第67話 地の底からわき上がる風
アメンヘルケプシェフが負傷した。重傷だ。
剣で斬り上げられたところ、魔術師が作り上げた蛇の怪物に腹を噛まれた。大蛇の噛み傷は、切創の上から傷口を更にえぐるように横腹に穴をあけていた。
もう駄目だ。臓器をやられてしまっては――。
ラメセスは板の上で横たわる兄を前に、うな垂れた。
アメンヘルケプシェフが噛みつかれてすぐに蛇の怪物を斬り倒し砂に戻したが、アメンヘルケプシェフが負わされた腹の傷までは戻せない。
負傷した兄の身体を抱え、医療班が待機する後方まで連れて来ることはできたが。
医者も神官も傷口を見た途端、傷に触れるまでも無く諦めたように首を横に振った。
「申し訳ありません……」
医師が渋面の中で詫びた。
ラメセスはアメンヘルケプシェフの傷口にそっと触れた。血溜まりの中に、ざらりとした感触が指先に伝わる。
砂だ。蛇の怪物の置き土産だ。
砂の怪物は斬ればただの砂に戻るが、何度も何度も再生する。獅子。大蛇。巨大なサソリ。それらは砂の中から現れ出でてはエジプト兵を斬り裂き、貫き、蹴散らしてゆく。
「何てものを作りやがるんだ……!」
兄の血に濡れた手を固く握り、ラメセスは奥歯をぎりりと噛んだ。
「大将がこんな所でなにしてる。早く指揮をとりに戻れ」
瞼を開けたアメンヘルケプシェフが弱々しい声で言った。その四肢は力なく板の上に横たわるのみで、頭を動かすどころか、もはや痛みにもがき、苦悶の表情を浮かべる力すら残されていない様子である。
「お前を置いて行けるか」
涙を堪える子供の様な情けない顔で言って返してきた弟に対し、アメンヘルケプシェフが「馬鹿を言うなよ」と薄く笑った。
「俺の死は悟らせるな。士気が、下がる」
遺言のようにそう告げると、アメンヘルケプシェフは再び瞼を閉じた。
息はある。まだ死んではいない。だが、時間の問題だ。
「ちくしょう!」
医師や神官が絶望的な表情で見守る前で、ラメセスは拳で砂の大地を打ちつけた。
「カエムワセトはまだか!」
血を吐く思いで、実弟の名を呼ぶ。
今朝がた、神官の魔力を結集して鷹を送らせた。救援要請は既にカエムワセトの手元に届いているはずだ。何故来ない。相手の魔術師が弟の知り合いである可能性まで示唆したと言うのに。
――否。来た所で何ができる。俺は弟まで死なせるつもりか。
ラメセスは自嘲気味に笑った。
あんな強大な魔力の前では、弟も流石に歯が立たないだろう。
ラメセスは敵陣の後方に見える天幕に覆われた輿を見た。魔術師はあそこにいる。あそこで敵の将が命ずるままに、砂の怪物を次々と作りだしては襲わせている。
作り出される物が化け物なら、それを作り出している魔術師も化け物か。
魔術師を弓で射れたらいいが、遠すぎて矢が届かない。
ぺル・ラムセスはすぐ後ろだ。リビアの砂漠地帯で初めて兵をぶつけ合ったのが三日前。
砂で作りだされた怪物の出現はエジプト軍を混乱の渦に陥れ、あっという間にセト師団を全滅させた。それからは幾度か踏ん張りながらも後退を繰り返し、エジプト領まで来てしまった。魔術を伴った冗談の様な攻撃の下、圧倒的な戦力の差をもって、今やエジプト軍は半数にまで減らされてしまった。
ラメセスは叩きつけた拳で砂を握りしめた。
都は何としてでも守りたかったが――
「撤退を……」
するしかないのか。
これ以上の戦いは、ただ犠牲者を増やすだけである。
顔を上げ、撤退命令を下そうと口を開きかけた。
その時。頭上から笛を吹いた様な、甲高い音が鳴り響いた。
「――鷹が」
神官の一人が空を仰ぎ見て目を見張った。
ラメセスの背中にぞくりと悪寒が走った。
何かが来る!と本能が警笛を鳴らした。
「全軍、そのまま伏せろ!」
大声で命じ、自身も兄を守るためその身に覆いかぶさる。傍に居た医師や神官達もその場にかがんだ。ラメセスの叫びを聞きとれたエジプト兵達が命令通り身を伏せた。
次の瞬間、大地の底から風が起こった。横に両腕を伸ばしているかのような形で沸き起こった風は、波を起こすが如く砂を持ち上げた。その風はそれ自体が形を持っているように、内に砂を巻き込みながら目の前の戦場に襲いかかる。
エジプト兵もリビア兵も、迫りくる巨大な砂嵐に身を低くした。
「リラーっ!!」
ラメセスの前で、叫び声がした。ラメセスは顔を上げた。
とてつもない暴風と巻き上がる砂の中、ラメセスは一人の男の後ろ姿を見た。
蒼いシリアの衣裳に身を包んだ弟、カエムワセト。
彼自身も全身に風を受け、そのたっぷりとした袖や裾を後方に強くはためかせていた。
だが、彼は屈さずそこに立っていた。風の始発点に。
カエムワセトを中心に起こった波の様な砂嵐は、敵味方の全てを飲み込み砂の怪物を薙ぎ払いながら、瞬く間に敵陣の最奥までその両腕を到達させた。
魔術師を乗せた輿の天幕の裾が風に圧されバタつき、やがて天幕は輿ごと大きく後方に吹き飛ばされた。
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