第66話 リビアへ飛ぶ

 砂粒が体中を打ちつける。身体の内からとめどなく溢れる暴風と砂。止め方が分らない。


 目の中に砂が入らいよう手をかざしながら、カエムワセトは薄眼を開けた。

 自分を中心に、砂が渦を巻いて天へと昇っているのが見えた。

 思っていたほど顔の周りに砂は飛んで来ない。カエムワセトはゆっくりと掌を下ろした。


 立ち昇る砂の間から、ラムセス二世がアンナを助け起こすのが見えた。「おい!こっち手をかせ!」と彼が助けを呼ぶと、アーデスが駆け付けた。アーデスはラムセス二世とアンナに覆いかぶさるようにしながら二人を守った。移動した三人はカエムワセトの視界から消えた。


 不思議だった。これだけの力で砂が空へ押し上げられているというのに、自分の足はしっかりと地面をとらえている。足元の濡れている床は、浴槽の底だと思われた。そこにあった大量の水は一滴も残っていなかった。蒸発したか、全て飛び散ったのかもしれない。


「殿下!どこにいらっしゃるんですか!?」


 ライラの呼び声が聞こえた。

 両腕で顔を守りながら砂と瓦礫の中を自分を探し回るライラの姿が、流れる砂の隙間から見えた。


「ライラ!ここだ!」


 叫ぶとライラがこちらを見た。しかし、視線は合わなかった。こちらの声は届いていないのだと分った。


 突如、目の前の砂の中から兵士が飛び出してきた。遊牧民の姿をした男は手に剣を持ち、カエムワセト向かってそれを振り下ろした。

 カエムワセトはとっさに腕で庇った。だが、男の剣はカエムワセトの左肩から右下腹部へとすり抜けた。

 わけが分らず目を瞬いていると、次に遊牧民の兵士を乗せたラクダの群れが現れた。それもカエムワセトの身体を通り抜け、後ろの砂の壁に消えた。再び前を向くと、兵士の一人がラクダの上から身体を倒し、大ぶりの剣を下から振り上げて来た。が、やはりその切っ先も横腹から胸にかけてすり抜けた。


「アメンヘルケプシェフ!」


 後ろから呼び声が聞こえた。振り返ると、血相を変えたラメセスがこちらに走って来るのが見えた。


「兄上!?」


 ラメセスがこちらに腕を伸ばす。しかしその腕が届く前に、横から何か大きな塊が兄と自分との間に飛び出て来た。

 

 ―― ライオン!?


 に見えた。しかしそれは、実際に生きているそれではなかった。砂で出来たライオンが本物のように動いてラメセスを襲っていた。ライオンがその鋭利な牙を剥き、強靭な前足でラメセスを捕えようとした時、ラメセスが剣で横に薙ぎ払った。ライオンは砂となって崩れ落ちた。


 これは魔術だ。

 カエムワセトは確信した。

 リラの魔術だ。


 自分が今見ているのは、リビアの光景だ。


 ぽたり。と足元に雫が落ちた。赤い。血液だ。

 しかし、自分はどこにも怪我を負っていない。


 ならばこれは、誰の血だ?


 兄ラメセスが呼んだ名は、自分ではなく第一王子のものだった。

 この血は、アメンヘルケプシェフの――


 足元に広がっている血溜まりを見下ろし、カエムワセトは青ざめた。その時。

 左横から太く長いものが飛び出し、視界を覆った。次の瞬間には、砂でできた蛇の頭が自分の横っ腹に噛みついていた。

 痛みは無い。

 これはやはり、アメンヘルケプシェフが見ている光景なのだ。


「どうすれば――」


 カエムワセトは焦った。アメンヘルケプシェフが死ぬ。エジプトの皇太子が。親友のような兄が。


「リビアへ行かなければ。兄上達の所に」


 リラは神出鬼没だった。どこからともなく現れ、いつの間にか消えるのが常だった。

 ならば、自分にもそれができるはずだ。


「お願いだ。私を兄上達の元に連れて行ってくれ。この光景の中心へ!」


 カエムワセトは自分の奥底から溢れる魔力と自分を囲む砂の柱に祈りながら、砂の流れに手を伸ばした。指先が流れる砂の表面に触れ、中に入る。砂は物凄い勢いで空へと上昇しているというのに、押し上げられる手応えが全くなかった。


