ラメセスの帰還そして出兵

第1話 噂の第四王子

 魔術使いの王子が混沌の魔物に闘いを挑み、勝利を収めたらしい。


 今、まことしやかに囁かれている噂である。


 闇と混沌の大蛇アペピ。それをエジプトの第四王子が打ち破ったというのだ。


 アペピは悪の化身ともいわれており、最も偉大な太陽神ラーの天敵である。夜の地下世界ドゥアトを進むラーの行く手を阻み、秩序を破壊し、冥界へと旅立つ死者の魂を喰らうアペピは、平穏を尊び死後の世界に希望を抱く古代エジプト人にとって最も忌むべき存在であった。

 

 どこぞの国の王子が悪の化身を打ち倒した、という話だけであれば、街中で吟遊詩人がおひねり欲しさに歌っている詩と大差なく、国民はそれほど興味をそそられなかっただろう。神魔を題材にした語りなど、腐るほど転がっているお伽話の一つに過ぎないからだ。だが自国の王子、それもあのラムセス2世の息子が実際にそれをやったと言うのだから、沸かないわけにはいかなかった。


 ここ新都ぺル・ラムセスでも、古都メンフィスから来たという露店商がアペピと第四王子の闘いをネタにして、客を引きとめているところであった。第四王子のネタは、今や客引きの道具としてうってつけなのである。


「あたしゃ確かに見たんですよ。神殿を腹に収めちまえるほどでっかい蛇が、夜空に浮かんでましてね。しかもとんでもねえ暴風でさ。立ってられねえほどでしたぜ」


「へえ、それじゃあアペピは消えちまったのかい」


「いや。結局アヌビス神が出てきて地面の底に引きずり戻したっちゅう話なんでさ」


「なんだい。そんじゃ勝利したとは言えねえじゃねえか」


「でもね。以前贔屓にしてた装飾細工師の母親が言ってたんですが、『うちの息子はカエムワセト殿下に蛇の魔物から救ってもらった』って。アペピの事じゃねえのかね? それからなんでも、プタハ大神殿の神官二人がその闘いで命を落としたとか」


「よく分んねえな。カエムワセト殿下は結局、何をなすったんだ?」


「とにかく、どえらい魔物相手にとんでもねえ魔術をお使いになって子供を救ったってのは間違いねえみたいでさ。メンフィスじゃカエムワセト殿下を賢者だとか魔術師だとか呼ぶ奴が後を絶たねえんです」


「ちょっと待てよ。カエムワセト殿下が賢者? 確かにお優しい方だし魔術にも通じておられるが、ありゃ腑抜けだぜ。ラムセス陛下ならいざ知らず、勇猛果敢に戦う姿なんざ想像出来ねえや」


「腑抜けでも賢けりゃ賢者なんじゃありません?」


「はあ。それじゃあ、腑抜けの賢者か」


「お客さん上手い事言いますねえ。で、どうです? この布はそのカエムワセト殿下がよく纏っておられるショールと同じ蒼ですぜ。これを着たら、お子さんはさぞかし利発になられると思いますよぉ」


 このやり取りはほんの一例である。

 大抵はこのようにして、エジプト第四王子カエムワセトの噂は、古都メンフィスを始発点として、南のテーベ、北の新都ぺル・ラムセスへと瞬く間に広がり、果ては国境を超えて西はリビア、東はアラビア、北はヒッタイトまで届いたのである。

 噂の運び主は、やはり大半が商人であった。


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