第69話 皇太子の回復

 エジプト側にも魔術師が現れた事により、リビア軍は退却を始めた。体勢を立て直すつもりなのだろう。

 リビア軍が退却する中、潰れた天幕の下から一人の人間が担ぎ出されたのをカエムワセトは見た。太陽光を反射する金色の長い髪。細く小さな身体。薄いグリーンの服。


 やはり、リラである。


 気絶しているのだろう。リビア兵の腕に抱えられたリラの四肢は、だらりと垂れ下がっていた。

 今すぐあの場に行って、リラを助け出したい。取り返したい。という衝動に駆られ、カエムワセトは一歩前に踏み出した。

 その時、後ろから名を呼ばれた。


「カエムワセト。お前、いつの間にそんな力を手に入れた」


 地面に這いつくばったラメセスが、呆けたように自分を見上げていた。


「遅くなり申し訳――」


 申し訳ありません。と到着が遅れた事を詫びかけたが、這いつくばったラメセスの下で守られるように横たわっているアメンヘルケプシェフの姿を目の当たりにして慌てて駆け寄る。


 ラメセスは、覆いかぶさっていたその身をどけると弟に兄の傷口を見せた。


「医者にも神官にも、もうどうにもできん」


 俺が傍に居ながら、すまん。ラメセスは両膝に置いた手を握り締め、自分の不甲斐なさを心の底から詫びた。

 傍にひかえていた医者と神官もラメセス同様、己を責めるように下を向く。


 しかし、カエムワセトは手の施しようが無い兄を見るなり、安堵した様子でこう言った。


「よかった。まだ息がある……」


 まるで回復の見込みがある様な物言いに、ラメセスのみならず医師や神官までもが怪訝な面持ちでお互い顔を見合わせた。


「水はありませんか。水袋一杯分でいいので」


 カエムワセトが医者と神官に清水を要求した。


「ああ、はい。今すぐ!」


 最も早く動いたのは神官だった。ラメセスと医者は、砂に足を取られながら慌てて陣営に飲み水を取りに走る神官の後ろ姿を見送った。


「何をなさるおつもりですか?」


 神官の背中が砂丘の下に消えると、医師がカエムワセトに聞いてきた。


「知り合いの魔術師がやっていた治療法です。傷を癒すだけであれば可能かと」


 治るのか。この深手が。


 ラメセスと医師は、信じられない思いで皇太子の左横腹から右胸にかけて斬り裂かれ貫かれた傷口を見た。

 皮の鎧。白い腰巻。傷口から溢れる血液はそれらを赤く濡らし、彼の身体を支えている板にできた血溜まりは、今もその面積を広げ続けている。


「カエムワセトお前。魔術師にでもなったのか?」


 先程の砂嵐といい、瀕死の重傷を治せるという言動といい、人間離れしたその力は魔術師そのものである。

 兄からの問いに、カエムワセトは「さあ。まだよくは分らないのですが」と曖昧に笑った。


 そこに、赤子ほどの大きさの水袋を抱えた神官が戻って来た。


「こ、これで、よろしいですか」


 神官は、ぜえぜえと肩で息をしながら、満タンに水が入った茶色い水袋をカエムワセトに渡す。


 カエムワセトは、ありがとうございます。と礼を言って水袋を受け取った。ずっしりと重い袋を抱えたカエムワセトは、ラメセスに袋を支えていてくれるよう頼む。

 ラメセスは言われるまま、飲み口を上にして蓋を開け、中の水がこぼれないよう水袋を支えた。

 カエムワセトは兄の腰にある剣を「お借りします」と抜きとった。左手の親指の腹にその剣先を押しつけると、ぐっと力を入れ切り傷を入れた。


 左親指にぷっくりとした血の球ができる。カエムワセトは血の球を乗せた親指を水袋の飲み口の上に持ってゆき、そこで血を絞り出すように指の腹を押さえながら親指を傾けた。


 ぽた。ぽたり。と虫の卵ほどの大きさの血の球が三滴、水袋の中に入る。


 カエムワセトは剣を横に置き、ラメセスから水袋を受け取ると、中身を撹拌かくはんさせるように振って回した。

 次に自分の血液を混ぜた中身を、アメンヘルケプシェフの傷口にどばどばとかけてゆく。


 大量の水が傷口を洗い、傷口に溜まった血液を押し流した。アメンヘルケプシェフの身体を伝った水は板の上の血溜まりと混ざり合い、赤黒い流れとなって板上から滑り落ちて砂に吸収されてゆく。


 カエムワセトが水袋の中身を全て使いはたした頃。


「ああっ!」


 まず初めに医師がその変化に気付き、驚嘆した。


「傷が!」


 続いて神官が。


 目の前で、アメンヘルケプシェフの傷口が底から盛り上がり、切断された組織が繋がるように塞がってゆく。


 やがてアメンヘルケプシェフの腹から胸を横切っていた深手は、その跡をうっすら皮膚に残すのみで治癒した。

 よく見ると血液混ざりの砂が、傷口に沿うように肌の上に残っている。カエムワセトの造り出した魔法の水は、傷を塞ぐだけでなく異物も押し出したらしい。


「よかった……うまくいった」


 ラメセス、医師や神官達が言葉を失って奇跡のような治癒を見守る中、カエムワセトは心底ほっとした様子で砂の上に座りこんだ。


「信じられん」


 ラメセスが茫然と呟く。


「傷は癒えましたが、失った血までは戻せません。ゆっくり回復を待つしか」


 回復、という言葉にラメセスは目を見開いた。


「つまり、助かったのか?」


 驚愕と興奮に唇を震わせ、弟に確認する。


 はい。とカエムワセトは頷いた。


「兄上はお強い人です。すぐに目覚められますよ」


 目覚める。


 その一言は、ラメセスの両目から涙を溢れさせた。


 目尻から顎にかけて伝った感涙を拳で拭ったラメセスは、魔術師となって自分達の元に駆けつけた弟の肩を強く掴んで揺すりながら、笑い声を上げた。

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