第72話 生ける屍

 愛用の弓と、矢で十分に満たした矢筒を背負い、カエムワセトが残していった耳飾りと指輪を小袋に入れて腰布に括りつけたライラは、用意万端とばかりに鼻息をふんと吐いた。


「よし!これで大丈夫。魔術なんか怖くない!」


 己に言い聞かせるように、両頬を叩いて気合を入れる。

 だがやはりまだ不安だったようで、もう一度「魔術は怖くない!」と繰り返した。


 隣で見守っていたジェトが、「やっぱり怖いんじゃねえか」と呆れる。


 転移の呪文を刻んだ水を二つの小瓶に分けたテティーシェリが、ライラに歩み寄る。


「一回の移動で一本分です。身体にかけてください。あとは上手くいくよう祈って。初めて作ったものだから、出来栄えは私にも分りません。もし、殿下の元に到達できず困った時には、もう一本を使って下さい。道標には、これを」


 そう言うと、テティーシェリは自分の髪から飾りを一つ取って、小瓶と一緒にライラの掌に握りこませた。


「落とさないでくださいね。必ず生きて会いましょう」


 テティーシェリからの言葉に、ライラは力強く頷いた。


「しっかりやれよ」

 アーデスがライラの背中を叩く。


「無茶すんじゃないわよ」

 パシェドゥは涙目である。


「会えてよかったよ」「無事に辿り着きますように」

 ダリアとヘレナが順番にライラを抱きしめた。


「王子とサシバに宜しく」「幸運を」「また会えたらいいの」

 ティームールとイネブがライラの肩に手を置いた。ギルは背が足らず、ライラの手に触れる。

 

 弟を代表して、ネベンカルが「じゃあな」と仏頂面で言う。


「息子を頼む。ラーの導きを」


 最後に、ラムセス二世がライラの額を親指で撫でた。

 ライラは深く礼をすると、続いて部下であるジェトとカカルに微笑んだ。


「じゃ、後は頼んだわ」


 いつも通りの溌剌とした口調と笑顔で言ってきた上官に、元盗賊の二人は頷く。


「また後でな」


 ジェトがさっと手を上げた。平静を装ってはいるが、顔は緊張している。

 二つの小瓶の内一つとテティーシェリの髪飾りを小袋に入れると、ライラは残る一つ瓶の封を取った。中の水を、まんべんなく全身にかける。


 すぐに、身体の中で何かが剥がれていく気配がした。目には見えないが、確実に己が分裂している事を感じる。

 ライラは思わず身震いしたが、『大丈夫』と『平常心』を心の中で何度も唱え、平静を保った。


「あっ!」とカカルが声を上げた。「透明になってるっス!」


 ライラは自分の掌を見た。確かに透けている。掌を通して地面が見えている。


 次の瞬間、急激に持ち上げられた様な感覚を覚えた。


「水盤で見守っています。御武運を!」


 アンナの声が足元に聞こえた。下を向くと、豆粒ほどに小さくなった仲間達が見えた。

 アンナの離れ。ダプール城の屋根。ダプールの街。丘の稜線。平原と山脈。全てが眼下にある。

 空に浮かんでいる、と認識出来た時には、枯れ葉が暴風に吹かれた如く飛ばされた。


 ライラは恐怖でぎゅっと目を閉じだが、身体は無意識に、軍で教えられた通り少しでも損傷を減らそうと両膝を胸に引き寄せ小さくなり、手は弓と小袋を落とさないよう強く握った。


 身体がくるくると回転しながら移動しているが分った。が、やがて、移動速度が緩まり、身体の回転が止まった。曲げていた四肢を怖々伸ばし、薄眼を開けると、景色が一変していた。

 ライラの真下は砂漠だった。そこに、大勢の人間がいる。エジプト軍だった。戦車を疾走させ、ラクダに跨った兵士達を囲いこんでいる。遊牧民の服装から、リビア兵だと分った。


 もう到着したのか。ライラは驚いた。体感では五分も浮かんでいない。


 ここが目的地ということは、カエムワセトもいるはずである。

 ライラは沢山の小さな人形が蠢いているような戦場の光景の中に、必死にカエムワセトの姿を探した。しかし、シリアの服を前提に探していた為、やすやすとは見つからなかった。


 そのうち、戦場のそこここからダプール城の浴室で見た様な砂の柱が幾つも発生した。確か、パシェドゥは『たつまき』、と言っていたか。それはエジプト兵達を狙って滑るように移動しながら、兵士達を風に巻き込み、吹き飛ばしてゆく。


 ライラはぞっとした。

 こんなものに、普通の人間が叶う訳が無い。肉体の鍛錬も戦闘訓練も無意味である。


 その時、その『たつまき』に対抗するように別の『たつまき』が起こった。よく見ると、最初に起こったものと反対側に渦を巻いている。

 相反する力で打ち消そうとしているのか。

 ならばこの『たつまき』を作りだしているのは、カエムワセトにちがいない。

 

 どこだ。殿下はどこにいる。


 ライラは目を凝らして探した。しかし、混乱を極めている上に砂塵で覆われ視界が悪い。


 駄目だ。見つからない。

 ライラは舌打ちした。

 しかし、視界の隅にふと不動の物体が目に入る。リビア側の最深部。人一人分が入るくらいの小さな天幕。


「リラ」


 そこで、ライラははっとした。

 そうだ。本当にカエムワセトの助けになりたいのであれば、自分が行くべき場所はカエムワセトの隣ではない。エジプト軍でもない。


「私が行くべき場所は――っ!」


 ライラは小さな天幕に向かって思いきり腕を伸ばした。そこに身体を持って行こうと、全神経を集中させる。


 あの天幕の中へ。リラの元へ。

 ライラは念じた。


「リラーっ!」


 意図せず叫ぶ。

 次の瞬間、身体が何かに引っ張られる様な感覚を覚えた。一瞬のうちに天幕が近くなっかと思うと、景色が変わった。


 光が遮断された薄明かり。白い布天井。背中には柔らかな感触。

 

 空に浮かんでいた先程までとは違い、身体が床に張りついているような感覚である。


「重い……」


 腕を持ち上げ、両膝を曲げるまでに少し時間を要した。

 やっとの思いで上体を起こした時、ライラは目の前にあるものに驚き、眼を見開いた。


「リラ!」


 とっさに身を乗り出したが、まだ身体を上手く動かせず前に突っ伏してしまう。何となく、バラバラになったものがまだくっ付いていない感じだった。

 だが、口は動く。


 床に落ちた上体をぐぐぐと起こし、ライラはリラの細腕を掴んだ。


「リラ、迎えに来たわ!一緒に逃げましょ!」


 だが、リラからは何の反応も得られなかった。

 瞳は虚ろだった。ぼんやりと前を見て、口を小さく動かしライラには聞こえない言葉をぶつぶつと呟いている。その表情には何も存在しなかった。リラ特有の薄い微笑みすら無い。両手を膝の上に添えて床に座っているだけの生ける屍である。


「私に気付いていない……」


 ライラは愕然と呟いた。

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