第70話 黒き大地のもののふよ

 リビア軍が体勢を立て直している間、エジプト側も編成を整えた。


 エジプト軍は既に六千を切っていた。対するリビア軍は一万以上。約倍である。しかし、エジプト軍は個々の兵力が非常に優れており、装備も一流だった。

 そもそも、カデシュの戦いですら最初から敵方と倍以上の兵数の開きがあったのである。兵の数は必ずしも兵力に直結するわけではないという事を、エジプト軍は熟知していた。


 敵方の魔術師への抑止力を獲得した今、まさにエジプト軍にとっては本領発揮のチャンスである。


 瀕死の重傷を負っていた皇太子が助かった事もあり、最高司令ラメセスは再び戦意を取り戻していた。これ以上はもはや一歩たりとも退かぬという気概の元、各隊の司令官と共に軍の再編成を終えたラメセスは、弟とまだ目の覚めない兄がいる天幕に戻って来た。


「必要ないかもしれんが、一応何か持っておけ。ケペシュにするか?」


 戻るなり、丸腰でやってきた弟の為に武器を選びだす。


 カエムワセトはシリアの服を脱ぎ、エジプトの戦闘着に着替えていた。皮鎧はラメセスの予備を借りたので少し大きいが、着られない事もなかった。


 自分専用の武器箱の中から弟の手に合いそうな武器を選ぶラメセスの背中に「なんでも……」とカエムワセトはやや上の空で答えた。

 口に出すべきかどうか迷っている頼みごとがあったが、やはりこの機会を逃してはならないと思い、最高司令である兄に交渉を持ちかける事にする。


「兄上。魔術師からの攻撃は全て私が引き受けます。その代わり、一つ聞いて頂きたい頼みがあるのです」


 ラメセスは「頼み?」と後ろを向いたまま聞き返したが、やがて一振りの剣を手に戻って来ると、カエムワセトの胸にその剣を押し当て「なんだ?」と内容を訊ねて来た。


 カエムワセトは胸に当てられたシンプルな中型の剣を受け取ると、相手方の魔術師の処遇を自分に一任してくれと願った。


「やはりお前の知り合いだったのか」


 弟の思いつめた様子を見たラメセスは、その精悍な面ざしを曇らせた。


 相手方の魔術師の特徴がアメンヘルケプシェフの証言通り、リラという少女と合致していた事から最悪の場合として想定してはいたが、杞憂で終わらなかった事をラメセス自身も残念に思った。


 間違いなく。とカエムワセトは頷いた。


「リラが捕まったのは私のせいです。責任をとらせてください」


 弟の物言いに、リラが捕まった経緯を知らないラメセスは不思議そうに眉を寄せた。しかし、詳細を求めるのは弟の心労を増やすだけだと考えた兄は、追及はせず、結論だけ与える事にする。


