第65話 砂漠の魔術師
アンナが先に浴槽に入った。
黄色いドレスの裾が水面に浮かび上がり、腰まで浸かると柔らかな髪が放射状に広がる。
くるりと振り返り、どうぞ。とカエムワセトに細腕を伸ばした。
まさか女性にエスコートされる事になるとは思っていなかったカエムワセトはアンナの手を取るべきか一瞬迷ったが、手助けを受けると決めた以上は従うべきだろうと判断し、素直に手を引かれ水に身体を沈めた。
手を引かれながら前に進むと、ひんやりとした水と濡れた衣服が身体にまとわりついた。灼熱のエジプトで水浴は非常に心地よいが、ここでは少し寒く感じる。
アンナは、覚醒の儀式に挑む男の両手を取ると、再び説明した。
「大抵、人は一生涯魔力の性質は変わりません。生まれてから死ぬまで同じです。ですから今回は生まれ変わるおつもりで。苦しいですが、覚悟なさってください」
「分りました。暴れないようにします」
カエムワセトが苦々しい顔で返した。
アンナは歯を見せて笑った。
「暴れてもかまいませんよ。できるものならね」
その言葉からは、アンナの、魔術に対する自負が伺えた。
「では出来る限り息を吐き切って。息を吐き切ったら、頭の先まで沈んで下さい」
カエムワセトは指示通り、息を限界まで吐いた。続いて身体が酸素を吸いこもうとする前に、一気に水中に潜った。
既に苦しい。
水面に顔を上げたくなる。視線だけで上を見た。図上では幾つもの変形した円が光を放ち、その向こうにアンナの輪郭が映っている。
苦しさが増してゆく。指先から身体がどんどん重くなるのを感じた。
ぎゅっと目をつぶった時、アンナがカエムワセトの頭を抱え、胸元に引き寄せた。
頑張れ、と無言の応援が伝わってくる。
しかし、カエムワセトの本能は早くも意志を上回り始めた。少し身体を上に伸ばせば、空気がある事を知っているその身体は、水面を求めて動きはじめる。
とその時、身体の動きが止まった。“止まった” と言うよりは、“止められた” に近かった。カエムワセトの全身を包んでいる水が、まるで石に変わったように固くカエムワセトの身体を固定した。目を開けるどころか、指一本動かせない。
恐怖が芽生えた。
こんな声も出せず瞼すら開けられない状態で、アンナは果たして自分の状態を正しく認識できるのだろうかという疑問まで湧いてきた。
身体が限界に達した。
本能は、もはやとうに意志を凌駕している。息苦しさに堪りかねた身体は、反射的に空気を求めて水の中で空気を吸い込もうとした。ここで鼻から水を吸い込んでしまうと気管や肺に入ってしまう。だが、それすらも抑え込まれてできなかった。
意識が薄れる中で死を感じた。水の中がただの暗い世界に変わった。
暗闇の向こうから何かが近付いてきた。人だった。茶色く干からびた人間。男か女かすら分らない。それは暗い水の中を泳ぐようにカエムワセトにゆっくりと両手をのばし近づくと、骨と皮だけの顔を寄せてきた。目を閉じている。恐ろしくは無い。だがどこかで見覚えのある顔だと感じた。正面にきて、ようやく気付いた。自分だと。
次の瞬間、干からびた自分が両目をカッと見開いた。茶色い顔が青いロータスの花に変わった。蒼いロータスは内から弾かれるように、一斉に花弁を捻じり散らせた。
何かが身体の中でひっくり返った。
指先が動いたと思ったら、鼻と口から僅かに外気が入り込んだのを感じた。途端、身体の奥底から何かが爆発的に外へと吹き出した。
ざらりとした懐かしい感触が指に触れた。
―― 砂?
アンナの悲鳴が聞こえた。
部屋の外で控えていた者達の耳に、
地鳴り。水が大地から一気に噴き出したような音。大瀑布。その音に対して各々が抱いたイメージは異なったが、そのどれも腹の底に響く様な轟きという点では一致していた。
その音に続いて、女の悲鳴が聞こえた。
真っ先に動いたのはラムセス二世だった。他の面々も、ファラオに続いて浴室に駆け入る。
入った途端、何か無数のものが体中を叩きつけた。それと共に、足の裏に先程にはなかった感触を覚えた。
「砂!?なんで?」
カカルが目を丸くして叫ぶ。
暴風に乗って全身を撃って来るのは砂の粒。床に広がっているのは砂地。まるで砂漠で砂嵐に遭っているようである。
「なんじゃこりゃ!?」
つづいてアーデスが空を見上げながら声を上げた。
彼らの目の前には、砂の柱があった。浴室の天井を砕いたそれは、天に向かって真っすぐ、螺旋を描きながら登っている。暴風と砂塵はそこから生まれているのだと分った。
「おい!こっち手をかせ!」
浴室の壁際で気を失っていたアンナを抱えたラムセスが助けを求めた。アンナを抱えたはいいが、砂塵が酷く目を開けられないようである。
駆け付けたアーデスが背中で二人の盾になり、襲ってくる砂塵を防いだ。
ようやく目を開けられたラムセス二世は、腕の中のアンナを暴風から庇いながらアーデスと共に戻って来た。仲間達の後方に回り、アンナを床に下ろす。
ミリアムとヘレナがアンナに駆け寄り、息を確かめた。
「大丈夫。気を失っているだけよ」
ヘレナが自身も安堵しながら、目に涙を浮かべてアンナの手を握るミリアムの肩をさすった。
「殿下はどこにいらっしゃるの?!」
腕で襲い来る砂塵を防ぎながら、ライラはカエムワセトの姿を求めて浴室をくまなく探す。だが、そこには人影がなかった。
ならば、残る可能性は一つである。ライラは浴槽の中から轟音と共に天高く立ち昇っている砂柱を見上げた。
「おいアンナ!息子はどこだ!?」
ラムセス二世がアンナの肩をゆすり、目を覚まさせようとする。
目をむいたミリアムが「乱暴しないで!」と叫んだ。
二人の声に応えるように、アンナの瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。薄く両目を開けたアンナは、腕を伸ばして指を差した。
「殿下は、あそこに」
白い人差し指と掠れる声で示された場所は、ライラが予想した通り、巨大な砂柱の中だった。
「覚醒は無事終わりました」
そこに居る全員が茫然と砂柱を見つめる中、アンナが興奮した面持ちで告げた。
「砂漠の魔術師の誕生、ですね」
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