロウの布団を覗く。
「メロウ、泣いていたのか」
「うるさい」
「泣くほど、結婚が嫌なのか?」
「そこじゃないよ……」
ゲシュペンストはメロウを布団ごと抱き締めた。そうして昔から変わらない駄々の捏ね方だと心の中で笑う。泣いた子を落ち着かせるのは、抱き締めてやることが一番効率がいいと、ゲシュペンストはメロウで学んだ。自分が子供の頃は、そんなことはできなかったから、素直なメロウが羨ましくて、とても愛おしい。
「メロウ、食事をしてから寝ろ」
「……食べる気分じゃない」
「じゃあ、私だけで食べてしまうよ」
「いいよ」
「寂しいことを言うな。お前が来ているのに一人で食べるなんてとても辛い」
それは本音だ。メロウがいない食事は、とても寂しい。メロウはようやく布団から顔をだした。
「僕が居ないと、寂しい?」
「あぁ。おいで」
手を伸ばすと、メロウはゲシュペンストの首にぎゅっとしがみつくように抱きついてきた。そのまま持ち上げて、布団から引き出す。
「お前がいなくなったら、もう私は生きていけない」
「本当?」
「本当だよ、愛しいメロウ」
ゲシュペンストの言葉に満足したのか、メロウはようやく笑顔を見せてくれた。
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