「お前が何に責任を感じているのか俺には分らんが、この戦局に導いたのはお前の力だ。好きにしろ」


 その返答から兄の温情を察したカエムワセトは、泣き笑いの様な表情を浮かべると「ありがとうございます」と静かに頭を下げる。


 カエムワセトから一種の覚悟を感じ取ったラメセスは、煮え切らない様子で軽く唸ると、「正直に言うと――」と、語りだした。


「あいつはお前を呼ぶ事に反対していたんだ」


 そう言って、同じ天幕内の端に敷かれた簡易式の寝台の上で眠っているアメンヘルケプシェフに目をやる。


 相手の魔術師がリラである可能性が高くなるにつれ、アメンヘルケプシェフはカエムワセトに救援を要請する事に対し否定的になっていったという。


 将同士で意見が分かれていた事を知らされ、カエムワセトは戸惑う。


「ですが、手紙には『救援を求める』と」


 俺が押し通した。とラメセスが答えた。


「お前はきっと全てを背負いこもうとするだろうと、あいつは言ってたよ」


『カエムワセトがこの場に来たら、エジプト軍の命運を託す事になってしまう。その上、相手方の魔術師の命、我々兄達の命すら、弟はその手で守ろうとするだろう』


 そんな事は不可能だと分りながら、それでもやろうとするのがカエムワセトだ、とアメンヘルケプシェフは言明したのだ。


「こういう事だったのかもしれんな」


 ラメセスはぽつりと言った。


 戦局を覆すほどの力を持って現れ、兄の命を救い、更に今、相手方の魔術師をその身一つに請け負おうとしている。

 正にアメンヘルケプシェフの言う通りであった、とラメセスは兄の明察に頭が下がる思いだった。

 だが、自分の判断について後悔をしていないのもまた事実である。


「もはやお前の魔術なしでは負けは確実だと主張した俺の意見も間違ってはいない」


 ラメセスはそう断言した。

 まさか魔術師となって現れるとまでは思っていなかったが、対魔術に関するカエムワセトの力や知識は必須だったのだ。


 自分もアメンヘルケプシェフもカエムワセトを信じていたからこそ意見が食い違ったが、呼び寄せた事は誤りではなかったはずである。でなければ、エジプトは皇太子を失い、都を奪われていただろう。

 しかし、だからといって救世主の如く現れた一人の人間に全てを背負わせるなど、最高司令官として、また兄としても断じてするべきではない。愚の骨頂である。


「悪いが魔術師はお前に任せた。隣で傷つく兵士を無視しろというのも、お前には従えぬ指図なのだろう。だがら、カエムワセト」


 せめて俺の命は気にするな。


 それが兄として、また軍を統べる最高司令としてカエムワセトに下せる唯一の命である。と、ラメセスは言った。


「誠に情けない兄ですまんな」


 申し訳なさそうに笑うラメセスに、カエムワセトは頭を振った。


「武では変わらずお役に立てませんが、魔術は私の得意分野です。今回ばかりは、私の土俵ですよ」


 王宮で“不抜け”と呼ばれている第四王子は、「だから今は頑張らせてください」と兄に向って腰を折った。


 その時、司令官の一人が、リビア兵が再び現れた、と天幕を開いて口早に報告した。


「いくぞ」


 眼光を鋭くしたラメセスが先に天幕を出て行く。

 カエムワセトは頷くと、「では兄上。また後ほど」と背水の陣を敷いても自分を思いやってくれた優しい長兄に静かにいとまを告げる。そして、次兄である最高司令官の後ろに従った。


 体勢を立て直したリビア軍は、再び整然とした軍勢でエジプト軍の前に現れた。

 魔術師を乗せた輿は元通りに直されており、風にはためく天幕の隙間からは、金色の髪が見え隠れしている。


 何としてでもあそこまで行かなければならない。今度こそ。


 戦車に乗りこむ兄の傍で、カエムワセトは敵軍の最奥を凝望ぎょうぼうし、拳を握りしめた。


 ラメセスが乗る戦車に繋がれた軍馬が、今再び始まろうとしている激戦に気を高ぶらせ、目を血走らせながら左に右に足を運ぶ。

 手綱取りは馬をなだめながら戦車の位置を調整した。


 ラメセスが後方に広がるエジプト兵達に向かい、声高らかに剣を掲げる。


「エジプトの戦士よ! 黒き大地のもののふよ! 我々は多くの同胞を失った! 友が倒れ、傷つき、これからの戦いに恐れを抱いている者もいるだろう! だが、もはや我らに退ける道は残されていない! 例え血を流そうとも、闇に落ちようとも! 汝らの地と、大切に思う者全てに賭けて! 槍を振るえ! 敵の盾を砕け! 剣を握り続けよ! アメンは汝らと共にあり! 十万の敵とて恐るるな! 今こそ真の勇士となれアメンの子らよ!」


 太陽の光に照らされ、ラメセスの剣先が輝いた。


 ラメセスが熱くふるった弁舌に鼓舞されたエジプト兵達は、剣や槍を掲げ、ときの声を上げた。


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