第2話 喰い逃げ容疑をかけられた忠臣達

「無銭飲食?」


 カエムワセトは眼を丸くして訊き返した。


「はい、さようでございます」


 ファラオの執事が無表情に答える。猫背の上に、ぼんやりとした表情を滅多な事では崩さない彼は、まるで葬式の参列者のようだ。


 朝一番、執務室のど真ん中でカエムワセトを待ち構えていた執事の姿は、大きな赤土の塊の如く不動だった。カエムワセトの脳がそれを人だと判別した時、穏やかさに定評のある彼も流石に悲鳴をあげかけたのだ。


「おぉ……っと」という声だけで何とか驚きを抑えた王子に、執事は「おはようございます」と曇り空のような挨拶をすると、城下町の飯屋から使者が来ている旨を伝えた。三月ほど前から新たにカエムワセトの従者になった少年二人が無銭飲食の疑いをかけられ、拘束中である、と。


「まさか。ジェトとカカルは無銭飲食なんかしないよ」


 カエムワセトは笑った。

 なにせ二人は元盗賊である。盗賊、というと無銭飲食など朝飯前だと思われるが、大事な点は『元』という事実にあった。


 退団は裏切りとみなされる盗賊団を抜けるのは、命がけ。それを承知で、堅気になろうと団から逃亡した彼らが、市街で罪を働くとは、カエムワセトには思えなかったのだ。


「使者からの説明によると、彼らはスリに遭ったと申しているそうです。アーデス殿に支払いを頼むよう言いつかって来たらしいですが」


 アーデス、とはアジア系民族の血をひいた、エジプトの傭兵である。ファラオ、ラムセス二世の戦友であり、カエムワセトの武術の師でもある。今は、ジェトとカカルの武術指導の一端も担っている。王宮に知り合いが少ない二人にとって、アーデスは最も頼りやすい人物と言えるだろう。

 だが、残念ながらアーデスは留守だった。今朝早くからラムセス二世の所要で建設中のハトホル神殿にでかけている。昼までには戻ると言っていたが……。


 カエムワセトは少し思案した後、「私が行くよ」と言った。その瞬間、執事のどろりとした目が、ほんの少し見開かれる。「殿下自らお迎えに行かれるのですか」と、執事は血色の悪い唇をいつもよりやや大きめに動かした。


 無駄に顔面筋を動かさない執事の表情を引き出せた喜びに浸りながら、カエムワセトは「待たせるのも悪いからね」と答えた。執務室をぐるりと見渡す。

 石の床に敷かれた絨毯の上には、書記用の机が置かれてある。その上には筆記用具、赤と黒のインク、水差しとカップ。そして、窓辺には椅子。葦で編まれた籠には今日片付ける予定の書簡が山積みになっている。棚には方々から収集したり、神殿の図書館から借りて来た書物が隙間なく積まれている。


 殺風景ではないが、飾りが一つも無い自分の部屋は相も変わらず華が無いなと思いながら、最後に、カエムワセトは部屋の隅に置いてある箱に目を留めた。衣裳箱だが、中には未使用のパピルス紙(パピルスというカヤツリ草科の植物から作られた紙)の束が入っている。


 カエムワセトは「あ」と小さく微笑むと、箱の蓋を開け、一番上のパピルス紙を手にとった。慣れた手つきでくるりと巻く。


 パピルス紙は、朝食代に色をつけるには丁度いい。古代エジプトでの買い物は基本、物々交換なのである。



 パピルス紙を受け取った飯屋の女将は大層喜んでいた。なにしろそれは上質で、提供したパンとスープ二人前の倍の価値があったからである。


「なんか悪いねえ、こんな良い物貰っちまって」


「いいえ。二人をメジャイ(警備隊) に突き出さず、使者を送って下さってありがとうございました」


 ご高配に感謝いたします。とカエムワセトは深々と飯屋の女将に頭を下げた。


「嫌だどうしよう。噂の王子様に頭下げさしちまったよう。しかもこんなボロ店で恥ずかしいったらありゃしない」


 女将はふっくらした両手を頬に添えると、恰幅の良い身体を左右に揺らした。

『ボロ店』の下りで後ろにいた旦那らしき男が、ジャガイモの皮を剥きながら顔をしかめる。女将とは対照的に、旦那は痩身だった。


 女将はボロ店と言ったが、その飯屋はごく標準的な造りだった。日干し煉瓦の建物の表面を漆喰で固め、軒先には陽避けの布をぶら下げ、店内は客の人数に応じた大きさの敷物が幾つか広げられている。


 カエムワセトは、謙遜で笑いをとろうとした女将に愛想笑いを贈ると、店内の端っこで教師の説教を待つ生徒のように行儀よく座っている従者二人を顧みた。そして、首を傾げる。何故か、カエムワセトを見る二人の目には恨みが籠っているように感じられた。


 双方、しばし黙って見つめ合うこと数秒。ジェトが、フクロウの様な目を吊り上げて、唸るように言う。


「どうして王子が来ちゃったんすか。ただでさえ無銭飲食だなんだの騒がれて肩身が狭いってのに、あんたの手まで煩わせたと知れたら俺らライラにどんな仕打ちを受けるやら」  


 はやり口にしたのは恨みごとだった。


 しかし、カエムワセトは合点がいったとばかりに「ああ」と呟くと、口元に手を置いて考えた。確かに、この事を彼女が知ったら悲惨だろなと想像する。続く思考で、ジェトへの受け答えとして『血祭り』 という単語が頭に浮かんできたが、それはあえて口には出さず、カエムワセトは二人の上官である近衛隊長を擁護する事にした。


「ライラは怒ると恐いけど、根っこは優しいよ。今回は二人に非はないんだから、きっと悪いようにはしないさ」


「またそんな聖人みたいな事ゆって!」


 嗚呼っ! という叫声を発したジェトが、両手に顔を埋める。


「あいつはセクメトっすよ! ごろにゃん鳴いてるのはあんたにだけって知ってるくせに!」


「そんな。猫じゃあるまいし」


 カエムワセトは苦笑う。


 ライラは、かつて所属していたエジプト軍で『セクメトの化身』と呼ばれ恐れられていた。


 セクメト、とは雄ライオンの頭を持った女神である。その昔、人間が太陽神ラーに抗おうとした時に地上に遣わされ、人間を殺しまわって罰を与えたという殺戮と戦闘の神でもある。つまりライラはそれほどに血の気が多く、怒らせたら怖い、というのがあだ名の由来ではあるのだが、実際、ライラは幸か不幸かタテガミの様な赤毛を持ち、面ざしも猫科の大型肉食獣を連想させた。彼女の捕食者然とした眼元を思い出すと、カエムワセトはつい頬が緩んでしまうのだが、そんな人間は自分だけだろうという自覚も、カエムワセトにはある。


 ジェトの隣で正座しているカカルはどうしているのだろうとふと見ると、歯を食いしばって静かに泣いていた。


 盗賊出の少年達をこれほどに恐れさせるとは、自分の幼馴染も天晴れであるとカエムワセトは思った。


 しかし、いつまでも店内で騒がしくしているわけにもいかない。カエムワセトは十六歳と十三歳の少年の腕を掴むと、「とりあえず帰ろう」と立たせた。


 カエムワセトにとって、今のこの時期、街でぶらぶらするのは賢明では無かったのである。



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