夕闇列車 2.
時計は六時二十五分を指している。この雰囲気がどことなく気に入って、もう少し休もうとベンチに腰を下ろし、息を吐いた。
遠くからごとごとと列車の走ってくる音が聞こえてきた。こんな時間のこんなところにも列車は走っているようで、ベンチの背もたれに体を預けながらどんな列車が来るのかと予想してみた。貨物列車ならもっと早く走っていくだろうし、快速列車なら少しはスピードを落として通るかもしれないがその音はずっとゆっくりと走っていた。人が乗る列車だろうか。そう考えている内に列車がホームに入ってきた。
ホームに止まった列車は今の列車より大分古い車両で、観光目的でもなければ走っていないようなものだった。一両だけの列車の中は明かりがついているものの、中に誰か乗っている形跡はなかった。この時間帯のこんな駅だから、誰も乗っていなくても当たり前なのだろうか。停車した列車をベンチから眺めていると、手動のドアが開いて影がふっと乗り込んでいった。いつの間にいたんだろう。闇に紛れて見落としていたのか、列車がくるタイミングに合わせて現れたのだろうか。列車の中で影は持っていたボストンバッグを網棚に乗せてどっかりと座り込んだ。半透明な影の向こうにはがらんとした座席が見える。目を凝らしてみても、他に誰か乗りこんだ様子はない。行き先のわからない列車だけど、不意に乗ってみたくなった。
どこへ行くのだろう。たったそれだけの興味が自分を突き動かした。ふらふらと引き寄せられるようにドアに手をかける。閉められたドアを開けようと力を込めると、拍子抜けするほどあっさりとドアは開いた。目に入ったのは古びた車内といつの時代かもわからない古いビールの広告だった。この列車に乗れば、自分の知らない場所に行けるかもしれない。そんなことがふと頭に過ぎる。なぜそんなことを思いついたのかすらわからずに一歩車内に踏み出そうとした。
がちり、と歯車の音がして時計が針を進める。その音に驚いて車内に踏み出そうとした足を引っ込めた。すると手動だったドアが独りでに締まり、急なできごとに思わず列車から離れてしまう。
それに合わせて列車の汽笛も鳴り、ゆっくりと動き始める。影を一つ乗せた列車は車両のライトで遠く先まで線路を照らしながら走り去ってしまった。
時計を見ようとして顔を上げる。二十五分で止まっていた時計が五分飛んで六時半を差していた。五分間もの時間ではなかった。せいぜい一、二分のできごとだったのに時計は何事もなかったかのように動き続けている。列車はもういなくなってしまった。改めて線路を見やると、線路の上には伝線がないことに気付いた。あの列車は伝車ではなかったのだ。
そんな事実に気付いて夕闇というには濃すぎる闇の中でぽつんと照明に照らされていた。
もしあの時時計の音を気にせず列車に乗り込んでいたらどうなっていただろう。自分の知らない何者かによってここに戻れなくなってしまっていたとしたら。
そんなことを考えていたらうっすらと背筋が寒くなった。そしてあの列車は異界行きの列車だったのかもしれないとふと思った。
異界とはこことは違う別の世界のことだ。パラレルワールドであったり黄泉の世界であったりともすれば全く違う異次元空間であったり異界はこの世界ならざるものの溜まり場だ。行くことはできても帰ってくることは本当に稀で行方不明になる人の三割ほどが異界に足を踏み入れたことによるものだったりする。
あの影は異界に行きたかったのだろうか。むしろ異界に帰りたかったのかとすら思う。この世界から異界に行くものは少なくても異界からこの世界にやってくるものはずっと多い。中には旅行感覚でこの世界を訪れるものだっている。影もその一種で異界からの来客として捉えられている。その影が乗り込んでいったのだからもしかしなくてもあの列車は異界行きの列車だったのだろう。
「へっくし!」
そんなことをなんとはなしに考えていれば急にくしゃみをしてしまった。ぐっしょりと濡れていたジャージが足にまとわりつく。夜の静かな冷え込みに熱を奪われ、また違った意味で寒気がしてくる。
「もう、帰らないとね」
今までのできごとと自分を切り離すように口で言うと、立てかけてあった箒と山菜の入ったカゴを手に取った。帰ったらすぐお風呂に入ろう。ジャージは洗濯して自分の体も綺麗に洗ってさっぱりしよう。それを楽しみに異界へのえもいわれぬ雰囲気から脱しようとできるだけ前向きに考えて駅から飛び立った。
暗闇が深くなる夜の道を街灯を頼りに進んでいく。うねる街灯の道の先は煌びやかな明かりの集まりが先ほどの列車の雰囲気とはまるで違う人の息づく気配を感じられて寒気も退いていった。早く家に帰ってさっぱりしよう。それから明日からの生活をまた考えよう。
そう思って星のようにきらめく街へと帰っていった。
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