―― この中に入ればいい。


 自分の中の何かが、そう回答した。勘の様なものなのかもしれないと思った。

 否。勘より確かだと、本能が言った。これは脈々と受け継がれる血の記憶であり、魂の教えである。生まれたばかりの動物が立ち上がろうと四肢をふんばるように、赤子が誰に教えられるでもなく乳を捜すように、疑う必要のない導きなのだと。

 ならばやってみるしかないとカエムワセトは腹を決めた。


 カエムワセトは腕を砂の流れに差し入れたまま、一歩前へ踏み出した。

 その時、鷹の甲高い鳴き声が聞こえた。


「――サシバ?」


 一羽の鷹が砂の柱の向こうから飛び込んできた。



「おい!殿下があの中なら、どうやって出て来るんだよ!?」


 ジェトが、ラムセス二世に上体を支えられているアンナに詰め寄った。すかさずミリアムがジェトを押しのける。


「アンナ様はお疲れなの!少しそっとしといてあげてよ!」


「んな悠長なこと言ってる場合じゃねえだろ!天井吹っ飛んでんだぞ!」


 ジェトは砂塵の向こうに見える青空を指差しながら、ヒステリックに叫んだ。本来、浴室の天井だった場所は跡形も無くきれいさっぱり消えている。


「多分、そのうちおさまると思いますが」


「そのうちってどのうちだよ」


 ラムセス二世からの問いに、アンナが「分りません」と答える。


 はあ~!?


 そこにいた面々が仲良くコーラスした。


 アンナは、覚醒の方法は書物に書いてあったが、その後に起きる現象については明記されていなかった事を説明した。


「記述されていない事は私にも分りません」


「これだから本の虫は!!」


 アンナの物言いに対し、ジェトが髪をかき回して吠えた。


「八つ当たりはやめてください!」


 再びミリアムがジェトに物申す。


「どうすんのよ。こんな竜巻、下手に近づけないわよ」


 パシェドゥが困り果てた様子で、全く勢いが衰えない砂の竜巻を見上げた。これでは災害も良い所である。

 その時、ダリアの右肩に停まっていたサシバが、けたたましく鳴いた。突然の事に、そこにいる者達が驚いて目を丸くする中、羽ばたいたサシバはダリアの肩から飛び立ち、砂の柱へと一直線に飛翔した。

 止める間もなく、そのまま頭から砂の流れに突っ込む。


 途端、砂の流れが止まった。高く昇っていた砂の柱が一気に下へと崩れ始める。


「伏せろ!」


 アーデスの声で、全員が姿勢を低く床に伏せた。

 砂の塊が床を打つ音と共に、そこにいる者達の背中に砂塵が積もってゆく。


 やがて砂の音が落ち着き、床に伏せていた面々は恐る恐る顔を上げ、身を起こした。何人かは口に入り込んだ砂をぺっぺと吐き捨てている。

 全員が、たった今までそこに轟音と共に立ち昇っていた砂柱があった場所を見やる。


「誰もいない……」


 頭に砂を積もらせたまま、呆けたようにカカルが言った。

 浴槽の中には砂が積もっているだけで、人の姿はなかった。サシバも居ない。


「ちょっとあんた!中にいるって言っただろ!」


 ジェトがアンナに怒鳴る。


 確かにいらっしゃいました。とアンナは静かに答えた。


「リビアへ発たれたのではないかと」


 カエムワセトがリビアへ行ったから、砂の柱が消えたのだ。とアンナは言った。


「そんな――嘘でしょ!?」


 血相を変えたライラが、浴槽に飛び込んで積もった砂を必死にかき分けてカエムワセトの姿を探す。


「殿下!殿下!でんか!――でっ……」


 しかし、やはりそこにはもういないのだと理解したライラは、ずぶずぶと腰まで砂に飲み込まれながら、こみ上げてくる感情に鼻をすすりあげた。両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 ライラはずっと握り締めていた右手を開いた。金の小ぶりの耳飾りと、指輪がまだそこにある。


 すぐに戻ると言ったのに。


 ぼたぼたと落ちる涙を拭いもせず、悔しげに掌の中で光る物を見つめた。


 置いて行かれた。初めて。もう追いかける事さえ叶わない。


 ううっ。と嗚咽を漏らし始めた赤髪の女戦士の背中に、アーデスが「ライラ」と躊躇いがちに声をかけた。


「とっ――」


 ライラが口を開いた。そして、空に向かって雄たけびを上げた。


「鳥じゃなくて私を連れて行きなさいよーっ!」


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